第41話:沈黙、音もなく消えた女、帝国の次の百年
「……将軍が堕ちたか」
王城の深奥、重厚な石壁に囲まれた作戦会議室には、沈火した炉のような熱を孕んだ静寂が横たわっていた。
卓を囲む者たちの影が、揺らめく灯火によって歪に引き伸ばされ、壁面に刻まれた王国全図を黒く侵食している。
玉座に浅く腰掛けたヴォルガンは、眼前に跪く男――元『黒鉄』の百人隊長オーウェンを、射抜くような眼差しで見下ろした。
王の言葉は短かったが、その重圧は石の重みとなって室内の空気を押し潰す。
「は。マクシミリアン将軍、および副官は捕虜となりました。また、百名ほどの兵が将軍に付き従い、西側に留まったとのことです。残る兵は王都に帰還済みです」
オーウェンの声は乾き、敗戦の泥を噛み締めるような苦渋が滲んでいた。
将軍の武に憧れ慕って集まった『黒鉄』が将軍を失い、抜け殻のようになった『黒鉄』を率いての王都への帰還。
その煤けた鎧と生気を失った頬の削げ方から、その苦労が見て取れる。
彼が語る一語一語が、王国の軍事的権威に刻まれた修復不能な亀裂を露わにしていった。
「将軍は一騎打ちの末に深手を負い、もはや剣を振るうことは能わぬとのこと。また、対した辺境伯も同様に引退を余儀なくされたと聞き及んでおります」
「……相打ちか。無駄死にでないだけマシだったと言うべきか。マクシミリアンめ。武の頂点を競うなどと、この期に及んで騎士気取りの真似を」
吐き捨てるように言葉を継いだのは、アイゼンハイド侯爵家の当主、エーベルハルトであった。
整えられた顎鬚を指先でなぞるその表情は、肉親の再起不能を悼む色よりも、政治家としての血の通わぬ損得勘定が、肉親への情を容易く塗り潰している。
その指先は微かに震えていたが、それが怒りによるものか、あるいは予測を上回る事態への戦慄によるものかは判然としない。
「西側に手玉に取られた事実に変わりはないが、最低限の面目は保ったか。国軍を動かさず、あくまでアイゼンハイド家中の不祥事として処理したのは正解であったな。王国の名を冠した軍が敗北したとなれば、王都の動揺はこれだけでは済まなかった」
ヴォルガンは肘掛けを指先で執拗に叩き、苛立ちを逃がすように長く重い吐息を漏らす。
その視線の先にある王国全図の西側は、いまや王都の版図から切り取られた空白地帯、あるいは底知れぬ深淵と化していた。
「陛下、申し訳ございません。私の独断に近い形で『黒鉄』を動かし、挙句、この敗戦。軍務局長として、どのような糾弾も甘んじて受け入れます。この首を以て償えと仰せであれば、即座に」
エーベルハルトが深く頭を垂れる。
それは真摯な謝罪であると同時に、軍権の一部を事実上喪失した責任の所在を明確にし、他者からの追求を封じるための老獪な儀式でもあった。
ヴォルガンはその欺瞞を見透かしながらも、今は彼を更迭する余裕がないことを自覚していた。
「良い。戻った『黒鉄』は王国軍に組み込め。再編の采配は貴公に任せる。今は一兵の損失すら惜しい時期だ。貴公の首を撥ねたところで、失われた地平が戻るわけではない」
「寛大なる御配慮、痛み入ります」
ヴォルガンは短く頷き、視線を卓の端、暗がりに半ば溶けるように控えていた男へと移した。
宰相ガメル。
常に薄汚い笑みを貼り付けたその男の存在は、この会議室における不吉な停滞の象徴のようでもあった。
「……して、ガメル。貴公の見解を聞こう。このまま座して、西側を肥え太らせるつもりか」
名を呼ばれた宰相ガメルは、細い指を組み合わせ、湿り気を帯びた薄笑いを深めた。
その瞳の奥には、国難をどこか他人事のように愉しむような、歪んだ光が宿っている。
「王国軍を動かせぬ現状、もはや手の打ちようがございませんな。アルベルト殿下が中央へ進軍してくるのを、ここで座して待つ以外に我らができることはございますまい。無理に兵を出せば、それこそ東への備えが霧散いたします」
「……帝国ですか」
エーベルハルトが、西のさらに先、国境線という概念すら無意味にするほどの広大な版図へと想いを馳せるように呟いた。
彼の脳裏には、国境付近で蠢動する帝国の鋼の軍勢が描かれている。
「アルベルトと帝国が繋がっている。そう断じる他あるまい。此度の帝国の不自然な動きは、あまりにも西側の攻勢と連動しすぎていた。まるで、我々の視線を東へ釘付けにするための大掛かりな舞台装置のようではないか」
ヴォルガンの言葉に、ガメルは慇懃に首を振る。
その態度は、自らの無能を隠すための壁を築いているようにも見えた。
「『梟』に調査を命じておりますが、一向に実のある報告が上がって参りません。西側は、今や鉄壁の沈黙に守られております」
「その『梟』は、西側でまともに機能しているのか。我らの敗因は、一重に情報の欠如にある。敵軍一千と踏んで現地に赴けば、待ち構えていたのは四千の精鋭であった。話が違いすぎる」
オーウェンの鋭い指摘に、ガメルの表情から余裕が消え、不快げな影が差した。
彼にとって、自らが統括する諜報網の不備を指摘されることは、存在意義を否定されるに等しい。
「西に放った『梟』の半数は、消息を絶っております。……狩られた、と考えるのが妥当でしょうな。それも、素人仕事ではない。こちらの初動を読み、急所を的確に突く、高度な隠密組織の手が入っております」
「情報戦で後れを取っている。即ち、そういうことだ。アルベルト殿下の側近――あの男の仕業と見て間違いなかろう。我らの手の内を誰よりも熟知している者が、向こう側にいる」
エーベルハルトの声に、ヴォルガンが反応する。
かつて王城の影として、王国の安寧を裏側から支えていた男の名。
「……ジャックか。元『梟』の影務官。影の扱いを、そして我々の思考の癖を知り尽くした、最も厄介な男を敵に回したな。オーウェン、現地に奴の姿はあったのか。直接、その刃を交えたか」
「は。西側連合総帥の傍らに、常に影のように侍っておりました。私が近づく隙すら与えぬ、底知れぬ威圧感を放っておりました」
「西側連合総帥だと? アルベルト殿下ではなく、別の者が首魁だと言うのか。誰だ、それは。オルコットか?」
エーベルハルトが、意外な報告に身を乗り出した。
武を重んじる辺境伯であれば理解できるが、それ以外の名が挙がるとは露ほども思っていなかった。
「いえ、ブラッドレイ子爵です。西側連合の総帥と呼ばれ、作戦本部の中心に座しておりました。全軍の采配、および各領主への指示を執っていたのは、紛れもなくあの子爵です」
「ブラッドレイだと……? あの、王都では頭脳だけの文弱、頭脳に長けただけの小役人と揶揄されていた、あの子爵か」
エーベルハルトが絶句し、苦い記憶を反芻するように視線を落とす。
彼の脳裏に、学院時代、どのような難解な盤面をも一瞬で見抜いていた、一人の青年の静かな瞳が蘇っていた。
「知っているのか、エーベルハルト」
「は。……王都の社交界では目立たぬ男でしたが、学院時代は『伝説』とまで称された男です。王国の智識、軍略の理論において、あの男の右に出る者はおりませんでした。ただ、野心というものが欠落しているように見えておりましたが……」
「そんな男までもが、アルベルトに付き従っているというのか。西側には、厄介な者しかおらんのか」
ヴォルガンは椅子の背に身を預け、天井を仰いだ。
石造りの天井は冷たく、彼に何の答えも与えない。
その双眸には、見えざる敵の正体に対する、制御しきれない焦燥が滲んでいる。
「ブラッドレイ子爵は、自ら表に立って何かを成すような気性の持ち主ではありません。あれは、誰かの理想を形にするためにのみ、その異能とも呼べる智謀を振るう男。……西には、我々の預かり知らぬ、真の『何か』がいると考えるべきでしょう」
「何か、とは。アルベルト殿下以外の何者かが、糸を引いているとでもおっしゃる?」
ガメルの問いに、エーベルハルトは重く首を振った。
「わからん。だが、『梟』を放てば即座に狩られ、こちらの軍略は先読みされる。この状況下で西の深部を探ることも叶わぬ。どこまでも忌々しい」
「……アイゼンハイド侯爵領の防衛はどうされます。将軍が不在となり、領民の動揺も激しいと聞き及んでおりますが」
ガメルの問いは、火に油を注ぐような無遠慮さを孕んでいた。
「別にどうもしない。ダルトン領との境界に、形式的な柵でも構築しておけば十分だ。これ以上の戦力投下は無意味だ。こちらから攻め入る意思はないと示せば、向こうも今は動くまい。あちらはあちらで、領地の再編に追われているはずだ」
その言葉には、かつて王国中央を支えた知略の壁としての覇気はなく、ただ無駄な出血を避けるための消極的な幕引きの響きがあった。
「現状、西に対して打てる有効な一手はない、か。実に忌々しく、面倒極まりないな。アルベルトを国王に担ぎ上げて、西側だけで勝手に独立でもすれば良いものを」
「陛下、それは流石に、冗談が過ぎますな……。王権の正統性を疑われるような発言は、お控えを」
ガメルが形式的な苦言を呈したが、ヴォルガンの表情に笑みはなかった。
「冗談だ。だが、身動きが取れぬのもまた事実。……オーウェン、貴公はどうする。敗れたとはいえ、貴公の武勇を疑う者はおらん。王国軍に新たな席を用意させるが」
ヴォルガンの問いに、オーウェンは静かに、しかし断固として首を振った。
その手は、かつて自身の誇りであり、命であったはずの剣の柄にすら触れていない。
その精神は、あの戦場で、人知を超えた「何か」によって既に折られていた。
「……退役を希望いたします。武の極みを求め、『黒鉄』にまで這い上がったつもりでしたが、あの一騎打ちを見せつけられては……」
「届かぬ、か。あの領域に」
「はい。私ごときが到達できる場所ではない。あそこに並び立つ者は、この大陸に数人とおりませぬ。……私は、もう戦えませぬ」
「そうか。まあ良い。貴公のような男を失うのは惜しいが、拾った命だ、好きにするが良い」
王の許しを得て、オーウェンは深く一礼し、音もなく部屋を去った。
残された者たちの間に、再び淀んだ沈黙が降り積もる。
「無駄を承知で『梟』を放ち続ける他ありますまい。諜報部門は、根底からの再構築が必要やもしれません」
「……そうだな。ひとまず現状維持だ。我らの真の敵は西ではない。東の帝国なのだからな」
ヴォルガンの言葉を最後に、会議は形ばかりの散会となった。
結局、具体的な打開策は一つとして決まらず、事態は遅滞という名の深淵へと沈んでいく。
窓の外には、王国の黄昏を予感させる暗雲が、音もなく広がり始めていた。
何も決まらない。何も進まない。
ただ時間だけが、修復の叶わぬ器から溢れ出す水のように、静かに、確実に王国の命脈を削り取っていく。
──────
王都の喧騒を遠くに臨む一等地、宰相ガメル・ガーディス侯爵の邸宅は、主人の権勢を誇示するように豪奢な装飾に彩られていた。
その一室、柔らかな絨毯が敷き詰められた私室で、ビオラ・ギルガルドはクリスタルのグラスに注がれた深紅の果実酒を、退屈そうに弄んでいた。
窓の外には、王都の整然とした街並みが広がっている。
かつて支配していたギルガルド領の、泥臭い山あいの情景とは比較にならぬほどの富の輝き。
彼女にとって、夫であるギルガルド伯爵の死、息子ルシアンの死、娘フェリシアの行方不明も、遠い異国で起きた些末な事故のような認識でしかなかった。
自身が生き残り、この王都の繁栄の中に居場所を確保できているという事実だけが、彼女の世界のすべてであった。
「全く、何がどうなっているのよ。ガメル兄様はまだ帰ってこないの? いつまで私をこの狭い部屋に押し込めておくつもりかしら」
ビオラは、傍らに控える侍女へ向けて、不機嫌さを隠そうともせずに声を荒らげた。
ギルガルド領を捨てて王都へ逃げ込んだ際、彼女を真っ先に迎えたのは兄の庇護であったはずだ。
だが、ここ数日の兄は、王城に詰め切りで一度も顔を見せていない。
「ガメル様は、未だお戻りにはなられません」
問いかけに応じた侍女の声は、低く、水底の砂のように無機質であった。
その視線は足元の絨毯に固定され、主人の不興を恐れる風でも、敬意を払う風でもない。
「役立たずね。兄様が戻ったら、真っ先にあなたたちの不手際を報告してやるわ。……ああ、そうだ。明日の朝食には、あの美味しい白身魚のソテーを用意させなさい。この酒も、少し香りが立ちすぎているわね」
ビオラが傲慢にグラスを差し出した、その時だった。
背後に控えていた、もう一人の侍女が、場にそぐわぬ乾いた笑い声を漏らした。
「……帰ってくる頃には、貴方がもうここに居ないんですけどね」
耳を疑うような言葉に、ビオラの眉が跳ね上がった。
グラスを持つ指が止まり、ゆっくりと首を巡らせる。
そこにいたのは、整った侍女服を隙なく着こなした、若い女だった。
その瞳には、先ほどの侍女のような卑屈さは微塵もなく、ただ獲物を定める捕食者のような、鋭利な光が宿っている。
「何? 今、何て言ったの? ……どういうことよ。貴方、私の言葉が聞こえなかったの?」
「聞こえておりますよ。ですが、もはや貴方の我が儘に耳を貸す時間は終わりました」
ビオラは、何かが決定的に食い違っていることを、その肌で感じ取った。
背筋を走る、不快な粟立ち。
この邸宅を包んでいた安らぎが、一瞬にして冷酷な檻の質感へと変貌していく。
「貴方がそれを知る必要はありません。ただ、指示に従っていただくだけです」
最初に答えた侍女が、ゆっくりと顔を上げた。
その貌は、先ほどまで見ていた大人しい侍女のそれとは、全く別人のように引き締まっている。
ビオラは、喉の奥からせり上がってくる悲鳴を必死に抑え込み、震える指で二人を指差した。
「何者……? 貴方たち、この家の侍女じゃないの? 衛兵! 誰か来なさい! 不審者よ!」
だが、その叫びに応じる者はいない。
厚い扉の向こう側は、墓所のような静寂に包まれている。
宰相の館を守るはずの私兵たちも、熟練の衛兵たちも、この異変に気付く様子は微塵もなかった。
「おとなしく捕縛されるのであれば、手荒なことはしません。ですが……」
一人の女が、ゆっくりとその細い指を折り込み、拳を握り締めた。
骨が軋む、不吉な音が室内を支配する。
それは、宮廷で磨かれた作法ではなく、戦場で命を奪い合う者が持つ、純粋な暴力の予兆であった。
「騒いだり暴れたりするのであれば……。生かして運ぶという条件さえ満たせば、四肢の数本、折れていても問題はありませんので」
もう一人の女もまた、静かに拳を固める。
二人の立ち位置は、ビオラの逃げ道を完璧に塞いでいた。
洗練された侍女服の裾から覗くその脚運び、重心の置き方、すべてが人の命を狩るために最適化された「武器」そのものであった。
「わ、わかったわ。抵抗はしない。……だから、それ以上近づかないで」
ビオラは、手にしていたグラスを床に落とした。
高価なクリスタルが砕け、深紅の液が絨毯を汚していく。
かつて領民を、そして娘を虐げていた傲慢さは、本物の「死」の気配を前にして、見る影もなく霧散していた。
その日、厳重な警備を誇るガメル・ガーディス侯爵の邸宅から、一人の女が音もなく消えた。
後を追う者もなく、目撃者もいない。
ただ、主を失った私室に、ひび割れたグラスと、甘ったるい果実酒の香りだけが残された。
王都の懐深くへ、音もなく潜り込んだ『海鳥』たちは、その獲物を確実に、そして無慈悲に運び去っていった。
──────
王国の東に広がるエルフィリア帝国。
その中枢、陽光を遮るほどに高く聳える白亜の居城は、王国の古びた石造りの城とは一線を画す、洗練された威容を誇っていた。
静謐な空気が流れる玉座の間。
高い天井にまで届くステンドグラスから差し込む光が、磨き抜かれた床に複雑な幾何学模様を描き出している。
その中央、段上の玉座に深く腰を下ろしているのは、皇帝カイロス・エルフィリア。
六十という齢を重ね、大戦後の灰燼から帝国を再建し、維持し続けてきた老練な統治者である。
その眼前に、一人の青年が音もなく片膝をついた。
「面を上げよ、サフィアン」
低く重厚なカイロスの声が、広い空間に染み渡るように響く。
顔を上げたのは、帝国の第二皇子サフィアン・エルフィリア。
武を重んじる帝国の皇族にあって、その指先には剣だこではなく、ペンを握り続けた者特有の硬い皮膚があった。
その双眸に宿るのは、戦場を俯瞰する将の目ではなく、数字の羅列から世界の理を読み解こうとする、探究者の鋭い光である。
「皇帝陛下。私は一人の経済学者として、王国の西を見に行きたいと愚考いたします。この目で、確かめねばならぬものがあるのです」
サフィアンの言葉に、玉座の周囲に控えていた重臣たちの間に、微かなざわめきが走った。
カイロスは肘掛けに置いた手で軽く制し、息子を試すように目を細める。
「……今、この時世でか。王国とは、いつ再び戦火が上がるとも知れぬ冷戦の最中にある。この状況下で、皇族自ら敵陣へ踏み込むという意味、解らぬ貴公ではあるまい」
「承知しております。ですが、帝国の未来において、盤石な経済基盤はもはや選択肢ではなく、必須の条件。今、王国の西側で行われている変革は、既存の国家運営の常識を根底から覆すものだという噂にございます。学ばずにはいられません」
サフィアンの言葉には、迷いも諂いもなかった。
カイロスは溜息にも似た息を吐き、静かに問いかける。
「自身の立場を考えた上でのことなのだな。帝国が皇位継承権を持つ者を送り出したとなれば、王国側はどう動くか。最悪の場合、人質となることすら厭わぬというのか」
「それゆえの、進言にございます。……私は本日、この場を以て皇位継承権を返上いたします。私は帝位を争う器ではなく、経済という翼を以て、兄上の力になりたいと考えております」
サフィアンの宣言は、室内を氷つかせた。
皇位。
それは帝国の頂、強大な権力の象徴。
それを一介の「学問」のために捨てるという発想は、並の貴族には理解し難い暴挙であった。
だが、カイロスだけは動じなかった。
この息子が、幼い頃から既存の権力構造に背を向け、国家の「血」として流れる貨幣と物流の動きにのみ執着していたことを知っていたからだ。
「それで良いのか、サフィアン。一度捨てた名は、二度と元には戻らぬぞ」
「はい。元より、次期皇帝として帝国を背負うに相応しいのは、フィデリオ兄上。私ではございません。私は私の戦場で、帝国の次の百年を支える経済の基盤を学んで参ります」
サフィアンは、再び深く頭を下げた。
その背中からは、皇族という重い殻を脱ぎ捨てようとする、一人の男の強い覚悟が立ち上っていた。
カイロスはしばらくの間、沈黙して息子を見つめていたが、やがて短く、力強い言葉を紡いだ。
「……わかった。許可しよう。『灰色の休戦条約』を盾に、学術調査員としての身分を保証する。必要なもの、必要な資金、すべてを用意させよう。だが、サフィアン」
「は」
「必ず、生きて帰ってこい。貴公が見つけた『答え』がなければ、この帝国もまた、古き時代の遺物として朽ち果てることになるやもしれぬのだからな」
「――はっ。御意に」
再び頭を下げるサフィアンの胸中には、既に王国の西、そしてそこを支配する正体不明の「知性」への好奇心が燃え上がっていた。
皇位継承権を捨ててまで、真理を求める男。
彼が王国の地を踏むとき、そこにあるのは友好か、あるいは経済という名の新たなる侵略の始まりか。
東の賢人が西の変革と出会うとき、アステリア王国を巡る情勢は、武力による衝突を超えた、未知なる局面へと加速していくことになる。
その足音は、静かに、しかし確実に、王都の混乱を尻目に西へと近づいていた。




