第43話:頂、最果ての地、西の王
「お、来たな、オーウェン」
ダルトン子爵邸の中庭には、夜来の喧騒を洗い流すような清廉な朝気が立ち込めていた。
昨夜、あれほどまでに痛飲し、地の底を揺らすような笑い声を上げていた男たちが、今は静寂の中で己の肉体と向き合っている。
マクシミリアンは、昇り始めた陽光を背に受け、一振りの木剣を振るっていた。
その呼吸は乱れず、一撃ごとに大気を鋭く切り裂く音が庭園に響き渡る。
少し離れた場所では、アルベルトもまた同様に、流れるような動作で剣を振っていた。
その姿は、荒々しき戦士というよりは、むしろ洗練された舞を舞う者の如くしなやかであった。
「将軍、……あ、もう将軍と呼んではいけないのか」
その場に現れたオーウェンは、反射的に呼びかけようとした口を噤み、苦笑いを浮かべた。
王国の軍務から離れ、一人の男としてこの地に立つことの重みを、彼は今さらながら噛み締めていた。
マクシミリアンは剣を止め、振り返ることもなく答える。
「かまわんぞ。役職としての将軍ではなくなったが、通り名としての将軍で良かろう」
その声には、地位を失った悲哀などは微塵も存在せず、むしろ重責から解き放たれた者のような潔さがあった。
オーウェンは一歩踏み出し、将軍の右手に握られている木剣へと視線を落とした。
かつて戦場を震撼させたあの大剣ではない。
そこにあるのは、どこにでもある軽量の片手剣であった。
「はい、将軍。将軍は大剣をやめたんですね。片手剣になってる」
「左手が使えんからな。鍬は振るえるが、剣は無理だ」
マクシミリアンは淡々と告げ、自らの左手を持ち上げた。
指を開き、閉じ、不自由な動きを確認するように繰り返す。
剣士にとって致命的とも言えるその損失を、彼は既に自らの一部として受け入れていた。
「……そうですか。軍を退いても剣は辞めないんですね」
オーウェンの言葉には、僅かな寂寥が混じっていた。
誇り高き騎士の象徴が、形を変えて維持されていることへの、名状し難い感情。
マクシミリアンはその視線を真っ直ぐに見返し、静かに問いを投げかけた。
「お前は退役したんだったか? 剣を捨てるのか」
「はい。私では将軍や辺境伯のような頂にはたどり着けない。あの日の戦いを見て、思い知らされました」
あの日、鋼が火花を散らし、人の領域を超えた力が衝突した光景。
それを見届けたオーウェンの心には、絶望というよりも、むしろ清々しいほどの限界への理解が刻まれていた。
だが、マクシミリアンは遠くを見つめ、低く呟く。
「……頂か。あれを頂と見るか。しかし、真の頂を知っているとなぁ……」
マクシミリアンの視線の先では、アルベルトが飛び散る汗も構わず、一心に木剣を振り抜いていた。
その一振りごとに立ち上る熱量を、オーウェンはただ静かに視界に収める。
「真の頂? 何ですかそれは?」
「おーい、アルベルト殿下。オーウェンに稽古をつけてやってくれないか」
マクシミリアンは問いに答える代わりに、離れた場所で独り鍛錬を続けていたアルベルトを呼んだ。
呼ばれた男は、何事もなかったかのように剣を収め、こちらへと歩み寄る。
「いいぞ。やろう」
昨夜の深酒さえも汗と共に流し尽くしたのか、アルベルトの足取りは驚くほど軽い。
その瞳に宿る光は、夜明けの冷気のように鋭く、それでいて不思議な温かみを帯びていた。
「オーウェン、剣を捨てるかどうか、決めるのはお前だ。だが、その前に見ておけ」
「剣の頂、ですか?」
マクシミリアンは無言で頷いた。
朝日が影を長く伸ばす中、アルベルトとオーウェンは、それぞれ木剣を携えて対峙した。
静寂が場を支配し、草露の落ちる音さえ聞こえそうな緊迫感が漂う。
「準備はいいか? オーウェン」
「はい。元『黒鉄』百人隊長オーウェン、殿下の胸をお借りします」
オーウェンは意識を研ぎ澄ませ、スッと目を細めた。
王国の精鋭を率いた自負を込め、微塵の隙も作らぬよう、全神経を眼前の敵へと集中させる。
対するアルベルトは、何ら飾り気のない自然体で立っていた。
しかし、その上体がゆらりと動いた瞬間、オーウェンは戦慄を覚える。
重心がどこにあるのか、どちらへ踏み出そうとしているのか、その予兆が全く読み取れない。
アルベルトが、予備動作を完全に消したまま半歩踏み込んできた。
オーウェンから見て左、上段からの鋭い一撃。
オーウェンはそれを視認し、即座に自身の剣を迎え撃つべく軌道を合わせた。
受ける、そう確信した。
はずだった。
現実はオーウェンの認識を嘲笑うかのように歪む。
剣が交わる衝撃はない。
次の瞬間、アルベルトはオーウェンの死角である右側へと滑り込んでいた。
無防備に晒されたオーウェンの頭部を、アルベルトの木剣が、コン、と軽く小突く。
「……は?」
オーウェンは、己の視覚が裏切られた事実に、ただ呆然と立ち尽くした。
「次行くぞ。呆けてる暇はないぞ」
アルベルトの平坦な声が、凍りついた思考を呼び戻す。
受けに回ったから、先ほどの不条理な機動を許したのか。
ならば、攻めるのみ。
オーウェンは再び構えを直し、今度は自ら仕掛けた。
アルベルトの重心が前に乗る刹那を見逃さず、全力で中段への横薙ぎを放つ。
剣士の距離。
回避も防御も許さぬタイミング。
アルベルトに受けを強要し、そこからの連撃で活路を拓く。
オーウェンの計算は完璧であったはずだった。
しかし、深く踏み込んで放たれたはずの胴への一撃は、何もない空間を虚しく薙いだ。
眼前にいたはずのアルベルトの姿が、蜃気楼のように消失している。
戸惑う暇もなく、再びオーウェンの頭頂部を、軽い感触が叩いた。
「……え?」
二度目の沈黙。
そこには、技術の優劣を超えた、理解を拒絶する「現象」があった。
「わかったか?」
傍らで静観していたマクシミリアンの声が、重く響く。
「あ、いえ、全然わからないです」
オーウェンは震える声で答えるしかなかった。
目の前で起きた事象が、どうしても飲み込めない。
「オレがオルコットに負けた時の最後の攻防……あの時、何が起きたか見えたか?」
「……あ! あれか。見ていた全員が騙された、そこにいたはずの辺境伯がいない、あれですね?」
記憶が鮮明に蘇る。
無敵を誇った将軍が敗北を喫した、あの不可解な辺境伯の動き。
マクシミリアンはニヤリと口角を上げ、アルベルトへと視線を移した。
「殿下も人が悪い。あんな業をオルコットに仕込んでいたなんて」
「どうしても教えてくれと言うんでな。本番で一発で成功させたあの胆力、褒めてあげたいよな」
アルベルトは事もなげに言い、木剣を軽く回す。
それは、教えた者がいればこその結末であった。
「……これが、剣の頂、か」
オーウェンは、自身の掌に伝わる木剣の重みを噛み締めた。
届かない高みに打ちのめされ、ただ地面を見つめることしかできない。
「お前が見ていたものは、あれと同じだ。実際の頂は、あの遥か先にある」
マクシミリアンが掲げた木剣の先には、西の山脈を根こそぎ飲み込んだ分厚い雲海が横たわっている。
峰の連なりは白一色の底に沈み、その先にあるはずの峻険な頂きは、ただ空の深奥に隠れて見えない。
「はい」
「軍に属していなくても剣は振れる。そんな簡単に捨てるな」
かつて憧れ、背中を追いかけ続けた英雄から贈られたその言葉は、オーウェンの心に新たな火を灯した。
地位がなくても、組織がなくても、剣を振るう理由はある。
高みを知った者の責任として、歩みを止めてはならないのだと。
「はい!」
オーウェンの力強い返答に、場に漂っていた厳粛な空気が、ふわりとほどける。
「もういいのか? 朝メシに行こう」
アルベルトが腹を鳴らすような気安い口調で笑い、二人の背を叩いた。
西の空気が、新しい一日の始まりを告げるように、優しく彼らを包み込んでいく。
──────
ダルトン子爵邸の食堂には、朝の柔らかな光と共に、瑞々しい新緑の香りを孕んだ風が吹き抜けていた。
卓の上には、昨夜の宴の喧騒を洗い流すような、温かなスープと焼き立てのパンが並んでいる。
敵も味方もなく、今は同じ朝の静寂を共有しているという事実は、西側の空気が持つ不思議な寛容さを物語っていた。
「こんな敵地にわざわざ訪れて、優雅に飯を食っている兄上も大概だな」
マクシミリアンが、その大きな体を揺らして椅子に腰を下ろした。
対面に座るエーベルハルトは、敵地にいるとは思えない身軽な装いで、静かにカップを手にしている。
「ああ、ここが敵地だというのは認識しているんだが、家にいると、やれ結婚しろだの、跡継ぎだのとうるさくてな」
エーベルハルトが溜息混じりに零すと、隣に座るメリーが、容赦のない視線を彼に投げかけた。
「あんたがいると、今後の作戦の話もできないじゃない。大迷惑だわ」
少女の峻烈な一喝にも、エーベルハルトは動じることなく、どこか楽しげに肩をすくめて見せる。
「そう言うな。アルベルト殿下、マクシミリアン、帝国の皇子、そして君だ。この状況で興味を持つなという方が無理だ。家にいるより遥かに面白い」
その言葉を受けたアルベルトは、まだ主の現れない空席を見やり、傍らに控える男へと問いかけた。
「その帝国の皇子様は起きてこないな。飲みすぎか?」
「ここまでの旅の疲れもあるでしょう。寝かせておきましょう」
オーウェンが、宥めるように穏やかな声を添えた。
その気遣いが、場の刺々しさを僅かに和らげる。
「せっかく兄上に会えたんだが、オレは明日ここを立とうと考えている。この通り、傷も癒えたんでな」
マクシミリアンはそう言うと、その太い左腕を無造作に回し、肩の関節を鳴らしてみせた。
逞しい肉が軋む音さえ聞こえそうなその動きは、快復の重みを物語っていた。
「どこに……、いや、これは聞いてはいけなかったか。すまない」
言葉を吐き出した瞬間に、エーベルハルトの顔が引き攣った。
あまりのバツの悪さに、彼は手にしていたスプーンを置くことさえ忘れ、ただ気まずそうに視線を泳がせることしかできなかった。
「別にかまわない。西の大商人様に買われたオレは、最果ての地、旧ノルトヴァルト領の調査に駆り出される。招集に間に合ってよかった」
マクシミリアンは、左腕に残る引きつれた痕を無造作に掴み、指先に伝わる弾力でその稼働を再確認した。
「それは興味のあるお話ですね」
ちょうど食堂に入ってきたサフィアンが、その会話を耳にして声を弾ませた。
「おお、帝国の皇子殿。旅の疲れは取れましたか?」
穏やかな微笑みを湛える彼へ、エーベルハルトが即座に声をかけた。
「はい、おかげさまで。あ、サフィアンでいいです。私は皇位継承権を返上した身ですので」
サフィアンは、至高の座を捨てたことを微塵も惜しまぬ様子で、軽やかに椅子に引いた。
「ではサフィアン殿、最果ての地の調査に興味が?」
「それも興味ありますが、やはり西の大商人様でしょう。何があるかわからない最果ての地に、大商人様自ら調査に赴く。夢がありますよね」
若き才子の言葉に含まれた熱量に、エーベルハルトが怪訝そうに眉を寄せる。
「何者なんだ? その西の大商人とやらは」
「あんた、堂々と諜報活動してるんじゃないわよ! 捕虜にするわよ!」
メリーが鋭く突っ込むと、サフィアンは当惑したように視線を泳がせた。
「えっと、エーベルハルト殿はマクシミリアン殿の兄で、この地を治める侯爵様ですよね? 諜報? 捕虜?」
「そこは複雑な話なんだ。それに言及すると面倒な話になる。私の家は歩いてすぐの場所にある。敵ではあるが、ただのご近所さんだと思ってくれ」
エーベルハルトが投げやりに説明を締めくくると、サフィアンは納得したのか、あるいは深く考えるのを止めたのか、清々しく頷いた。
「はぁ。よくわかりませんが、それでいいです。その西の大商人様の調査に、私も同行できないですかね?」
サフィアンの提案に、マクシミリアンが力強く応じる。
「できるんじゃないか? 護衛隊長はオレだ。そこにオーウェンも加われば護衛体制は盤石だろう。大商人様には自分で話を通してくれよ。いいよな? アルベルト殿下」
「いいんじゃないか? 『灰色の休戦条約』の調査員証を持ってるんだろ? 断る理由がない」
『灰色の休戦条約』。
今は形骸化されている、学術互恵特権。
それは、「大陸の再建を目的とする学術的調査については、いかなる国もこれを拒んではならず、調査員の身分を保証しなければならない」という古いルールだ。
「はい。ありがとうございます。出発はいつですか?」
「明日の朝一番にしよう。今日は明日に備えてゆっくりしていてくれ」
「はい。オーウェンさんも引き続きお願いします」
サフィアンの信頼に応え、オーウェンが静かに頭を下げた。
その主従の間に流れる空気に、エーベルハルトがふと疑問を口にする。
「ところで、何でオーウェンがサフィアン殿の護衛をやってるんだ?」
「そこはほら、帝国の諜報網というやつですよ。退役した王国の百人隊長が用心棒稼業を始めたというんで、即確保しました」
サフィアンが茶目っ気たっぷりに明かすと、オーウェンもまた、運命の妙を楽しむかのような笑みを浮かべた。
「まさかその話が将軍に繋がるとは思っていませんでしたよ」
マクシミリアンは、かつての部下が投げかけた言葉を可笑しそうに受け流した。
その瞳には、かつて軍務に縛られていた頃の峻烈さとは異なる、これから向かう荒野を既に楽しんでいるような、晴れやかな光が宿っている。
「最果ての地で『黒鉄』を再結成するか。軍隊ではなく開拓者として」
「いいですね、開拓集団『黒鉄』。楽しくなってきました」
オーウェンの声には、かつての部下としての忠誠以上に、新たな目的を共有する同志としての熱が籠もっていた。
「そういうわけだ、兄上。オレは国内の情勢には関与せん。最果ての地で鍬を振るっているさ」
「ああ、わかった。お前のことだ、最果ての地でも元気にやっていると思うことにするよ」
エーベルハルトは、もはや引き止める言葉を持たず、ただ弟の行く末を祝福するように頷いた。
「よし、明日に備えるぞ。馬車の用意、装備の点検、やる事はまだまだあるぞ」
「はい! 将軍!」
活気に満ちた返声が食堂に響き、マクシミリアンとオーウェンは、溢れんばかりの生命力を撒き散らしながらバタバタと屋敷から出て行った。
残された沈黙の中で、エーベルハルトは遠ざかる足音に耳を傾けながら、ぽつりと漏らした。
「やはり良いな、西は。あんな境遇でなお、あいつからは悲壮感どころか希望すら感じる。……羨ましいほどだよ。どうしてだろうな」
その呟きに答える者は誰もいない。
食卓を囲む者たちは、皆一様に、言葉にできない何かがこの地の空気を変え、人々を突き動かしていることを、肌で感じていた。
「ところで、西の大商人様って何者だ?」
エーベルハルトの素朴な疑問だけが、朝の静寂に戻った食堂に、虚しく響き渡った。
──────
朝食の余韻が漂う食堂で、エーベルハルトは緩めた襟元を扇ぐようにしながら、手元の茶を啜った。
その佇まいは王国軍務の重鎮というよりは、文字通り休暇を満喫しにきた近所の領主そのものであった。
「ところで、アルベルト殿下はなぜここに居るんです? ここが本拠地なんですか?」
エーベルハルトは、菓子皿に手を伸ばしながら世間話でもするように問いかけた。
その隣でパンの屑を払っていたメリーが、即座にジト目を向ける。
「またあんたは……。シレっとこっちの情報を盗もうとしてるんじゃないわよ」
「君もそうだ。ギルガルド家当主なら、領地に居るべきではないのか」
軽口を返すエーベルハルトに、アルベルトが穏やかに答えた。
「街道工事の下見だ」
「街道? 街道を敷くのか、ここに」
意外な言葉に、エーベルハルトは茶を飲む手を止めた。
「ああ、ランツェベルク領からヴォルフスブルクまで、南北に一直線の広い街道を作る。ここはその中間地点となる」
「昨日のメリュジーヌ嬢、いや、ギルガルド伯爵の話と繋がるのだな」
「メリーでいいわ」
不機嫌そうに頬を膨らませるメリーに、エーベルハルトは苦笑して頷いた。
「ではメリー殿と呼ばせていただこう。話を戻すぞ、メリー殿。何も生まない柵を作るのではなく、街道を境界とし、その両側を畑にする、そういう計画だと言っているのだな?」
「柵?」
初耳だと言わんばかりのアルベルトの反応に、メリーが「ぷんすか」という擬音が聞こえてきそうな勢いでまくし立てる。
「そうなのよ。この男、ダルトン領と侯爵家との間に柵を作るとか言っていたわ。目いっぱい罵倒しておいたけど」
「アイゼンハイド侯爵、それはないだろう。いくら何でも柵はあり得ない」
アルベルトの呆れ顔に、メリーは勢いづいてエーベルハルトを指差した。
「ほら! 裸族のアルでもこう言うわ。自分の浅はかさを恥じなさい。いくら専門外でも、あんたはここの領主様なのよ」
「あ、ああ。すまない。……しかし、その街道は軍事利用するためのものだろう?」
思わず謝ってしまったエーベルハルトだったが、その疑問だけは、王国の軍務局長の懸念として口をついた。
アルベルトは目を細め、遥か西の空を思い描くように語り出した。
「侯爵は知らないんだな。俺が王都を追われ、西の果てのレグスに逃げ延び、そこから五年間、何をやっていたかを」
「兵を集め、力を蓄えていたのではないのですか?」
「街道を作っていたよ。五年間ずっとだ。ずっと、それだけをやってきた」
震えるほどに淡々とした響きだった。
五年間、風の吹き荒れる荒野で、ただひたすらに未来を形作ってきた男の祈りに似た響き。
侯爵はそこに、失われつつある貴族の真の矜持を見た。
「王族のあなたが、街道工事を、ですか」
「そうだ。物がない、運ぶ手段がない。ただ死を待つだけの街を、街道と農地が救うんだ。そうやって俺たちは西側辺境を復興してきた」
アルベルトの脳裏を、大地と向き合った五年間がよぎる。
それは、王族としての虚飾を削ぎ落とし、ただ一人の人間として「成すべきこと」を積み上げ続けた、果てしない沈黙の時間だ。
その歳月が、いま彼の骨肉となり、鋼のような静かな自負へと形を変えている。
「だから、俺は街道を造るんだ。そして、そこから始めるんだ」
ただ、自らが踏み固めてきた土の感触をなぞるような、静かな断定。
エーベルハルトは、その熱を排した語りに、五年という歳月が作り上げた一人の男の完成を見た。
「殿下……」
「戦時中は軍事利用もするわ。でもそれは、街道があるから使う、それだけよ。私たちは、次の世代に残すものを創り続けるわ。王族だから、貴族だからじゃない。それが、私とアルの目指すものだからよ」
突然明かされる、西側の目的。
理解した。得体の知れない西側の『何か』。
その正体は、見据える地平も、刻む時間も、自分たちとは決定的に異なる「概念の化け物」。
エーベルハルトは、あまりに遠い視座に当てられたかのように、感嘆の混じった溜息を漏らす。
「次の世代に残すもの、か。……王国再建。……いや、我々が考えていたような、単なる旧体制の復興ではないのか。これこそがアルベルト殿下が掲げる真の大義。ヴォルガン陛下とは、歩む道も、見つめる先も違いすぎる……」
「ヴォルガンが間違っているとは言わない。どちらも正しいのだと思う。だが、俺にはこの方法しか選べない。いや、この方法以外を選ぶつもりはない」
アルベルトの揺るぎない眼差しを受け、エーベルハルトは椅子の背もたれに深く背を預けた。
天井を仰ぎ、喉の奥で澱んでいた空気をすべて吐き出す。
「西側の復興、ひいては王国全土の再建……か。実際に西側を蘇らせたアルベルト殿下なら可能かもしれん。しかし……」
「何よ? なんかケチでも付けようって言うの?」
「そうじゃない。ずいぶんと地道で先の長い話だな、と思っただけさ。もっと苛烈に、軍隊で王都を攻め落とすような話だと思っていたよ。……これほどの地平を見せられては、己の浅慮さが恥ずかしい」
自嘲気味に笑うエーベルハルトに、アルベルトは静かな、しかし抗いようのない確信を添えた。
「西からの復興がいつか王都に近づいたとき、その時は武力衝突もあるだろう」
「ふっ。王都の周りを全部畑にすれば、アルベルト殿下たちは攻め込んでこないかもしれないな」
エーベルハルトの半分冗談のような呟きに、サフィアンが目を輝かせた。
「それ、面白いですね。帝国も、帝都の周りを全部畑にすれば平和になるかもしれません」
「いつか、実現させましょう。王国と帝国の国境を大穀倉地帯にする。利益に見合わない損害をそこに置き、戦争をすることさえも許さない」
メリーの言葉が、食堂にいた者たちの想像力を刺激した。
誰の頭の中にも、浮かんでいた。
かつての国境線が見渡す限りの麦畑に姿を変え、黄金色に揺れている情景が。
「……ああ、それこそが、地に足のついた、この国のあるべき再建の姿なのかもしれないな」
エーベルハルトは、その光景を慈しむように目を細めた。
「……ところで」
ふと思い出したように、彼は居住まいを正した。
「西の大商人様って何者だ?」
「あんたもしつこいわね」
メリーがジト目を向けると、隣からサフィアンも口を挟んだ。
「私も興味があります」
メリーは呆れ顔を見せながらも、誇らしげに答えた。
「五年前、最初に復興を始めた時から、ずっと私たちに協力してくれている商人の男よ。今では西側経済圏の物資・流通の総責任者だと言っていたわ。実質、西側の王よ」
「そうだな。彼は王と呼ぶにふさわしい男だ」
アルベルトの言葉を聞き、エーベルハルトとサフィアンは、まだ見ぬその男の存在感にただ驚愕するしかなかった。




