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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
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第39話:砂塵、鉄の波、二つの影

「……これは、勝てんな。どういうことだ? あの軍勢は、あの数は」


 地平の端を埋め尽くす鉄の波を仰ぎ、マクシミリアンは絞り出すような声を漏らした。

 視界を支配するのは、オルコット辺境伯の紋章が刻まれた無数の旗印である。

 鈍く光る装甲の列は、連れてきた『黒鉄』の倍以上を優に数え、荒野の土を完全に覆い隠していた。


 諜報組織『梟』がもたらした報告では、ギルガルド領へ侵攻した辺境伯軍はわずか三百。

 周辺諸侯の残兵をかき集めたところで、千にも満たぬ有象無象の集まりであるはずだった。

 だが、眼前に突きつけられた現実はどうだ。

 辺境伯軍だけで三千に迫る騎兵、重装歩兵が居並び、その傍らには銀狼の紋章旗が風に猛っている。

 ヴォルフスブルク軍。

 北方の精鋭までもが、この盤面に引きずり出されている。


「情報が誤っていたのか、または偽の情報を掴まされたか……」


 マクシミリアンの呟きには、乾いた諦念が混じっていた。

 王国最強の牙と自負した矜持を、圧倒的な数の暴力が音を立てて砕いていく。


「……ふっ。戦う前から負けとは。『黒鉄』結成以来の大敗ですね」


 副官クラウスが、自嘲気味に口端を歪めた。

 馬上の彼は、もはや剣を抜く気配すら見せず、絶望的な兵力差を突き放したような眼差しで計り直している。


「騎兵だけでも逃がすか? あの辺境伯軍が逃がしてくれるとは思えんが……」


「無理でしょうね。どこに逃げるんです? アイゼンハイド家ですか? そのまま辺境伯軍に侯爵家ごと潰されるでしょう」


 クラウスの言葉は、逃げ場のない真実を射抜いていた。

 後ろ盾となるべき侯爵家すら、この巨大な軍勢の前では砂上の楼閣に過ぎない。


「死兵として突っ込んだ場合、どうなる?」


「……敵の半分を潰したあたりで全滅かと。お家騒動で『黒鉄』を全滅させ、将軍も討たれる。とてもじゃないが割に合いません」


 マクシミリアンは拳を握り、そして力なく解いた。

 戦うことも、逃げることも叶わず。

 家門の庇護は失われ、王都へ引き返すための糧食も、補給の路も、既に断たれている。

 盤面は完全に詰んでいた。


「この状況で少しでも何かを拾う方法は……」


「……私の首を差し出し『黒鉄』を見逃してもらう。……これしかあるまい」


 マクシミリアンの決断は、静寂の中に重く響いた。

 武人として、これ以上の屈辱はあるまい。

 しかし、その眼差を濁らせる未練はなかった。

 清々しいほどの敗北は、かえって彼の心を凪いだ海のように静まり返らせていた。


「お供します」


 クラウスが短く応じる。

 マクシミリアンは視線を転じ、背後に控える若き騎士を見据えた。


「私とクラウス、オーウェンの三人で行く。オーウェン、この先で見聞きしたことを必ず王都に持ち帰れ。死ぬことは許さん」


「将軍と副官だけを死なせはしません。私も最後までお供します」


 オーウェンと呼ばれた男が食い下がる。

 その瞳には、主君を独り行かせることへの激しい拒絶が燃えていた。


「ならん。お前は伝令を持って必ず王都に戻れ」


「しかし……」


「全軍停止! 騎兵は馬から降りろ! 全員その場に座れ! 攻撃の意思を見せてはならん!」


 マクシミリアンの怒号が、砂塵を裂いて全軍へと轟いた。

 『黒鉄』の兵たちの間に、雷に打たれたような動揺が走る。


「なんだって?」

「突撃しないのか?」

「どういうことだ?」


 困惑と疑念が渦巻く中、マクシミリアンは一段と声を張り上げた。


「この戦は我々の負けだ! 無駄に死ぬことは許さん! 今、この時をもって『黒鉄』は解散! 以降、アルベルト殿下の指示に従え!」


 静寂が、荒野を支配した。

 負け。戦わずしての、完全なる敗北。

 王国の牙としての誇りを誇示してきた男たちが、次々と馬から降り、力なく大地に腰を下ろしていく。


 マクシミリアン、クラウス、オーウェン。

 三騎の蹄の音だけが、砂塵を刻みながら敵陣へと向かっていく。

 元『黒鉄』の兵たちは、ただ呆然と、遠ざかっていく主君の背中を見つめるしかなかった。


 王国軍最強と謳われた将の、それが最後にして、唯一の負け戦の始まりであった。


     ──────


「マクシミリアン・アイゼンハイドだ。降伏する。受け入れてほしい」


 砂塵の舞う荒野、アルベルトの陣営を目前にして、三騎は同時に歩みを止めた。

 馬上から降り立つマクシミリアンの動作には、一切の迷いがない。

 彼は背に負うた重量感のある大剣を無造作に外し、それを後ろに控えるオーウェンへと手渡した。

 武人としての牙を自ら抜き、丸腰のまま一歩、また一歩と、自分を射抜く無数の殺気の中へと踏み込んでいく。

 乾いた土を踏みしめる軍靴の音だけが、不気味なほどはっきりと響いた。


「何?」


 あまりに唐突な幕引きに、アルベルトは言葉を失った。

 握りしめていた手綱を緩め、呆然と目の前の将を見つめる。

 王国の武の象徴が、刃を交えることさえなく、膝を屈しようとしている。

 その光景は、戦場という名の舞台において、静かに、しかし決定的に刻まれた事実であった。


「降伏じゃと? まだ戦ってもおらんのにか?」


 オルコットが不審を隠そうともせず、白眉を跳ね上げる。

 老将の顔には、困惑と共にある種の拍子抜けしたような色が浮かんでいた。

 歴戦の老将にとっても、目の前の光景は理解を拒むものだった。


「戦とは戦場だけで決まるものではない。情報、戦力、全てにおいて我々の負けだ」


 マクシミリアンは揺らぎのない声で応じた。

 砂風にさらされても瞬き一つせず、その瞳には敗北を事実として淡々と受け入れる、深淵の如き静謐が宿っている。


「……むぅ。そうは言っても、この事態は想定しておらんかった。どうする? 総大将」


 オルコットは顎髭をなでながら、隣のアルベルトに視線を流す。


「将軍を討ち、『黒鉄』を壊滅させる。ここで『黒鉄』を叩いておかないと、今後の憂いになるのは明白だ。しかし……」


 アルベルトは苦渋を滲ませ、視線を落とした。

 無抵抗の将をその場で斬り捨てるべきか、武人の礼に則るべきか。

 その葛藤が、硬く結ばれた口元に表れている。

 マクシミリアンはアルベルトの沈黙を待ってから、静かに言葉を継いだ。


「虫のいい話なのは分かっている。私は討ってもらって構わん。だが、兵たちは……」


「作戦本部で話を聞いてはどうですか?」


 ガレルが、張り詰めた糸を解くように割って入った。

 愛馬の首を軽く叩いて落ち着かせながら、その指先は不測の事態に備えつつも、対話の余地を模索するように動いている。


「そうじゃな。総指揮官に判断を仰ぐとするか。ここは任せたぞ、ガレル」


「はっ」


 厳戒態勢の中、アルベルトとオルコットに先導され、マクシミリアンたちは後方へと歩を進めた。

 通り抜ける陣列からは、槍を構えた兵士たちの困惑に満ちた囁きが波紋のように広がる。

 王国軍最強の将が、武器も持たず、砂埃にまみれて連行されていく。

 だが、マクシミリアンの背筋は、垂直の岩壁の如く微動だにしない。

 衆目に晒され、屈辱の泥を啜りながらも、その一歩一歩には敗軍の将としての峻厳な矜持が纏い付いていた。


 到着した作戦本部は、戦場とは思えぬ静謐に満ちていた。

 どこから持ち込んだのか、豪奢な椅子に座り、優雅な手つきで茶を啜る男――バルカス・ブラッドレイ。

 その皺ひとつない高級なスーツ姿は、血と鉄の臭いが漂う荒野において、異質極まる調和を保っている。

 バルカスがカップを置くと、磁器が触れ合う微かな音が幕舎に響いた。


「総指揮官、マクシミリアン将軍が降伏を申し入れてきた」


「ああ、『海鳥』から聞いた。ひと当てもせずに降伏とは判断が早いな。将軍」


 バルカスはゆっくりと視線を上げた。その眼には、既に盤面を掌握し終えた者の余裕が、分厚い氷のように凝固している。


「ブラッドレイ子爵!? 貴公が総指揮官か……」


 マクシミリアンの眉根がわずかに動く。

 端正に整えられたバルカスの姿を射抜くように見つめ、己が敗北を認めた相手が、かつて王都で頭脳のみの男と軽んじられていた貴族であった事実に、内面で衝撃を押し殺していた。


「要求を言え」


「そんなものは最初から決まっている。将軍の首、『黒鉄』の殲滅だ」


 バルカスの断言には、一切の揺らぎも、温情の欠片もなかった。


「そこを曲げて頼む。私の首だけで収めてはもらえまいか」


「話になりませんな。あなたは状況が何もわかっていない」


 バルカスは椅子の背にもたれかかり、冷ややかな視線を向ける。


「将軍、あなたと『黒鉄』を釣り出したこの好機を逃すつもりはないという事だ。ここで全てを断つ。それが最も効率的だ」


「私の首を取った後、『黒鉄』を殲滅する、そう言うのだな」


「順序などどうでもいい。殲滅は既定路線だと言っている」


 容赦のない宣告が、マクシミリアンの希望を悉く断ち切っていく。

 幕舎の中を重苦しい沈黙が満たした。

 だが、その張り詰めた空気を、場違いな鈴を転がすような声が突き抜けた。


「話だけでも聞いてあげることはできないの? バルカス」


 傍らの木箱に腰を下ろし、湯気の立つ茶を口にしていた少女――メリーが、首を傾けて視線だけを投げかける。


「子供!? なぜ戦場に子供がいる? どういうことだ! オルコット!」


 マクシミリアンの表情が、この日初めて激しく揺れ動いた。

 場にそぐわぬ少女の存在。

 武人として、死地を聖域と信じる男にとって、少女が平然と居座る今の光景は冒涜に近いものだった。


「またそれ? それはダルトンおじ様ともうやったわ」


 メリーは退屈そうにため息をつき、空になったカップを見つめる。


「よく見れば、この陣営には子供がたくさんいる。どういうことだ? 子供を盾にするつもりか!? どうなんだ、オルコット!」


 マクシミリアンの怒声が響くが、周囲の兵たちに動揺はない。


「これは面倒な話になったな。こうなると話が進まん」


 バルカスが不快げに額を抑え、机を軽く叩く。


「処します? 処しましょうか?」


 影のように控えていた『海鳥』の娘が、場違いな明るい声で問いかけた。

 彼女はにこりと微笑みながらも、その小さな拳をみしりと音を立てて握りしめた。


     ──────


 バルカスの指示によって、幕舎にはダルトン、ランツェベルク、そしてヴァレリアが次々と招集された。

 運び込まれた地図や作戦書が乱雑に置かれた机を囲み、重苦しい沈黙が天幕の空気を澱ませる。

 その中心で、マクシミリアンは微動だにせず、揺るぎない眼差しでアルベルトとオルコットを交互に見据えた。


「アルベルト殿下、オルコット辺境伯。降伏の意思に偽りはない。もはや勝敗は決している。だが……」


 マクシミリアンは一度言葉を切り、幕舎の隙間から見える軍勢――あどけなさの残る顔で一様の制服を着用し、規律正しく動く少女たちへと視線を向けた。

 その瞳に、武人としての烈火のような怒りが宿る。


「子供に戦争をさせることだけは、武人として断じて許容できん。それを見過ごして軍門に降るなど、アイゼンハイドの家名が廃る。ここだけは、何があろうと譲れん」


「譲れないからどうすると? まさか今更、全軍を突撃させるとでも?」


 バルカスは足を組んだまま、小馬鹿にしたように両手を広げた。

 高級なスーツに包まれたその体躯からは、暴力の気配など微塵も感じられない。

 しかし、その背後には盤面を支配した勝者の傲慢さが、黒い影のように重く横たわっている。


「一騎打ちでもやりますか? ……ふむ、それは名案だ」


 バルカスの口端が、獲物を罠にかけた悦びに歪む。

 その言葉を待っていたかのように、マクシミリアンの全身から、これまで押し殺していた凄まじい闘気が噴出した。


「受けてもらうぞ、『剣鬼』オルコット。貴殿の首を賭けろ」


「応! 望むところよ!」


 オルコットが地を這うような野太い声で応じる。

 その咆哮だけで、幕舎の布が激しく震え、周囲に控えていた衛兵たちが思わずたじろいだ。


「……一騎打ちの末、将軍を討ち取った。それにより指揮官を失った『黒鉄』は撤退。王家にも侯爵家にも我々の圧倒的な武勇を示すことができ、同時に、将軍と『黒鉄』の面目も最低限は保たれる、か」


 バルカスが、まるで機械のように精密な手際で落とし所を計算していく。


「落とし所としては、文句ないんじゃないか?」


 ヴァレリアが腕を組み、実戦の泥を識る軍人としての鋭い視線でマクシミリアンを値踏みした。


「そうだな。準備をしろ。辺境伯軍は『黒鉄』を完全に武装解除させ、この平原の中央に、誰にも邪魔されぬ一騎打ちの舞台を作らせろ」


 バルカスの号令が飛ぶ。

 マクシミリアンは、その言葉の裏に潜む一切の情を排した打算的な計略を感じ取りながらも、自らの信念を通したことにわずかな満足を滲ませ、男を鋭く射抜いた。


「……感謝する、ブラッドレイ子爵。だが、私が勝ったらどうする?」


「『剣鬼』オルコット辺境伯を討ったという破格の戦果を持って、胸を張って王都に帰ればいい。我々は一騎打ちの勝者を囲んで嬲るような、品性の欠けた真似はしない。それは我が名にかけて約束しよう」


 バルカスの言葉には、一切の躊躇がなかった。

 それは慈悲ではなく、あの日の辺境伯の覚悟を聞いた者としての、辺境伯の勝利を疑わない確信から来る不遜さであった。


「……重ねて感謝する」


 平原のど真ん中、両軍の真っ只中に、円状の広大な空間が切り出された。

 特設の舞台など存在しない。

 ただ、三千を超える辺境伯軍の鉄甲と、武装を解かれ大地に膝をつく『黒鉄』の兵たちが、幾重にも重なる巨大な人間障壁を作り、その中央を空けただけである。


 夕刻の風が、血の匂いを含んだ砂塵を巻き上げて吹き抜ける。

 両軍とも、己が魂を削り取られるかのような神妙な面持ちで、中央に立つ二人を凝視していた。

 囃し立てる兵、下卑た笑いを浮かべる者、そんな不届き者は一人としていない。

 この戦いが、単なる武勇の誇示ではなく、一つの時代が終わりを告げる儀式であることを、全兵士が本能的に理解していた。

 静寂は重く、大気は脂のように粘り気を帯びて、見る者の肺を圧迫していく。


 重厚な、あまりに重厚な沈黙が広がる円の中央。

 一方は、かつて大陸全土にその名を轟かせ、数多の戦場を血で染め上げた『剣鬼』オルコット辺境伯。

 老いてなお、その肉体は古木のような強靭さを保ち、全身から発せられる威圧感は周囲の空間を歪ませている。

 もう一方は、現王国軍最強の座を不動のものとし、鋼の規律と圧倒的な武をもって『黒鉄』を率いてきたマクシミリアン将軍。

 その佇まいは、峻厳な氷壁のように冷たく、鋭い。


 その二人の間に、アルベルトが号令役として、毅然とした足取りで立った。


「これより、一騎打ちを行う。俺が開始の号令を出したら、もはや誰の介入も許されない。……互いに、悔いの残らぬよう存分にやれ」


 アルベルトの声は、静まり返った平原の隅々まで響き渡った。


「重ね重ね感謝する、殿下。そして、武人としての最後の幕引きが、貴殿であることにも感謝するぞ、『剣鬼』オルコット」


 マクシミリアンが、身の丈ほどもある大剣をゆっくりと構えた。

 その切っ先が空気を裂くたびに、大気が低く唸り声を上げ、足元の土壌がその重圧に耐えかねて沈み込む。


「言いたいこともあるじゃろう。無念も、怒りも、その剣に乗せて存分に吐き出せ。老いぼれがすべて受け止めてやるわい」


 オルコットは愛剣を引き抜き、切っ先を土に深く沈めた。鞘から放たれた刃は、夕陽を浴びて不気味なほどの輝きを放っている。


「もはや語らん。言葉は不要だ。……推して参る!」


 二人は目を細め、互いの鼓動、血管の脈動、そして立ち昇る殺気のすべてを読み合う。

 円状に囲む数千の兵たちが息を呑む音すら、もはや届かない。

 大気は爆発寸前の圧力を帯び、風さえもが二人を避けるように渦を巻いた。


 気が、極限まで満ちた。


 アルベルトが右手を天高く掲げ、一筋の雷火を落とすかのように一気に振り下ろす。


「始め!」


 その刹那、二つの巨大な影が、爆音と共に大地を蹴り飛ばした。


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