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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
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第42話:境界線、てるてる坊主、西の裸族

「ダルトンはいるか」


 西側の風が、新緑の香りを孕んでダルトン領を吹き抜けていた。

 辺境伯と将軍が刃を交え、鋼の火花が散ったあの日からひと月。

 アイゼンハイド侯爵家当主、エーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、供の一人も連れず、ただの旅人のような装いでダルトンの館、玄関前に立っていた。

 王都での血の通わぬ軍務局長としての顔は、その簡素な仕立ての服に覆い隠されている。


「侯爵様!? 一体、どうしてこちらに……」


 玄関先で応対したダルトンは、眼前の男の正体に、思考を一瞬停止させた。

 驚愕に揺れるその視線に、エーベルハルトは苦笑を交えて答える。


「突然の来訪、済まない。先触れを出そうかとも思ったのだが、この距離ではな。直接来る方が早い。……それとも、招かれざる客だったかな」


「あ、いえ。とんでもない。どうぞ、中へ。お通しいたします」


 ダルトンは慌てて道を空け、主賓を迎えるための慌ただしい動作に追われた。

 近隣の領主同士、かつては茶飲み話もした仲ではあるが、今は「離反者」と「王国中央の重鎮」という断絶がある。

 しかし、エーベルハルトの歩みに迷いはなく、その背中からは、かつての友に対する変わらぬ信頼のようなものが滲んでいた。


「すまないな。お邪魔するよ」


     ──────


 重厚な扉が開かれ、二人が客間へと向かおうとした、その時であった。

 廊下の先から、静寂を切り裂くような甲高い叫び声が響き渡った。


「やめろ! 私をお人形さんか何かと勘違いしているのか!」


 猛烈な勢いで角を曲がってきたのは、一人の少女、メリーであった。

 その背後からは、燃えるような赤毛を振り乱した『海鳥』の女が、鋭利な光を放つ鋏を手に追いすがっている。


「だめッスよ! 痛んだ髪は切ってしまわないと、いくら洗ってもキレイにならないッス! 諦めて切らせるッスよ!」


「せっかくここまで伸ばしたんだ! 切らせてたまるか!」


 ギャーギャーと騒ぎ立て、風のように二人の横を通り抜けていく。

 エーベルハルトは、呆然としたままその嵐のような光景を見送った。

 彼が再び口を開くまでに、数秒の空白が必要だった。


「……何だ、あれは。貴公にあんな娘がいるなどという話、寡聞にして聞いておらんぞ」


 エーベルハルトの問いに、ダルトンは額を抑え、深い溜息を漏らした。


「……あれは、ギルガルド伯爵の娘。現ギルガルド家当主です」


「ギルガルドの……。ああ、あんな事があったのだ。身寄りのない彼女を、貴公が引き取って面倒を見ているというわけか」


「ああ、いえ。そうじゃないんですが。何というか……。……お掛けください、侯爵様」


 説明を放棄したようなダルトンの言葉に、エーベルハルトは首を傾げながらも、勧められたソファーに腰を下ろした。

 彼は懐から、王都の紋章が刻印された酒瓶を取り出し、卓の上に置く。


「まずはこれを受け取ってくれ。王都で一番の銘酒だ。先触れなしの無礼を、これで流してほしい」


「……痛み入ります。ありがたく受け取らせていただきます」


 ダルトンは静かに酒瓶を手に取り、それから椅子を正し、深く頭を垂れた。


「……侯爵様、此度は申し訳ないことを。アイゼンハイド家に対し、不義理を働いたこと、弁解の余地も……」


「良い。そのことを責める気はない。頭を上げろ」


 食い気味に放たれたエーベルハルトの言葉に、ダルトンの肩が揺れる。

 本来ならば、法と規律を何よりも重んじる男なのだ。

 旧知の仲であるその男は、かつてのように穏やかな、親しみを込めた口調で続けた。


「アイゼンハイド家は、離反した三家を追求せん。これ以上の兵を出すのは無駄だという、中央の――いや、私の判断だ。今、我らは西側にばかり煩わされている場合ではないのだよ」


「……帝国ですか」


「そうだ。なので、お互いに損のない取り決めをしようと思ってな。こうして貴公を訪ねたわけだ」


 一領主として、そして一人の人間としての交渉。

 ダルトンはその意図を汲み取りつつも、申し訳なさそうに視線を落とした。


「……そう言ってくださるのはありがたい。ですが、私は一度、背を向けた身。どのような要求をされたとしても、拒む権利は……」


「良いと言っておる。侯爵家としては、貴公らが我が領に進軍してこなければ、それで良いのだ。そんなに卑屈になるな、ダルトン。貴公らしくもない」


 エーベルハルトが鷹揚に笑い、空気を和ませようとする。

 ダルトンもまた、その度量に救われたように、表情を和らげた。


「承知いたしました。して、取り決めの内容ですが……」


 核心に触れようとした、その瞬間。

 再び少女のバタバタと騒がしい足音が聞こえ、叫び声が部屋の中にまで届いた。


「やめろと言っているんだ! そんなに切りたければ、オルコット卿の髭でも切ってろ!」


「そんなもん、触りたくもないッスよ!」


 ダルトンは耐えかねたように椅子を立ち、扉の外を覗き込むように声を張り上げる。


「……侯爵様、少々お待ちいただけますか。……こりゃ、メリーちゃん。来客中だ。騒ぐでない」


 その呼び方に、エーベルハルトの眉が微かに動いた。

 あの一戦を経て、領主としての威厳を纏っていたダルトンが、一人の少女を愛称で呼び、宥めている。


「お客様? どちらさん?」


 メリーがひょいと部屋を覗き込んだ。

 その姿は、散髪用の真っ白な布に包まれ、さながら「てるてる坊主」のような滑稽な有様であった。

 さらに、前髪と頭頂部の毛を無造作に縛り上げられ、額は丸出し、頭上には奇妙な「ちょんまげ」が直立している。


「んッ、……ぶふっ」


 エーベルハルトは、堪えきれずに吹き出した。

 震える肩を必死に抑え、それでも、溢れ出る笑みを隠しきれない。


「……これは。……可愛らしいレディ。はじめまして。私はエーベルハルト・アイゼンハイドと申します」


「あんた、今笑ったわね! メリュジーヌ・ギルガルドよ! はじめまして!」


 憤慨し、布に包まれた体で跳ねるように抗議しつつも挨拶をするメリー。

 その後ろから、赤毛の女が真っ青な顔で滑り込んできた。


「姐さん! エーベルハルト・アイゼンハイドって、侯爵様じゃないッスか! だめッスよ、失礼にもほどがあるッス!」


「アイゼンハイド侯爵? 敵じゃない! 何やってるのよ、ダルトンおじ様。こんな奴、中に入れて!」


 遠慮のないメリーの物言いに、ダルトンは額を抑えて溜息をついた。


「戦後処理というやつじゃ。敵とかどうとかの話ではない。メリーちゃんにも関係のある話だ。こっちに来て聞きなさい」


「わかったわよ」


 メリーは不承不承、てるてる坊主の姿のままダルトンの隣に陣取った。

 背後には、護衛とも侍女ともつかぬ赤毛の女が、恐縮した様子で控えている。


「話が途中になったが……。侯爵家は離反した三家と争う気はない。なので、形式的に侯爵領とダルトン領の間に柵でも構築し、棲み分けをしようじゃないかと、そう提案を……」


「あんた、正気?」


 メリーのジト目がエーベルハルトを射抜いた。

 ダルトンが慌てて割って入る。


「おいおい、メリーちゃん。侯爵様に向かって、『あんた』はないだろう……」


「あんたで十分よ。あんた、中央の軍の親玉でしょう? そんな脳筋だから、将軍みたいな筋肉だるまが育つのよ。柵で分けて、どうするっていうの」


 メリーの言葉は、エーベルハルトが長年かけて築いた軍事的常識を、無造作に踏み潰していった。

 エーベルハルトは、ちょんまげを揺らして詰め寄る少女の姿に、気圧されるような感覚を覚える。


「あ、ああ。……なんかわからんが、すまない」


「なぜ戦争が起こるかわかる? そんなこともわからないから、国民が、住民が苦しむことになるのよ。どうなの?」


 その問いには、相手の言い訳を一切封じ込めるような、剥き出しの意志が宿っていた。

 エーベルハルトは姿勢を正し、一人の知性体として答える。


「わかるさ。どうしても欲しいものがある。どうしても倒したい敵がいる。物理的な限界や資源の欠乏、あるいは思想の相違。だから戦争は起こる」


「そうじゃないのよ。簡単な話よ。王国と帝国の話で言うなら、国境で住む場所を分けたから戦争が起こる。アルとヴォルガンで言うなら、兄と弟で道が分かれたから戦争が起こる。こう言ってるのよ」


 メリーは、てるてる坊主の布の中から、細い指先でエーベルハルトを指した。


「あんたと将軍の間で、戦争が起きなかったのはなぜ? 兄弟で別の道に分かれなかったからよ。違う?」


 エーベルハルトは絶句した。

 その言葉に含まれる哲学的深淵。

 だが、眼前の額丸出し少女の頭上では、結ばれた髪が滑稽に揺れている。


「……ああ、今、君がすごく良いことを言ったのはわかる。だが、その見た目のせいで、全く頭に入ってこない。……これは、困ったな」


「ちょっと! あんたのせいで台無しになってるわよ! どうしてくれるのよ!」


 メリーが背後に控えていた赤毛に噛み付く。

 客間の空気は、かつてないほど混沌としていた。


「そ、そんなことあたしに言われても困るッス!」


「困ってるのはこっちよ!」


 その騒ぎを、エーベルハルトは静かに見守っていた。

 笑いを堪え、思考を巡らせる。


「待ってくれ。君はこう言いたいのだな。形式上、別々にするからこそ、そこに『敵』という概念が生まれる、と。線を引き、境界を定義した瞬間に、衝突は運命付けられるのだと」


「そうよ。線引きをした瞬間、戦争が起こることは決定事項になるのよ」


 メリーの瞳は、冗談など一切含んでいなかった。


「ん、……っぶふ。……柵で区切るのは、愚策だ。そう言うのだな」


「何笑ってるのよ! 私は今、すごく真面目な話をしているのよ!」


「わかった、わかった。君の言うことは真理だ。だが、どうする? 境界を曖昧なままにしておいて、民は納得するか?」


「戦争を終わらせる方法を、あんたは知ってる?」


 メリーの問いに、エーベルハルトは軍人としての模範解答を返す。


「欲しいものを手に入れれば。あるいは、倒したいものを倒しきれば、戦争は終わる」


「それだけじゃないでしょう? 利益に見合わない損害が出れば、戦争は終わるわ。この意味がわかる?」


「……!」


 エーベルハルトは、息を呑んだ。

 背筋を、冷たい戦慄が走り抜ける。


「あんたの弟は先日、軍を率いて来たわ。でも、戦わずに終わった。わかるわよね」


「わかる。……利益に見合わない損害、即ち、精鋭部隊『黒鉄』を失うリスクを前に兵を引いた。……そういうことか」


「そうよ。それをやればいいのよ。柵なんか作らずに」


 メリーは、言い切った。

 エーベルハルトは再び、彼女のちょんまげを見つめ、それから深く溜息をつく。


「言っていることはわかる。……だが、君のその姿のせいで、私の頭の整理が追いつかん。……どうしたものか」


「めんどくさいわね、あんた。簡単に考えなさい。柵を作って、誰かのお腹が膨れるの? 誰かが儲かるの?」


「あ、ああ。わかった。すまない、そんなことまで言わせてしまって。……何も生まない柵を作るくらいなら、畑でも作れ。……そう言っているのだな」


「わかってるじゃない。ここら一帯を、全て畑にしなさい。そこで戦争が起これば作物は全滅し、血が流れれば土地も死ぬわ。それこそが、『利益に見合わない損害』よ」


 エーベルハルトは、椅子に深く身を沈めた。

 この額丸出しちょんまげ少女の言葉は、国家戦略の根幹を、一瞬で定義し直してしまった。


「ああ、わかる。こんな簡単な話を、一から説明させてしまって、本当にすまない」


「いいわよ。話はもう済んだわね」


 メリーは、てるてる坊主の布を捌きながら、無造作に立ち上がった。


「感謝する、メリュジーヌ嬢。礼と言っては何だが、こちらからも一つ、進言していいか?」


「何よ?」


「これからの暑くなる季節、髪は切っておいて損はないと思うぞ」


「そうッスよね! 侯爵様もそうおっしゃってるし……!」


「……わかったわよ。切りすぎはダメよ。失礼するわ、侯爵様。ダルトンおじ様」


「失礼しまッス! 侯爵様、子爵様」


 嵐のような騒がしさが、足音と共に遠ざかっていく。

 客間に再び訪れた静寂は、以前よりもずっと重く、そして透明なものになっていた。


「ふー……」


 エーベルハルトは、ソファーの背もたれに体を預け、大きく息を吐き出した。

 その顔には、名状し難い疲労と、それ以上の高揚が混じり合っている。


「何か、すみません。話の腰を折ってしまったようで……」


 ダルトンが申し訳なさそうに声をかけるが、エーベルハルトは首を横に振った。


「とんでもない。今のは、国家という枠組みそのものを解体し、再定義する禁忌の知恵のような話だ。……少女の戯言と聞き流すには、あまりに真理すぎる。脳が痺れるような感覚だよ」


 エーベルハルトは目を伏せ、物思いに耽る。

 王都で感じていた、西側の得体の知れない「何か」。

 その正体が、今、目の前を通り過ぎていった。


「アレなんだな。西側には得体の知れない『何か』がいると感じていたが……。あの娘が、そうなんだな」


「……侯爵様」


 ダルトンの声に、警戒の色が混じる。

 エーベルハルトはそれを見抜き、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「心配するな。陛下に進言したりはしない。だが、私は確信したよ。あの娘こそがアルベルト殿下を擁立し、ブラッドレイ子爵を奮い立たせ、オルコット辺境伯を戦場に呼んだ。……そうなんだろう?」


 ダルトンは、何も答えなかった。

 ただ、沈黙が、その肯定を静かに物語っていた。


「良い。忘れてやる。ただし……」


 エーベルハルトが、酒瓶を見つつ、ニヤリと笑う。


「この時間から、酒ですか。嫌いじゃありませんよ。用意しましょう」


 ダルトンは立ち上がり、棚からグラスを取り出した。


     ──────


 琥珀色の液体が満たされたグラスの触れ合う音が、夕闇の迫る客間に静かに響いた。

 その穏やかな時を破ったのは、館の裏手から聞こえてきた、祭りの前触れのような騒がしい野太い声であった。


「お、帰ってきたな」


 ダルトンが窓の外に目をやり、口角を緩めた。

 エーベルハルトはグラスを置き、不思議そうに眉を寄せる。


「何事だ? 何か、大きな騒動でも起きたのか」


「肉ですよ、肉。猛者たちが山へ入りましてな。そろそろ晩餐の獲物を持ち帰る頃合いだと思っていたところです」


 ダルトンの言葉が終わるか終わらぬかのうちに、廊下を駆ける軽やかな足音が聞こえてきた。


「肉! 肉が帰ってきたわ! 手ぶらで帰ってきてたら許さないわよ、アル!」


 弾むような声と共に現れたのは、先ほどの滑稽な姿を脱ぎ捨てたメリーであった。

 乱れていた髪は美しく整えられ、瑞々しい若葉を思わせる軽やかさを纏っている。

 その首筋は夕日に照らされて白く輝き、先ほどの「てるてる坊主」とは、もはや同一人物とは思えぬほどの洗練された佇まいを見せていた。


「おや、メリュジーヌ嬢。随分とさっぱりしたな。その方が、より大人っぽく見えるぞ」


 エーベルハルトが、心からの感嘆を込めて声をかけた。

 それは宮廷的な社交辞令というよりは、一人の美しい女性に対する、無意識の賞賛であった。


「あら、ありがとう。お上手ね、侯爵様」


 メリーが足を止め、ふわりと裾を広げてにっこりと微笑む。

 その瞬間、エーベルハルトの胸を、言いようのない鋭い衝撃が突き抜けた。


「……!」


 心臓を冷たい指で鷲掴みにされたかのような、抗い難い感覚。

 権謀術数の渦巻く王都で、数多の美女や才女を見てきたはずの彼が、一瞬、呼吸を忘れた。

 それは彼女の容姿以上に、その内面から溢れ出す圧倒的な生命力と、すべてを見透かすような瞳の輝きによるものだった。


「驚いたな。……これはまた、なんとも素敵なレディじゃないか。先ほどとは大違いだ。西側の男どもは、皆この笑顔に射抜かれたというわけか」


「……否定はできません。我ら凡夫には、いささか眩しすぎます」


 ダルトンが苦笑混じりに頷く。

 エーベルハルトは、己の動揺を隠すように酒を一口含んだが、その視線は扉の方へと吸い寄せられたままであった。


「戻ったぞ、メリー」


 豪快に扉を押し開け、アルベルトが部屋へと足を踏み入れた。

 山での狩猟に没頭していたのか、その肌は汗ばみ、上着を脱ぎ捨てた逞しい上半身を剥き出しにしていた。

 隆起する筋肉には、大地と格闘した者特有の泥が、勲章のように付着している。


「アル、その、いつでもどこでも裸になる癖、やめなさいって言ってるでしょう。お客様がいらしてるのよ」


 メリーが呆れたように腰に手を当てる。

 アルベルトはそこで初めて、客間に座る先客の存在に気づいた。


「あ、ああ、すまない。だが喜べメリー、なかなかの収穫だ。今宵は盛大な宴になるぞ」


「アルベルト殿下」


 エーベルハルトが立ち上がり、静かにその名を呼んだ。

 王族に対する最低限の礼を保ちつつも、その眼差しには、かつて王都で王国の剣として君臨していた第一王子の、野性味すら帯びた変貌への驚愕が滲んでいた。


「アイゼンハイド侯爵? どうしてここに」


 アルベルトは驚きに目を見開いたが、その双眸は即座に、戦場を俯瞰する将のそれへと変貌を遂げた。

 眼前の男が抱える意図の深さを測り、その一挙手一投足から微かな揺らぎすら逃さぬ、鋼の硬度を持った視線。

 実弟を捕虜に取られ、面目を潰されたはずのアイゼンハイド家の当主が、あえて単身でこの地に乗り込んできた。

 その真意を抉り出さんとする圧が、客間の空気を再び重く沈ませた。


「敗戦処理だ。……と言っても、事務手続きに入る前の、単なる根回しだな。休暇で実家に戻ったついでに、旧友の顔を見に来ただけだよ」


 エーベルハルトが肩をすくめて見せた、その時。

 アルベルトの背後から現れたもう一人の男が、声を震わせた。


「……兄上!」


「マクシミリアン! 怪我はもう良いのか?」


 生きて再会した弟の姿を、エーベルハルトは静かにその目に焼き付けた。

 捕虜の身とはいえ、その五体が健在であることを確認し、兄としての重い安堵が喉の奥で震える。

 彼は多くを語らず、ただ一つ頷くことで、その再会を自身の内へと収めた。

 だが、その再会の余韻を断ち切ったのは、やはりメリーであった。


「そんな話はあとでいいでしょ! 今はまず肉よ!」


 彼女の峻烈な言葉に、重苦しくなりかけた空気が、一気に生活の匂いへと塗り替えられる。


「ああ、そうだな。まずは解体だ。ダルトン、裏庭を借りるぞ。血抜きは済ませてある」


 アルベルトは笑い、マクシミリアンの背を軽く叩いた。

 王位も、領地も、あるいは国家の行く末さえも。

 血の匂いの残る政治の対話は、少女が放つ「肉」という一語によって、解体場へと向かう男たちの喧騒の中へと押し流されていった。


     ──────


 すっかり日は落ち、ダルトンの館の前に広がる広場には、薪の爆ぜる音と脂の焼ける芳醇な香りが充満していた。

 数基の焚き火が闇を赤く染め上げ、その周囲には領主も、捕虜も、王族も、そして近隣から集まった住民たちもが、境界を失った宴の渦に身を投じている。


 その輪の中心で、メリーはひたすらに肉を食らっていた。

 美しく整えられたばかりの髪を夜風に揺らしながらも、その手元では、皿に盛られた黄金色の肉塊が次々と口へと運ばれていく。

 その横では、『海鳥』の女たちが汗を光らせながら大振りの肉を焼き、酒を注ぎ回り、広場全体に絶え間ない活気を与え続けていた。


 少し離れた場所に腰を下ろし、エーベルハルトはカップに注がれた安酒を、静かに喉に流し込んだ。


「やはり、西は良いな。……王都は、どうにも息が詰まってしょうがない」


 隣で同じように肉を噛み締めていたマクシミリアンが、兄の言葉に鼻で笑う。


「仕事なんて放り出して、帰って来いよ、兄上。領主も辞めちまえ。猟師になれ」


「……面白くないぞ、その冗談は。だが、悪くない。私には、こうした地に足のついた営みの方が、性に合っているのかもしれんと、本気で思い始めている」


 かつて軍務の頂点として、地図の上で命を数えていた男の横顔に、人間らしい弛緩が浮かんでいた。

 その視線の先では、アルベルトとダルトンが既に幾つもの空樽を積み上げ、笑い声を上げながら杯を重ねている。

 王国の崩壊を予感させる暗雲は、この焚き火の光に焼かれ、一時だけ忘れ去られたかのようであった。


 だが、その熱狂を切り裂くように、闇の向こうから蹄の音が近づいてきた。

 談笑していた男たちの手が、無意識に腰の剣のあった場所へ、あるいは酒杯の縁へと伸びる。


「アルベルト殿下はおられますか!」


 馬上の男が、広場の端で声を張り上げた。

 焚き火の光に照らし出されたのは、煤けた旅装に身を包んだオーウェンであった。

 その瞳からは、かつて『黒鉄』を率いていた頃の、張り詰めた殺気が消えていた。

 代わりに宿っているのは、一度すべてを捨てた者だけが持つ、奇妙に落ち着いた光だ。


「ここだ!」


 アルベルトが、相変わらず上半身を晒したまま立ち上がる。

 オーウェンは馬を降り、片膝をついて頭を垂れた。


「殿下。……急ぎ、お目通りを願いたい客人を連れて参りました」


 オーウェンの背後、もう一頭の馬から、一人の青年が音もなく地面に降り立った。

 洗練された旅装束、そして何よりも、その場にいる誰とも異なる、知性の極致を煮詰めたような双眸。

 青年は広場を、そして焚き火に照らされた異様な宴の情景を、興味深げに一瞥した。


「お初にお目にかかります。サフィアン・エルフィリアと申します」


 サフィアンの放った名が、夜の空気を一瞬で氷つかせた。

 エルフィリア。

 東の帝国、その頂を戴く者の姓。

 エーベルハルトも、ダルトンも、そしてアルベルトも、その名が持つ重みを即座に理解し、言葉を失う。

 しかし、当のサフィアンは困惑したように目を細めた。


「……ええと。こちらの裸族の方が、アルベルト殿下でよろしいので?」


 その問いに応じるかのように、焚き火から爆ぜた巨大な火の粉が、アルベルトの逞しい胸板へと飛び込んだ。


「アチッ」


 アルベルトが、間の抜けた声を上げて胸を擦る。

 東から来た才子が見たものは、ただただ肉と酒を謳歌する西の裸族の姿であった。


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