第45話:処刑宣告、声なき助け、次世代へ希望を繋ぐ未来
「どうだね、ジャック君? あの女は何か吐いたかね?」
昼前の高く昇った太陽の光さえ、分厚い石壁に阻まれて届かない。
ここはランツェベルク領、かつて領主軍の要であった屈強な兵士たちの詰め所である。
冷え切った空気と、長年の使用によって染み付いた金属と油、そして僅かなカビの匂いが澱むその一角。
そこに設けられた外界から完全に隔絶された堅牢な地下牢で、一人の女に対する執拗な尋問が続けられていた。
王都のガメル・ガーディス侯爵邸から、夜の闇に乗じて力ずくで拉致されたその女、ビオラ・ギルガルドは、バルカスの冷厳な命によってこの辺境の地へと運び込まれていた。
秘密裏に尋問を行い、一切の悲鳴を外界から遮断できる場所。
その条件を満たす空間として選ばれたのが、皮肉にもランツェベルク領を陥落させたあの日、侵略者たる少女たちの手によって完膚なきまでに制圧されたこの詰め所であった。
当時の凄惨な記憶は、未だ兵士たちの骨髄に深く刻み込まれている。
物理的な暴力のみで、大の男たちを次々と冷たい床に沈めた『海鳥』と呼ばれる少女たちは、今も変わらず商会の愛らしい制服に身を包み、松明の炎が揺らめく通路の要所に彫像のように立っていた。
対するランツェベルク領の兵士たちは、自らの領域であるはずの詰め所内であるにもかかわらず、壁際に身を寄せ、少女たちの微かな衣擦れの音にさえ肩を震わせて息を潜めている。
体格差を完全に無視した異様としか言いようのない力関係が、重苦しい沈黙となってこの空間を支配していた。
「なぜウチの領なんだ? ブラッドレイ。兵士が怯えているじゃないか、あの『海鳥』の娘たちに」
薄暗い通路を歩きながら、ランツェベルクが苦々しげに顔をしかめる。
視線の先では、壁際で縮こまる自軍の兵士たちが、無機質な瞳を前方に据えたまま微動だにしない少女たちの前で、ひたすらに視線を彷徨わせていた。
「あの女をメリー君に所縁のある地に置いておくわけにはいかない。そこは飲み込め」
バルカスの足取りは止まらない。
硬質な靴音が、一切の感情を排した冷ややかな声とともに石畳の通路に響き渡る。
過去の忌まわしい因縁を断ち切るための合理的な判断。
その目的の前には、他領の兵が過去の恐怖に怯えようとも、一顧の価値もないと言わんばかりの態度であった。
「まあ、良いけどな。それにしても、ジャック殿だったか? あれが本物の『梟』か。雰囲気あるな。あの男だろ? 『海鳥』を仕込んだというのは」
ランツェベルクは半ば諦めたように重い溜息をつき、その視線を牢の前に立つ男の背中へと向けた。
薄暗がりに溶け込むような佇まい。
呼吸の気配すら極限まで希薄でありながら、その内側に確かな死の影を纏う存在感に、ランツェベルクは無意識のうちに歩みを緩め、目を細めた。
「元『梟』だけどな。ジャック君が居なければ『海鳥』構想は実現しなかっただろう」
バルカスが前を向いたまま短く応じる。
その言葉の裏には、狂気じみた訓練を完遂し、ただの市井の少女たちを一切の躊躇なく命を奪うための機構へと造り変えた男への、底知れぬ評価が横たわっていた。
二人は、壁際で等間隔に整列し、正規の軍隊すら凌駕する統制を見せる『海鳥』の娘たちの前を通り過ぎ、目的地である牢の正面へと到着した。
太い鉄格子の前に音もなく立つジャックの背越しに、牢の内部の惨状が露わになる。
敷物一つない冷え切った石床の上に這いつくばるようにして、一人の女が鉄格子にすがりついていた。
四十歳を迎える前という、貴族の夫人であれば円熟した艶と気品を湛えているはずの年齢。
しかし、そこにいる女の容貌は、数日の間に十年以上の歳月を削り取られたかのように、無惨に老け込んでいた。
王都で専属の侍女たちに念入りに手入れさせていたであろう豪奢な髪は、今や自身の脂と汗にまみれて幾重にも固まり、ひどく傷んだ毛先が土気色の頬や首筋に不快にへばりついている。
拉致された夜に身に纏っていた上質な絹のドレスは、床の埃とこびりついた汚れを吸い込んでどす黒く変色し、見る影もない。
ひどく落ち窪んだ眼窩の奥から、バルカスたちを見上げる視線には、連れてこられた当初に見せていたヒステリックな反抗心も、特権階級としての空虚な矜持も、微塵も残っていなかった。
ただ剥き出しの恐怖と、極限の衰弱だけが、赤黒く錆びた鉄格子を握りしめる震える細い指先から痛々しいほどに伝わってくる。
「どうだね? ジャック君」
バルカスは、足元に転がる汚物を見下ろすような眼差しで女を一瞥し、隣に立つ男へと問いを投げた。
「我々が知る、ミディア・ガーディス、ガメル・ガーディス以上の大物は出ませんな。この女はただの道具だった可能性が高いです」
ジャックの声には、失望さえ滲んでいない。
ただ取り出した内臓の重さを機械的に量るかのような、完全な無機質さが伴っていた。
差し出された報告書の束を受け取り、バルカスはそこに記された羅列に目を落とす。
そして次の瞬間、苛立ちを隠すことなく、持っていたリストを乾いた音を立てて激しく叩いた。
「なんだね、これは? レストランの経営者の妻、八百屋の親父、会計事務所の事務員、どこぞの親戚、こんなのばっかりじゃないか」
吐き捨てるようなバルカスの声が、狭く冷たい空間に鋭く反響する。
国家の根幹を揺るがす巨大な陰謀の糸口を求めた結果が、市井の取るに足らない小悪党や一般人の羅列であったことへの激しい怒りが、その眉間に深い皺を刻ませていた。
「本当に、それしか知らないのよ。お願い、もう許して。ここから出してよ」
冷たい鉄格子に顔を押し当てるようにして、ビオラが哀願の声を上げる。
ひび割れた唇から紡がれる声は、耳障りなほどに掠れ、なり振りを構わぬ命乞いへと成り果てていた。
「お前は、自分がしでかしたことの罪深さをわかっていない。ここから生きて出られるなどと思わないことだ」
バルカスの声の温度が、一気に絶対零度へと下がる。
何の価値も見出せない肉の塊に向かって宣告されたその言葉は、一片の慈悲も含むことなく、処刑宣告のごとく女の鼓膜を打った。
「……そんな。……私が何をしたって言うのよ」
理解の及ばない責め苦に対する絶望が、ビオラの顔をさらに醜く歪ませる。
自らの行いがどのような波紋を広げたのかすら理解していないその愚かさに、バルカスは氷のような視線を真っ直ぐに突き刺した。
「黙れ。お前に質問する権利は与えられていない。知っていることを全て吐け。お前に許されているのはそれだけだ」
もはや言葉を交わす労力すら惜しいとばかりに、バルカスはすでに視線を牢の中から外し、背後の通路へと向けながら言い捨てた。
それ以上の関心を一切払うことなく、彼は踵を返す。
ジャックとランツェベルクもまた、足元の虫を避けるような冷淡さで後に続いた。
薄暗い通路を戻っていく三人の背中に、ビオラの獣のようなすすり泣く声が縋り付く。
しかし、彼らの規則正しい歩みがその惨めな響きによって僅かでも乱れることは、決してなかった。
──────
背後ですすり泣く女の声を完全に遮断し、三人は重厚な鉄扉を潜り抜けた。
金属がこすれ、鈍い音とともに牢が閉ざされると、地下特有の澱んだ空気が一層濃くなったように感じられる。
一定の間隔で壁に掛けられた松明の炎が、湿気を帯びた石畳の上に彼らの影を長く引き伸ばし、揺らめかせていた。
通路の要所に彫像のごとく立ち尽くす『海鳥』の少女たちと、壁際で息を潜めるランツェベルク領の兵士たち。
張り詰めた空気が支配するその間を縫うように、乱れのない規則正しい靴音だけが反響する。
「ジャック君、どう思う? このリストの面々」
バルカスが歩みを緩めることなく、手にした数枚の紙の束を軽く振りながら隣を歩く男へ問いかけた。
その視線は既に紙面から離れ、前方の暗がりを見据えている。
「一見すると無害な連中にしか見えませんな。ですが、それでも一人ずつ虱潰しに調査するのが諜報部員の仕事です。そのリストの人物すべてに『海鳥』をつけましょう」
ジャックの声は、石壁に反響する自らの足音よりも感情がこもっていなかった。
無害に見える一般人の皮を被った連絡役や工作員を見つけ出すため、数十人規模の監視網を即座に敷くという異常な手回しを、明日の天気を語るかのように平然と口にする。
その言葉の裏には、標的の生活のすべてを監視し、わずかな綻びから全てを暴き出すという暗部の執念が横たわっていた。
「ああ、任せる。ガメル・ガーディスとミディア・ガーディス、ここにはさすがに手を出せんか」
バルカスがリストの束を無造作に折りたたみ、上着の裏へと滑り込ませた。
王国の宰相、そして現国王の母である王太后。
この国の頂点に君臨する二人の名を、バルカスは道端の小石を蹴り飛ばすかのような軽さで口の端に上らせる。
「出せなくはありませんが、時期尚早でしょうな。こちらがガーディスを探っていることが露呈します」
その問いに対するジャックの返答もまた、常軌を逸していた。
王国の最高権力者たちの寝首を掻くことが不可能なのではなく、単に時期が悪いと切り捨てたのである。
二人の背後を歩いていたランツェベルクは、思わず息を呑み、足元がわずかに揺らぐのを感じた。
(出せるんだ、王太后と宰相に……)
ランツェベルクの内心に、氷を撫でられたような戦慄が走る。
彼らがその気になれば、分厚い城壁と近衛騎士に守られた王城の奥深くでさえ、死の影を落とすことができるのだという圧倒的な事実がそこにあった。
「ここまでだろうな、あの女から得られる情報は」
バルカスの声が、ランツェベルクの思考を現実に引き戻す。
彼にとって、用済みとなった道具への関心は既に微塵も残っていなかった。
「そうですな。頃合いを見て処分しておきます」
ジャックが微かに顎を引く。
処分。
その二文字が意味する結果は、先ほどまで鉄格子にしがみついて命乞いをしていた女の絶対的な死である。
しかし、その決定の瞬間にすら、彼らの間に生々しい血の匂いは欠片も漂っていなかった。
「ああ、任せた。死体を海に捨てるのはやめてくれ。海が汚れる」
バルカスがひどく嫌悪感を滲ませた声で付け加える。
一人の貴族夫人の命が、海に浮かぶゴミ以下の価値として天秤に掛けられ、そして切り捨てられた瞬間であった。
「処分するのか?」
ランツェベルクは、たまらずに声を挟んだ。
情報を引き出した後、他領の貴族を処断することは政治的な火種になりかねない。
生かして利用する、あるいは人質として保管するという選択肢を全く考慮しない彼らの振る舞いに、疑念を抱かざるを得なかった。
「それはそうだろう。処分しなくてどうする。ガーディスは王国の患部だ。見つけ次第切除するのは必須だ」
バルカスが立ち止まり、肩越しにランツェベルクを振り返る。
その瞳に浮かんでいたのは、腐りかけた肉を切り落とす外科医のような、一片の迷いもない正当性であった。
国家という巨大な生き物を蝕む病巣であるならば、それがいかなる身分であれ、完膚なきまでに取り除く。
「はい。処分は大前提。特にあの女は最優先処分対象です」
ジャックもまた歩みを止め、バルカスの言葉に続いた。
だが、その声の響きは、先ほどまでの無機質な機械のようなものから、ほんの僅かに温度を変えていた。
「メリュジーヌ嬢の件か?」
ランツェベルクの脳裏に、五~六年前にこの西の地へ流れ着いたという少女の顔がよぎる。
あの女は、メリュジーヌ嬢を伯爵領から放逐し、西の果てへと追いやった元凶である。
「そうだ。あの女が居なければ、メリー君は伯爵令嬢として人並の幸せを謳歌できていたかもしれん。その未来を奪った者を生かしておくなどという選択肢があるわけがない」
バルカスの声が、突如として低く、そして熱を帯びたものへと変わった。
常に尊大で、自らの描く盤面の外側の出来事には見向きもしないはずの男の顔が、抑えきれない怒りによって醜く歪む。
吐き捨てられた言葉の端々には、国家の患部を切除するという大義名分を覆い隠すほどの、ドロドロとした個人的な憎悪が張り付いていた。
「同感です。メリー様の未来を奪ったあの女、王国の未来に害をなすガーディス、生かしておくことなどできません」
呼応するように、ジャックが言葉を放つ。
呼吸の気配すら希薄で、感情という概念をとうの昔に削ぎ落としたはずの元『梟』の男。
その声には今、明確な殺意と、一人の少女への狂信的なまでの執着が、どす黒い炎となって宿っていた。
松明の明かりに照らされた二人の横顔は、合理的な判断を下す指導者や暗部のものではなく、ただ復讐に飢えた獣のそれに成り果てていた。
「……そうか。王国の患部であるガーディスを根絶やしにする。これはわかる。でも、お前が個人的な復讐を持ち込むような人間的な部分があるとは知らなかったよ」
ランツェベルクは、目の前の男たちが放つ異様な熱に押されまいと、必死に平静を装って口を開いた。
「メリー君が絡めば話は別だ」
バルカスが即座に断言する。
そこに照れや誤魔化しは一切なく、ただ当然の真理を説くような響きであった。
「ええ、その通りでございます」
ジャックが深く頷く。
その姿は、神の言葉を肯定する熱狂的な信徒のそれと何ら変わりがなかった。
「……そういうもんか」
ランツェベルクは、短い返事とともに己の内に湧き上がる底知れぬ恐怖を必死に飲み込んだ。
思ったより人間臭い。
バルカスという男は、他人の痛みなど知ったことではないというような、自己の欲求のみを原動力とする人間だったはずだ。
ジャックと呼ばれるこの男も同じである。
血の通わない暗部の人間であり、ただ命令に従って命を刈り取るだけの存在だと思っていた。
メリュジーヌという少女との出会いが、この無機質な男たちを、ここまで極端に変質させてしまったのだろうか。
ひと月前のあの戦場で、ランツェベルクは陣幕の奥に座る彼女の姿を遠目から一度だけ見たことがあった。
周囲の人間が血生臭い緊張感に包まれている中、彼女だけが世界から切り取られたかのような異質な光を放っていた。
もし、自分が彼女ともっと深く関わることになれば。
バルカスやジャックのように、その異質な光に魅入られ、己の根幹すらも歪められてしまうのではないか。
ランツェベルクは、薄暗い通路の先を見つめながら、その底知れぬ深淵に足を踏み入れることへの抗いがたい怖さを、ひしひしと感じていた。
──────
淀みきった空気が肺の奥までこびりつくような陰惨な地下牢から一転し、ランツェベルク子爵邸の応接室には、高く昇った太陽の光が惜しみなく注ぎ込んでいた。
磨き上げられた大理石の床、壁を彩る歴史ある風景画、そして部屋の中央に鎮座する、上質なビロードが張られた豪奢なソファ。
他領の主の館、それも本来であれば最も格式高い賓客をもてなすための空間であるにもかかわらず、バルカスはまるで自身の居城であるかのように、そのソファの中心に深く体を沈めていた。
長い足を悠然と組み、片腕を背もたれに預けるその佇まいには、他者の領域を完全に侵食し、支配し尽くした者の圧倒的な不遜さが漂っている。
彼の隣には、豊満な肢体を惜しげもなく投げ出すようにして、ギルダが座っていた。
そしてソファの背後、窓から差し込む光が届かない部屋の死角に、ジャックが彫像のごとく立ち尽くしている。
先刻まで地下の暗がりで放っていた、獲物の血肉を貪ろうとする獣のような殺意の熱は微塵も残っていない。
ただ主の影の一部として、呼吸の気配すら空間から消し去った完全な静寂を保っていた。
その三人を真正面から受け止める位置に座らされたランツェベルクは、重圧に耐えかねたように肩で浅く息をしている。
「ジャック君、私はレグス経由で辺境伯領へ向かう。ベルン君との調査の件だ。あとは任せる」
「畏まりました。私もあの女を片付けてから、アルベルト様と合流します。リストの件はお任せください」
バルカスの指示に、ジャックが抑揚のない声で応じた。
片付ける。
ただ床の埃を掃き清めるかのような軽薄な響きの中に、一人の貴族の女の命を完全に抹消するという決定事項が内包されている。
壁のシミを削り落とすのと同義であると言わんばかりの平坦な響きが、応接室の静謐な空気に滑り込んだ。
「ああ、任せた。連絡は『海鳥』を飛ばせ」
バルカスが短く命じ、手元にあった銀細工のカップへと手を伸ばした。
陶器が触れ合う微かな音が、室内を満たす緊張をわずかに緩める。
そのやり取りを聞き届けた瞬間、対面のソファに強張った姿勢で座っていたランツェベルクの口から、張り詰めていた糸が切れたような深い安堵の息が漏れ出した。
「やっと帰ってくれるか。これでようやく心の平穏が訪れるな」
ランツェベルクは、背もたれに自らの体重を預け、天井の豪奢なシャンデリアを仰ぎ見た。
突如として現れた黒い巨船による武力制圧、圧倒的な戦力差を見せつけられた降伏、王国軍の将軍率いる精鋭部隊『黒鉄』との戦、そして地下牢で見せられた、常軌を逸した暗部の狂気。
このひと月ほどの間に叩きつけられた濃密な悪夢からようやく解放され、嵐が去った後の静寂を享受できる。
肉体の奥底まで染み込んだ疲労感とともに、ランツェベルクの脳裏に、元の穏やかな領地経営の日々が幻影のように浮かび上がっていた。
しかし、その淡い期待は、対面から放たれた言葉によって無残に打ち砕かれる。
「貴公の修羅場はここからだ。何を甘えたことを言っているんだ、ランツェベルク子爵」
バルカスの声には、同情や慰めの響きなど欠片も含まれていなかった。
むしろ、今まさに罠にかかった獲物を見下ろす狩人のような、口の端を歪めた嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
「なんだと! これ以上、まだ私に何かさせようというのか」
ランツェベルクが弾かれたように身を起こし、声を荒らげる。
西側連合への従属、西側経済圏への参加も受け入れた。これ以上、自らの身から何を削り取ろうというのか。
抗議と悲鳴の入り混じったような視線を向けるランツェベルクに対し、バルカスは直接答えることはしなかった。
ただ、隣に座るギルダへと、横目でわずかに視線を流しただけである。
その視線を受け止めたギルダが、バルカスへ向けて無言のまま顎を引いた。
次の瞬間、ギルダの身体が音もなくソファから離れる。
長身でありながら、その動きには一切の滞りがなく、肉食獣が獲物との距離を詰める時のような流麗な足運びであった。
彼女はためらうことなく、目前のテーブルを回り込み、ランツェベルクが座るソファへと歩み寄る。
「……え?」
ランツェベルクが困惑の声を漏らす間もなく、ギルダは彼のすぐ隣、隙間一つ空けぬほどの至近距離に腰を下ろした。
上質な布地が擦れ合う音が響き、彼女の身体から立ち上る、微かな香水の混じり合った香りがランツェベルクの鼻腔を塞ぐ。
さらにギルダは、硬直する男の首元へと己の腕を滑り込ませ、逃げ場を完全に断つようにしてその身体を深くしなだれかけさせた。
腕の中に閉じ込められる形となったランツェベルクは、完全に息を飲み、背筋を凍らせたまま身じろぎ一つできなくなる。
「いい男になったじゃないか、ランツェベルク。あたしを貰ってくれるんだって?」
耳元で囁かれるギルダの声は、艶を帯びながらも、圧倒的な圧力を伴っていた。
かつて、幼い頃に力でねじ伏せられ、幾度となくその拳の味を教え込まれた恐るべき姉貴分。
二十年以上の歳月が流れてなお、根本的な力関係は微塵も揺らいでいないという事実が、首に回された腕の重みを通じてランツェベルクの骨髄へと叩き込まれる。
「……そっ、そそ、そんな話も、あったような、なかったような……」
恐怖によって喉が張り付き、ひび割れた声がどうにか形を成す。
ランツェベルクの瞳孔は激しく揺れ動き、隣で微笑む猛獣から逃れるように、ひたすらに空間を彷徨っていた。
「知っての通り、あたしもいい歳だ。産めるうちにバンバン産むよ。覚悟はできてるね?」
ギルダの言葉は、同意を求めるものではなく、決定事項の通達であった。
彼女の指先がランツェベルクの胸元をなぞり、首元から肩へと締め上げるような力強さで這い回る。
子を成すという生命の営みすら、自らが指揮をとる戦場であるかのように語るその威圧感の前では、大の男の抵抗など羽虫の羽ばたきほどの意味も持たなかった。
ランツェベルクは、もはや自力でこの捕食者から逃れることは不可能であると悟る。
(タスケテ……タスケテ……)
声にならない悲鳴を上げながら、ランツェベルクは対面のソファに座る男へと、ただひたすらに縋るような視線を送り続けた。
かつての悪友であり、この窮地を作り出した張本人。
しかし、その救難信号を受け取ったバルカスの振る舞いは、絶望の淵に突き落とすに十分すぎるほど無慈悲なものであった。
「出航は明日だ。あの船は使わせてもらうぞ、ギルダ君。跡取りの誕生、楽しみにしているよ。ランツェベルク子爵」
バルカスは、旧友の惨状を心の底から楽しむようにニヤニヤと口角を吊り上げ、ゆっくりとソファから立ち上がった。
自らが仕掛けた盤面の最後の一手を見届け、これ以上の関心を払う必要はないとばかりに、扉へと向かって歩みを進める。
その足取りは軽く、旧知の友を生贄に捧げた罪悪感など微塵も読み取れない。
「バルカス」
部屋を出て行こうとする背中を、ギルダの声が呼び止める。
「こう言っちゃなんだが、あたしは身重になったら戦線離脱だよ。 いいのかい?」
ブラッドレイ領の戦力の中核。
その彼女が前線から退くことの意味。
中央への進軍や、さらなる戦乱を見据えた上で、貴重な手駒を失うことの是非を問う言葉であった。
しかし、立ち止まったバルカスは、振り返ることなく、両手を軽く広げた。
「いいに決まっているだろう。次の世代を育む。これ以上に大事なことがあるとでも言うのか? 二十年越しの初恋を実らせたまえ」
やれやれと大げさに手を広げ、肩をすくめてみせるその仕草とは裏腹に、言葉の芯には揺るぎない確信が宿っていた。
次の世代へと希望を繋ぐ未来を創ること。
それこそが彼ら西側が流血の先に見据える至上の目的であり、新たな命を育む営みは、いかなる戦力の損得よりも優先されるべき絶対の真理であった。
自らの理念を体現するかのように背筋を伸ばし、バルカスは再び歩みを進め、重厚な扉を開け放った。
影のように音もなく、ジャックがその背後に従い、室外へと滑り出ていく。
バタン、と無情な音を立てて扉が閉ざされる。
閉じられた空間に残されたのは、獰猛な笑みを浮かべる女と、その腕の中で完全に動きを封じられた哀れな男だけであった。
ランツェベルクの眼球だけが、もはや開くことのない扉の方向を向いたまま、声なき助けを求め続けていた。
(タスケテ……タスケテ……)
キリが良いとこまで書いたら9600文字
最後まで読んでくれた方、本当にお疲れ様です




