第44話:飯抜き、百年の計、王子の枕は歳をとる
「……ああ、おはよう。ひどく、静かで平和な昼前だな」
中天に差し掛かろうとする強烈な陽光が、ダルトン子爵邸の食堂の窓から斜めに差し込んでいた。
昨夜、庭の焚き火を囲んで狂騒の限りを尽くした宴の熱気はとうに霧散し、今はただ、磨き上げられた床板の上に巨大な光の塊が落ちている。
開け放たれた窓からは、西の山脈を越えてきた初夏の乾いた風が吹き込み、壁際の薄手のカーテンを波のように大きく揺らしていた。
重い木製の扉が軋みを上げて開き、ダルトンが緩い足取りで食堂へと姿を現した。
その顔には二日酔い特有の微かな疲労の色が張り付いていたが、平和で静謐な空気を肺の奥深くまで吸い込むと、大きく一つ欠伸をしてから椅子を引き、その重い背を預ける。
彼が卓の上の水差しに手を伸ばそうとした、まさにその瞬間であった。
「よし! 最後の寝坊助が起きてきたわ! 侍女ども、洗濯開始!」
静寂を、甲高く、そして圧倒的な熱量を持った声が粉々に打ち砕いた。
廊下の奥から響き渡ったメリーの号令は、まるで祭りの幕開けを告げる突風のように、館の空気を一気に掻き回した。
瑞々しい若葉を思わせる軽やかな足音が猛烈な速度で廊下を駆け抜け、食堂の開け放たれた扉の前を一陣の風となって通り過ぎていく。
「洗濯物を出せ! 布団を干せ! シーツを剝がせ!」
メリーの容赦のない指示が飛ぶ。
その声に呼応するように、館の各所からドタバタという無遠慮な足音が湧き上がり、ダルトン領の侍女たちと、商会の制服を着た『海鳥』の娘たちが、猛烈な勢いで館中の客室や寝室へと雪崩れ込んでいった。
静謐は完全に破壊され、木製の床板を踏み鳴らす音、乱暴に扉が開かれる音、そして重い布地が擦れ合う音が複雑に交錯し、ダルトンの鼓膜を絶え間なく打ち付ける。
「ダルトン子爵の枕と布団、臭いッス」
寝室の奥から、くぐもった声が響いたかと思うと、両手いっぱいに巨大な布の山を抱えた赤毛の娘が姿を現した。
彼女は顔を盛大に顰めながら、抱えていた分厚い掛け布団と使い込まれた枕を、食堂の入口の床へと無造作に落とす。
ボフッ、という鈍い音と共に、布の山から見えない埃が舞い上がった。
「歳をとると枕が臭くなるのは仕方ないんだよ」
ダルトンは卓の上で両手を組み、苦笑いを浮かべながら弁明した。
しかし赤毛の娘は、自身の衣服の襟元を引っ張り、過剰なほど大袈裟な動作で顔を背ける。
「侍女服が臭くなるッス」
「侍女服も洗濯しなさい! 商会の制服に着替えればいいでしょ!」
廊下の反対側から現れたメリーが、鋭い一喝を浴びせた。
束ねられたピンクブロンドの髪が、彼女の機敏な動作に合わせて空中で跳ねる。
その容赦のない視線に射抜かれ、赤毛の娘は短い悲鳴を上げ、脱兎の如く廊下の奥へと走り去っていった。
メリーは床に積み上げられた寝具の山を素早く一瞥すると、周囲を見回して眉を吊り上げる。
「アルは? まだ洗濯物出してないの?」
「ああ、すまない。すぐにやる」
食堂の奥から歩み出てきたアルベルトが、申し訳なさそうに片手を上げた。
メリーはずかずかと彼の寝室の方向へ歩み寄り、廊下に無造作に置かれていた彼の寝具を引っ張り出した。
その顔が、先ほどの赤毛の娘と全く同じように、盛大に顰められる。
「ちょっと、アルの枕も臭いわよ! ダルトンおじ様と同じ臭いがするわ」
「あ、ああ。……枕も歳をとるんだな」
アルベルトは一瞬だけ目を泳がせ、不器用極まりない言い訳を口にして視線をそらした。
「馬鹿なこと言ってないで布団を持ってきなさい!」
メリーは両手で掴んでいたアルベルトの枕を、思い切り振り被って放り投げた。
空気を裂いて飛来した分厚い布の塊は、アルベルトの顔面を正確な軌道で捉え、鈍い破裂音と共に弾け飛ぶ。
アルベルトは避けるそぶりすら見せず、顔面に直撃した枕を床に落ちる前に片手で掴み取ると、観念したように自身の寝室へと小走りで向かった。
やがて、分厚く重い掛け布団を両腕に抱えたアルベルトが、せっせと額に汗を浮かべながら中庭へと運んでいく。
王都を追われたとはいえ、王位継承権第一位だったアルベルトが、率先して汗を流し、侍女たちに混ざって生活の輪に加わっている。
それは、王都の常識からすれば異常としか言いようのない、しかしこの西側においてはごく当たり前の光景としてそこに在った。
館の裏手に広がる石畳の中庭では、既に戦端が開かれていた。
巨大な木桶がいくつも並べられ、井戸から汲み上げられた冷たい水が絶え間なく注ぎ込まれている。
ダルトン領の侍女たちと『海鳥』の娘たちが入り乱れ、腕まくりをして渾身の力で布を揉み洗っていた。
濡れた布を石畳や桶の縁に叩きつける甲高い音が、リズムを刻むように中庭全体に響き渡る。
身分も所属も関係なく、ただ目の前の圧倒的な生活の熱量だけが、風景としてそこに描き出されていた。
食堂の一階、開け放たれた窓辺には、その狂騒を静かに観測する二つの影があった。
アイゼンハイド侯爵家の当主エーベルハルトと、元帝国皇子サフィアンである。
彼らは窓辺に並び立ち、眼下の中庭で繰り広げられる喧騒をただ静かに見下ろしていた。
視線の先では、ギルガルド伯爵家当主でもあるメリーが、侍女たちに混ざって木桶に両手を突っ込み、顔を石鹸の泡だらけにしながら笑い声を上げている。
普通なら、あり得ない状況であった。
王族が重い布団を運び、領主が泡に塗れて洗濯をしている。
だが、窓の外の風景にそんな違和感は微塵も存在しない。
誰もが楽しそうにはしゃぎながら、ただ己の生活を謳歌し、洗濯という日常の営みに命を燃やしている。
「あの一体感、あれこそが西の力なんだな。どう思われます? サフィアン殿」
エーベルハルトは、楽しげな喧騒に目を細めて呟いた。
王都の重圧の中で国家の行く末を盤上で動かしてきた男の瞳には、窓の外の屈託のない光景に対する、微かな羨望と穏やかな光が宿っている。
「王国の西が急速に復興した理由がわかります。あの光景は、まさに西の縮図なんでしょうね」
サフィアンもまた、眼鏡の奥の瞳を和ませて頷いた。
帝国の経済論理を修めてきた彼の目にも、西のトップ層が率先して生活の最前線に立ち、民と共にはしゃぐ姿は、理屈抜きに微笑ましく、眩しいものとして映っていた。
「……あれが、指導者のあるべき姿、か」
エーベルハルトは、窓枠に手をかけ、慈しむような目で外を見た。
権謀術数が渦巻く王都では決して見ることのできない、国家という枠組みを超えた原始的な力強さ。
初夏の日差しを受け、中庭に飛び散る洗濯の水が、キラキラと乱反射して輝いて見えた。
──────
昼食の余韻が残るダルトン子爵邸を背に、四頭の馬が連なって領地の外縁へと歩みを進めていた。
初夏の中天から降り注ぐ太陽は容赦なく肌を焦がし、乾燥した大地から立ち昇る熱気が、遠くの山並みの輪郭を微かに歪ませている。
馬の蹄が硬く踏み固められた土を叩く乾いた音と、革製の鞍が乗り手の体重に合わせて軋む音だけが、単調なリズムを刻んで静かな街道に響いていた。
先頭を行くのは、軽装に身を包んだアルベルトとメリー。
その背後を、王都の執務服を旅装に崩したエーベルハルトと、帝国式の洗練された乗馬服を纏うサフィアンが続く。
最後尾には、周囲の地形や植生を鋭い目で観察しながら進む『海鳥』の赤毛の姿があった。
乾いた風が吹き抜け、メリーのピンクブロンドの髪を大きく揺らす。
彼女は自身を背後から支えるアルベルトの分厚い腕の中から不意に身を捩り、後ろを進むエーベルハルトを振り返った。
そのエメラルドグリーンの瞳は、穏やかな午後の空気とは裏腹に、眼前の軍務局長を容赦なく値踏みするように細められていた。
「あんたの領にもメリットがあるんだから、お金を出しなさい。これは交渉じゃないわ、命令よ」
唐突に放たれた要求は、王国の軍務局長に対するものとは思えぬほどに無遠慮であった。
エーベルハルトは軽く手綱を引いて馬の歩みを緩め、片眉を僅かに吊り上げる。
「従わなかったらどうするんだ?」
エーベルハルトは、わざとらしく困り顔を作って見せた。
「今後、将軍の食事から肉が消えるわ」
「将軍にだけ靴下を支給しないという事も起こりうるな」
アルベルトの追従に、エーベルハルトは「それは困った」と言わんばかりに大袈裟に肩をすくめる。
「捕虜の扱いは王国の軍事規定に則りたまえ。虐待は許されない」
「それはあんたの財布の紐次第よ」
「……参ったな。命の次に大事な靴下の予備がかかっていては、従わざるを得まい」
エーベルハルトはくっくっと喉を鳴らして笑い、降参を示すように片手を軽く上げた。
「いいんですか? そんな適当な理由で決めてしまって」
横を歩くサフィアンが、芝居がかった手つきで眼鏡のブリッジを押し上げ、呆れた視線を向ける。
もちろん、彼もこの出来レースの観客だ。
「遠征部隊にとって水虫は死活問題だ。従うしかなかろう。……というのは冗談だが」
エーベルハルトは馬の首筋を軽く叩き、真面目な顔で頷いた。
「いいだろう、領主として費用は出す。人員もだ」
再び馬の蹄の音が規則正しく響き始めた。
やがて、一行の視界が、何もない見渡す限りの荒野へと開けた。
そこはかつて、『剣鬼』オルコット辺境伯とマクシミリアン将軍が凄まじい一騎打ちを繰り広げた場所であった。
「ここだろうな」
アルベルトが馬を止め、果てしなく続く荒れ地を見渡して呟いた。
「そうね、ここしか無いってくらい、ここだわ」
メリーが即座に同意し、頭の中で既に完成している地図と目の前の光景を重ね合わせるように、視線を鋭く走らせる。
「ここに街道を造るのか? 既存の街道はどうするんだ?」
エーベルハルトは訝しげに周囲を見回した。
軍の行軍であれば既存の道を利用し、あるいは拡張するのが常套である。
何もない荒野のど真ん中に新たな線を引くという発想は、王都の軍略の定石から外れていた。
「既存の街道は領地に住む人のための生活道路よ。街道は商人や旅人たち、外部の人のためのもの。もちろん領内の人が使っても問題ないわ」
「なるほどな。関税はどうするんだ?」
「西側経済圏という括りでルールを統一しているわ」
「なるほど。私が決めて良いのではないのだな」
「当たり前でしょ。私たちが作った街道で、勝手に儲けようとしてんじゃないわよ」
突き放すようなメリーの宣告に、エーベルハルトは微かな溜息を落とし、苦笑を浮かべた。
「手厳しいな。当然と言えば当然か」
「特に食料品の関税ルールは厳密よ。食料品の関税で民を絞めることは許されないわ。平時は安く、有事の際には関税を撤廃して、食料が有る場所から無い場所へ緊急輸送する。これが大前提よ」
「それは敵である中央も対象か?」
エーベルハルトの問いには、王国の行く末を憂う者としての、震えるような期待が含まれていた。
この苛烈な少女が、憎しみや損得を超えて、真に全てを救う道を描いているのかという、祈るような確かめ。
「西も中央も関係ないわ。それこそが西側大穀倉地帯構想。王国の食糧庫になるために作られたものよ」
「西側大穀倉地帯構想、王国の食糧庫か。これはまた大きな話が出たな。西には驚きしかない。これもメリー殿が?」
エーベルハルトの顔から、微かな笑みが消えた。
それは単なる驚きではなく、自分たちの想像も及ばないほど遠い未来を、彼女たちが既に見据え、動かし始めていることへの静かな震撼だった。
「五年前からずっと、私たちはこのために街道と農地を作り続けてきたわ」
五年。
その言葉の重みが、荒野に吹き付ける熱風の温度を急激に下げたかのように錯覚させた。
エーベルハルトの視線が、自然とアルベルトの広い背中へと吸い寄せられる。
王都を追われ、すべてを失ったはずの第一王子が、泥にまみれ、ただひたすらに土を掘り返し、道を開き続けてきた途方もない歳月。
王国の軍務を司り、盤上の駒の動きにのみ腐心してきた自身の五年間と、足元の大地を耕し続けてきた彼らの五年間。
その質量の違いに、エーベルハルトは微かな眩暈を覚えた。
「どう思う? サフィアン殿」
己の価値観が根底から揺さぶられる感覚を覚え、エーベルハルトは横に控える東の才子へと意見を求めた。
サフィアンは眼鏡の奥の瞳に鋭い知性を閃かせ、静かに口を開く。
「素晴らしい話だと思います。ただし、王国の中央が敵でなければ、という条件付きで。西を敵に回して支援が受けられるはずがないですよね」
「でしょう? そんなことも知らずに、中央は西側に経済封鎖を続けているわ。三年以上も」
メリーの冷ややかな指摘が、鋭い刃となってエーベルハルトの胸を深く刺した。
それは単なる非難ではなく、中央の執った戦略が、いかに未来の自らの首を絞める愚行であったかを突きつける宣告であった。
「愚かとしか言いようがないな。中央の人間として恥ずかしい」
エーベルハルトは手綱から手を離し、自嘲気味に自らの過ちを認めた。
「恥ずかしいで済めばいいわ。中央が干上がったとき、西から食料を供給しましょうという話に賛成する西側の人間がいると思う?」
「いないだろうな。何をやっていたんだ私たちは。自分で自分の首を絞めていたのか」
「今気付けただけマシよ。来ないに越したことは無いけど、もし飢饉になったら中央は滅びるわよ」
突きつけられた残酷な未来図に、エーベルハルトは重く頷いた。
自らが構築してきた王都の防衛網や、敵対勢力への経済封鎖といった軍事戦略が、いかに浅薄で、大地に根差していない砂上の楼閣であったか。
「その通りだな。今、中央が飢えていないのはたまたまだ。こう考えないといけないんだな」
「そうよ。今年、急に干ばつが、冷害が来るかもしれない。麦が全く穫れなくなるかもしれない。そう考えずに例年と同じように過ごしているのは怠慢、いえ、自殺と同義よ」
自然の脅威という、人間の理屈など通用しない絶対的な暴力への備え。
西の者たちは、王都の動向など最初から見てはいなかったのだ。
彼らが見据えていたのは、人の営み。それを継続するためだけのものであった。
「ああ、返す言葉もない。西は対策をしているのか?」
「完全じゃないわ。でも北と南で、山と海で違うものを栽培・収穫し、巨大な食糧庫に備蓄、そういう対策をしているわ」
「よく考えてあるな。中央はこれを学ばなければならない」
「あんたは情報を盗みすぎよ。敵の自覚あるの?」
呆れ果てたメリーの言葉を背に受けながら、エーベルハルトは遠く霞む地平へと視線を向けた。
敗北感と、それ以上に、全く新しい次元の国家運営を目の当たりにした奇妙な高揚感が、彼の胸の内で激しく渦を巻いている。
彼はゆっくりと顔を上げ、荒野の彼方から吹き込む風を深々と肺に吸い込んだ。
「それなんだがな、どう思う? サフィアン殿。私は西に王国の、いや、大陸の未来を見てしまった気がしているんだ」
王都の権謀術数の中で国家の生存戦略を模索し続けてきた軍務局長の口から零れ落ちた、純粋な感嘆。
サフィアンは馬の首を軽く撫で、静かな熱を帯びた声で応じる。
「そうですね。私は最初から王国の西の経済を学びに来ています。それこそ皇位継承権を捨ててまで」
「そこまでする価値があると踏んだのですね。西側に」
「はい。この先の百年、強靭な経済基盤なしに帝国は成り立たない。そして、帝国だけが栄えても、大陸の未来は先細りしかないというのが私の持論です」
乾いた荒野の中心で、二つの巨頭が静かに視線を交差させた。
大陸の未来を夢想する王国の軍務局長と、大陸の未来を模索する元帝国皇子。
何もない荒れた大地の中心で、両大国のトップ層が国家という枠組みを超え、新たな歴史の扉を開こうとしている。
武力による国境線の引き直しという古い時代の価値観が死に絶え、経済と物流、そして大地の豊穣という新たな概念が大陸を覆い尽くそうとしているのだ。
見渡す限りの不毛な大地の上に立ちながら、彼らの視線は確かに、国境を持たぬ豊穣の未来という同じ幻影を捉えていた。
大陸の趨勢を決するであろう濃密な沈黙が、極限まで張り詰めた、刹那。
「あんたたちの事情なんて知ったこっちゃないわ。それより日暮れまでに下見を終わらせるわよ! 働かない奴は晩飯抜きだからね!」
甲高く、一切の情緒を切り捨てるようなメリーの怒声が、荒野の静寂を粉々に打ち砕いた。
彼女は馬上で両手を腰に当て、歴史的な対話に沈み、勝手に感傷に浸っている男たちを容赦なく睨みつける。
大陸の未来、百年の計、国家の再定義。
それらすべての崇高な理念と重苦しい思考は、「晩飯」という圧倒的で絶対的な生活力という現実の前に、文字通り一瞬にして吹き飛ばされた。
アルベルトが堪えきれずに呆れたように吹き出し、肩を揺らして笑う。
エーベルハルトとサフィアンは、数秒の間だけポカンと口を開け、ふっと顔を綻ばせて、完全な降伏を示すように両手を高く上げた。
傾き始めた太陽が、荒野に落ちる馬と人々の影を少しずつ長く伸ばしていく。
歴史的対話の余韻は跡形もなく消え去り、西側の日常という名の、騒がしくも生命力に満ち溢れた時間が、再び彼らを呑み込んでいった。




