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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
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第46話:遠征軍、灰色の休戦条約、命を刈り取る地獄の娘

「来おったな、マクシミリアン」


 重厚な石造りの壁に、野太くも鷹揚な声が反響する。

 夜の帳が完全に下りたオルコット辺境伯領。

 ダルトン領を出発した調査隊は、熱を帯び始めた初夏の夜風を纏いながら、最果ての地への拠点となるこの堅牢な屋敷へと到着していた。

  マクシミリアン、オーウェン、そして身分を隠したサフィアンを含む一行を迎えたのは、辺境特有の重く湿った風と、屋敷の周囲に蠢く尋常ではない数の気配である。

 目指す先は、辺境伯領のさらに北。

 辺境伯領の北に広がる旧ノルトヴァルト侯爵領跡地、そのさらに北部にある最果ての地。

 その未知なる領域へ向かうため、この静寂に包まれた領地には、到底「調査」という言葉には収まりきらない規模の戦力が集結しつつあった。

 それはただの調査隊というよりも、新たな国家を切り拓くための遠征軍と呼ぶにふさわしい威容であった。


「部下たちが世話になっている。面倒をかけてすまないな、オルコット」


 マクシミリアンは、案内された広間の入口で足を止め、短く礼を述べる。


「あのベルン殿の頼みとあっては、しょうがなかろう」


 マクシミリアンの視線は、その屈強な肉体を包む「布地」へと目を奪われていた。

 そのせいで、オルコットの返事が全く頭に入ってこない。


「それはそうと、何です? その寝間着は」


 絞り出すような声には、戦場では決して見せることのない戸惑いが混じっていた。


「おお、気づいたか。さすが将軍、お目が高い」


 オルコットは、目尻の下がっただらしない笑顔を浮かべ、両手を広げてみせた。

 質実剛健を絵に描いたような武門の長の屋敷。

 その厳格な空間の中で、老将が身に纏っているのは、常軌を逸した特注サイズの寝間着であった。

 淡く、どこか浮かれたようなピンク色のシルク生地。

 その上を這うように、毒々しいまでに鮮烈な蒼紫色の薔薇が、幾重にも蔦を絡ませながら描き出されている。

 戦場を血に染めてきた「剣鬼」の異名を持つ男が、就寝前のひとときを過ごすために選んだ装束としては、あまりにも理解の範疇を超越していた。


「ああ、いや、それ、アレですよね? アルベルト殿下の旗の……」


 マクシミリアンは、直視することを本能的に避けるように、僅かに視線を逸らす。

 筋骨隆々とした歴戦の猛者が、ピンク色の生地に包まれているというアンバランスさは、物理的な刃よりも鋭く視覚を苛んでくる。


「この寝間着なんじゃがな、実に肌触りが滑らかで着心地が良い。少々暑くなってきたこの季節にぴったりの通気性の良さじゃ」


 オルコットは胸を張り、自慢げに生地の質感を指先で確かめる。

 その瞳には、一点の曇りも、羞恥の欠片も存在しない。


「……え、ええ。そうなんですね」


 マクシミリアンは、周囲に控えている辺境伯の家臣たちや侍女たちの顔を盗み見る。

 誰一人として、主のその異様な姿にツッコミを入れようとはしない。

 完全に日常の光景として受け入れているその沈黙が、逆にマクシミリアンの背筋に冷たい汗を伝わせる。

 辺境では、これが普通なのか。

 思考の泥沼に足を踏み入れた瞬間、脳裏に一つの凄惨な記憶が蘇る。


(あの時、口に突っ込まれたパンツもこの色と柄だったよな……)


「この寝間着を着ておると、メリーちゃんに優しく包まれておるような気がしてくる。お主もどうじゃ? 特注サイズを注文してみんか?」


 オルコットの無邪気な提案が、マクシミリアンの意識を現実に引き戻す。


「ああ、いえ、これからしばらく野営になるので、寝間着は不要かと」


 マクシミリアンは、顔の筋肉を引き攣らせながら、やんわりと、しかし断固たる意志を持って拒絶する。

 メリーちゃん。

 その響きに、禍々しい笑顔の、あの少女の顔が重なる。


(メリーちゃんってアレだよな? 私の左腕の治療をした、ダルトン邸にも居た、あの悪鬼のような少女の事だよな?)


 マクシミリアンは、戦場の恐怖とは全く異なる種の戦慄に襲われ、無意識のうちに己の腕をさすっていた。

 そういえば、かつて対峙したオルコットの漆黒の甲冑、その胸当てにも、これと同じ毒々しい蒼紫の薔薇が彫り込まれていたことを思い出す。


「ところで、傷の方はもう大丈夫なんです?」


 マクシミリアンは、これ以上の精神的負荷を避けるため、強引に話題の軌道を修正する。


「ああ、もう大丈夫じゃ。さすがにあの大剣はもう振れんがな」


 オルコットは、かつてマクシミリアンの剣に砕かれた左肩を、ぐりぐりと回して見せる。

 部屋の明かりを受け、盛り上がった筋肉の動きに合わせて、シルクの生地が爬虫類の皮膚のように生々しく光沢を放った。


「『剣鬼』は引退じゃ。息子のガレルにすべて引き継いだ」


 老将の声には、一抹の寂寥と、それ以上の晴れやかな未練のなさが滲んでいた。


「ガレル殿。あの時、最前線にいた大柄な男の事ですな」


 マクシミリアンは、アルベルトと『剣鬼』オルコットと並んで最前線にいた屈強な戦士の姿を脳裏に思い描く。


「ガレル、こっちに来て将軍に挨拶をせい」


 オルコットが広間の奥に向かって声を張り上げる。


「おお、将軍が来ているのですか」


 奥の扉が開き、分厚い扉の枠を埋め尽くすような巨体が、ひょっこりと顔を出す。

 現れたガレルは、父親にも勝るとも劣らない筋骨隆々の肉体を誇っていた。

 そして、その巨大な肉体を包んでいたのは、父親とお揃いの、淡いピンクの生地に蒼紫の薔薇が這い回るパジャマであった。


(……ヤバイ、この領はヤバイ。オレの戦場で鍛えられた勘が警鐘を鳴らしまくっている)


 マクシミリアンの本能が、ここから一刻も早く立ち去れと悲鳴を上げる。

 戦術も武力も通用しない、未知の空間領域に放り込まれたような絶望感。


「あ、ああ。オーウェン、お前も挨拶……」


 一人でこの狂気に対峙しきれないと悟ったマクシミリアンは、背後に控えているはずの部下を巻き込もうと振り返る。

 しかし、そこにオーウェンの姿はなかった。

 元百人隊長として数多の死線を潜り抜けてきた男の勘が、主君よりも一足早く絶対的な危機を察知し、音もなくその場から退避させたのだろう。


「……」


 マクシミリアンは、己を置き去りにした部下の生存本能を呪いながら、圧倒的なピンク色の質量を前に、ただ沈黙することしかできなかった。


     ──────


 翌朝。

 東の空が白み始め、うっすらと降りた朝露が石畳を濡らす頃。

 オルコット辺境伯邸の広大な前庭には、すでに鋭い風を切る音が響き渡っていた。

 澄み切った冷気の中、剣を振るう二つの影がある。

 一人は、重厚な体躯に似合わぬ俊敏な動きで片手剣を操るマクシミリアン。

 そしてもう一人は、負傷していない方の右腕で木剣を軽々と振るう老将オルコット。

 激しい打ち合いではない。

 それぞれが己の肉体と対話し、失われたものを補うように、あるいは新たな到達点を探るように、黙々と鍛錬を続けている。

 その光景は、かつて王国の頂点を争った武人たちの、静かで熱を帯びた語り合いのようでもあった。

 やがて、屋敷へと続く街道の方角から、規則正しい蹄の音と車輪の軋みが近づいてくる。

 立派な装飾が施された馬車が、広場の入り口で静かに停止した。


「おはようございます、辺境伯。あ、将軍も到着していたんですね」


 御者台から軽やかに飛び降りたのは、商人の出で立ちをした青年だった。

 ベルンである。

 その背後には、音もなく二つの影が付き従っている。

 揃いの制服を纏い、感情の読めない底知れぬ瞳を向ける『海鳥部隊』の少女たち。


「おお、ベルン殿、よく来た。ブラッドレイ子爵は一緒じゃないのか」


 オルコットは木剣を下ろし、汗を拭いながら豪快に笑いかける。

 老将の顔に刻まれた皺が、朗らかな笑みによってさらに深く刻み込まれる。


「ええ、子爵は夜になるでしょうね。ヴォルデン、レグスに寄って来るらしいので」


「西の大商人様。此度は世話になる。早速明日の準備でも始めますか」


 マクシミリアンも剣を納め、歩み寄りながら声をかける。

 その所作には、武門の長としての矜持を残しつつも、開拓の道を歩み始めた清々しさがあった。 


「大商人様はやめてください、ベルンでいいです。拠点構築用の資材の準備をしましょう。手伝ってください」


 ベルンは苦笑いを浮かべ、大仰な肩書きを即座に否定した。


「承知。オーウェン、何人か呼んで来い」


 マクシミリアンは後ろを振り返り、控えていたオーウェンに短く命じた。

 オーウェンは無言で頷き、屋敷の裏手へと駆け出していく。

 その時、一行の背後から、静かな、しかしよく通る声が響いた。


「西の大商人様、初めまして。帝国から学びに来た、サフィアンと申します」


 屋敷の入り口に立っていたのは、身なりこそ質素だが、隠しきれない気品と知性を漂わせる青年だった。

 サフィアンは一歩前に出ると、流れるような動作で一礼する。

 ベルンは一瞬目を見開いたが、すぐに商人の人当たりの良い笑みを貼り付けた。


「あ、はじめまして。ベルンと申します。よろしくお願いします。で、何です? 西の大商人という呼び方が流行ってるんですか? 背筋がムズムズするのでやめて下さ……あ!」


 ベルンは言葉を途切らせ、ふと何かに気づいたように顔をしかめた。


「どうしました?」


 サフィアンが小首を傾げる。


「ああ、いえ。メリーさんって方がいるんですが、『紫の死神』って通り名で呼ばれると、いつも居心地悪そうに、もじもじするんです。彼女の気持ちが今わかりました。……いえ、こちらの話です。すみません」


 意図せず口から飛び出したその名前に、サフィアンの瞳が興味深げに光った。


「メリーさんって、アルベルト殿下と一緒におられる、あのメリーさんですか?」


 その問いに、ベルンは少し驚いた表情を見せた。


「サフィアンさん、あ、サフィアンさんとお呼びしてよろしいですよね。メリーさんにお会いしましたか」


「はい。私もベルンさんと呼ばせていただきます。咲き誇る花のような美しい娘でしたよ。『紫の死神』?」


 サフィアンは、ダルトン領で出会った少女の姿を思い出しながら微笑む。

 あの時見せた圧倒的な生命力と、すべてを見透かすような瞳の輝き。

 その言葉を聞いた瞬間、マクシミリアンの顔色が変わった。


(咲き誇る花のような娘? 命を刈り取る地獄の娘の間違いだろ? 『紫の死神』はあの娘にピッタリじゃないか)


 マクシミリアンは、己の首を落とそうとした、あの恐ろしい満面の笑みを思い出し、無意識に首の後ろをさすって身震いする。

 そして、浅くなっていた呼吸に気付き、一度大きく息を吸って吐き出した。


「帝国から来たと言ったか? どうしてワシのところには敵ばかり集まるんじゃ……」


 オルコットは、サフィアンの身分に今更ながら気づいたように、大きなため息をついた。

 王国の将軍と精鋭部隊、そして帝国の人間。

 それを一人で抱え込むには、老将の肩は少しばかり重すぎた。


「敵じゃありませんよ。『灰色の休戦条約』の調査員証を持っています。これです」


 サフィアンは懐から一枚の分厚い紙を取り出し、広げて見せた。

 そこには、王国と帝国の双方が認めた正式な調査員であることを証明する印章が、重々しく押されている。


「僕、初めて見ましたよ。実在したんですね」


 ベルンは興味深そうにその紙を覗き込む。

 伝説上の産物とまで言われていた特権的な身分証を前に、商人の探求心が顔を覗かせる。


「はい。ですので、ベルンさんの調査に私も連れて行ってもらえませんか?」


 サフィアンは、純粋な好奇心と探求心に満ちた目でベルンを見つめた。

 西の経済を牽引する大商人、ベルン。

  彼が自ら赴く調査に同行すれば、西側で起きている未知の変革の真髄を直接学べるはずだと、彼は確信していた。


「護衛はオレたち『黒鉄』がやる。連れて行ってやってくれ、ベルン殿」


「『黒鉄』は解散したじゃろう」


 オルコットが怪訝な顔をする。

 王都の精鋭私兵団『黒鉄』は、先の戦いで完全に瓦解し、その歴史に幕を下ろしたはずだった。


「開拓集団『黒鉄』だ。剣を鍬に持ち替えて、最果ての地で再起する。王国最強の開拓集団『黒鉄』の活躍を見せてやるぞ」


 マクシミリアンは胸を張り、力強く宣言した。

 その言葉に、絶望の淵に立たされた者の悲壮感は微塵もない。

 あるのは、新たな大地を切り拓くという、純粋な野心と熱量だけであった。


「まだ開拓するって決まったわけじゃありませんよ。ですが、やる気は買います」


「わかっている。護衛の任務はしっかりやるさ。心配するな」


 マクシミリアンは、わっはっはと豪快に笑い飛ばした。


「将軍ー! サボってないで手伝ってくださーい!」


 遠くから、重い木材を担いだオーウェンの声が響き渡る。

 かつての百人隊長が、今は荷運びの労働者として汗を流し、声を張り上げている。


「おう。ちゃちゃっと片付けてしまおう」


 マクシミリアンは、袖をまくり上げながら駆け出していった。

 その頼もしい背中を、オルコット、ベルン、そしてサフィアンが静かに見送る。

 彼らを突き動かしているのは、過去への後悔や未練ではない。

 ただ前を向き、新たな道を切り拓こうとする、圧倒的なやる気と生命力だけであった。


     ──────


 夜の帳が辺境の地を完全に覆い尽くし、空には無数の星々が冷たい光を瞬かせる頃。

 静寂に包まれていたオルコット辺境伯邸の広大な前庭に、多数の足音と馬車の車輪の軋む音が滑り込んできた。

 到着したのは、揃いの商会の制服を纏い、足音一つ立てずに整列する集団である。

 その異質な集団の中心から、迷いのない足取りで歩み出たのは、皴一つない高級なスーツに身を包んだバルカスである。


「待たせたな。ベルン君はいるか? いるな」


 バルカスはよく通る声で告げ、広間の入り口に立つ青年に向けて鋭い視線を放った。


「はい。お待ちしておりました」


 ベルンは深く頭を下げ、静かに一行を迎え入れた。

 その時、バルカスの背後に付き従っていた影の一つが、ふわりと前に進み出る。


「やあ、ベルン」


 月明かりに照らし出されたのは、優雅な笑みを浮かべるヒルデガルドであった。


「支部ちょ、……じゃない。ヒルデガルドさん。貴女も同行するんですか?」


 ベルンは一瞬、かつての上司に対する呼称を口にしかけ、慌てて言葉を濁した。


「不満か? 寂しいもんだな。私の部下だった時は、支部長、支部長、と慕ってくれていたのに……」


 ヒルデガルドは芝居がかった仕草で目を伏せ、大げさに悲しげな吐息を漏らしてみせる。

 しかし次の瞬間には、悪戯を成功させた子供のように、ニカッと白い歯を見せて朗らかに笑いかけていた。


「早速だが、打ち合わせをする。応接室か会議室を貸してもらうぞ、辺境伯」


 バルカスはヒルデガルドの軽口を一切の余韻なく断ち切り、屋敷の奥から姿を現した巨大な影へと振り返る。


「相変わらず勝手な男じゃな。ワシの家を何じゃと思っておる。会議室を使え」


 オルコットは呆れたように大きなため息をつきながらも、屋敷の奥へと続く重厚な扉の方角を顎でしゃくった。


「感謝します。明日のメンバーの隊長クラスは会議室に集合だ。急げ」


 バルカスの短い号令と共に、広間に集っていた者たちが一斉に動き出す。

 重いブーツの足音が石畳を打ち鳴らし、静寂に包まれていた辺境伯邸が急速に熱を帯びていく。

 案内された広々とした会議室には、分厚い一枚板の長机が中央に鎮座し、壁に掛けられた明かりが、集まった男たちの巨大な影を揺らめかせていた。

 ぞろぞろと入室してきた隊長クラスの者たちが、それぞれの席に腰を下ろし、張り詰めた空気が満ちていく。


「さて、まずは明日の朝一番に出発するが、……の前に、知らない顔がいるな。誰だ?」


 バルカスの研ぎ澄まされた刃のような視線が、末席に静かに座る青年の姿を捉えた。


「はい。帝国から経済を学びに来たサフィアンと申します。明日の調査に同行させていただきたく」


 サフィアンは臆することなく立ち上がり、流れるような優雅な動作で一礼した。


「帝国の? 帝国から何を学びに来たというのか。西にあるのは街道と農地、貯蔵庫だけだぞ?」


 バルカスは眉を深くひそめ、疑念の底を覗き込むような声で問い返す。


「はい。それはアルベルト殿下とメリーさんにお聞きしました。私が見たいのは西の王とまで呼ばれているベルンさんです」


 サフィアンは真っ直ぐにベルンを見つめ、静かな、しかし確信に満ちた声で淀みなく答えた。


「なるほど、彼らに会ったか。西の王というのは誇張ではない。帝国からベルン君を見に来たという慧眼、ただ者ではないな」


 バルカスの表情から剣呑な気配がわずかに和らぎ、代わりに目の前の青年を探るような光が瞳に宿る。


「はい。『灰色の休戦条約』の調査員証を持っています」


 サフィアンは懐から分厚い紙を取り出し、長机の滑らかな表面へと滑らせた。

 そこには、二つの大国が互いに認めた重々しい印章が、くっきりと刻まれている。


「エルフィリア皇帝の直筆のサイン? サフィアン・エルフィリア? 皇族じゃないか」


 紙面を一瞥したバルカスの目が僅かに見開かれ、その声に微かな驚きが混じる。


「皇位継承権は返上してきました。私は帝国の、ひいては大陸の発展を模索する経済学者です」


 サフィアンの声には、権力への執着など微塵もなく、未開の知を求める純粋な熱情だけが込められていた。


「これはとんでもない大物が出てきたな。いいだろう。存分に西の王を研究していってくれ」


 バルカスは短く息を吐き、口角を微かに吊り上げた。


「はい。よろしくお願いします」


 サフィアンは再び静かに頭を下げ、椅子へと腰を下ろす。


「よし。みんな地図を見ろ。まず進行ルートはここ。そして第一目標はここだ。領地の真ん中あたりになるな」


 バルカスは机の中央に広げられた巨大な地図の上に、木製の駒を力強く置いた。


「なるほど、ど真ん中に本部を設置し、そこから分担して調査という事か」


 マクシミリアンが太い腕を組み、地図を鋭い目でなぞりながら低く唸る。


「そうだ。そのための班分けをする。何班あれば手分けして調査に当たれそうか?」


 バルカスは駒から手を離し、軍略の専門家である歴戦の将へと視線を向けた。


「本部を守る班、応援・交代の班、調査の班、それぞれ人数を決める必要があるだろう」


 マクシミリアンは地図上の地形から即座に必要な部隊規模を弾き出し、澱みなく答える。


「そうだな。本部を守る班は『海鳥』に任せていい。将軍と百人隊長はサフィアン殿の護衛か?」


 バルカスが問うと、背後に控えていた男が一歩前に出た。


「オーウェンと呼んでください。将軍と私はサフィアン殿の護衛に回ります。ベルン殿も同じ班に入れて良いのでは?」


 オーウェンは静かに、しかし護衛としての絶対の自信を滲ませて提案し、再び影のように背後へと下がる。


「そうだな。私とベルン君で分担するか。『海鳥』以外の人選は将軍に任せていいか?」


 バルカスは視線をマクシミリアンへと戻す。


「いいぞ」


 マクシミリアンは短く力強く頷き、その大役を引き受けた。


「さて、問題は、現地の住民がいた場合だな」


 バルカスは地図から視線を外し、室内を見回す。


「問題なのか?」


 マクシミリアンが怪訝そうに眉を寄せる。


「それはそうだろう。野盗の類ならともかく、住民がいた場合、彼らから見れば軍を率いて侵略に来たとしか見えない。友好的な交渉などできないだろう」


「そうですね。もし現地に住民がいた場合、攻撃の意思を見せず、むやみに接触せず、本部に持ち帰る。こうですかね」


 ベルンが静かに言葉を引き取り、交渉の余地を残す方針を明確にする。


「ああ、それでいい。現地の住民から奪った土地で何かの実りを得たとしても、メリー君は喜ばない」


「ええ。仕方ないとは言ってくれるかもしれませんが、悲しい思いをさせるでしょうね。僕は、メリーさんの悲しそうな顔を見たくありません」


 ベルンは伏し目がちに呟き、その瞳に静かな決意を宿す。


(悲しむ? あの地獄の娘が?)


 マクシミリアンは無意識のうちに己の腕をさすり、背筋を駆け上がる強烈な悪寒を振り払うように身震いした。


「よし、みんな明日に備えろ。解散!」


 バルカスの力強い号令が、夜の静寂が支配する会議室に響き渡る。

 未知なる大地へと踏み出す者たちの、短くも熱を帯びた夜が更けていった。


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