第36話:古傷、将軍の激昂、西からの風は止まない
「……ぐ、ぅ……」
意識の浮上は、泥沼の底から気泡が浮かび上がるように緩慢で、そして不快なものだった。
覚醒の瞬間、脳髄を直接殴打されたような鈍痛がダルトン子爵を襲う。
視界が明滅する。まぶたを開けるという単純な動作が、錆びついた門扉をこじ開けるような重労働に感じられた。
鼻孔を満たすのは、高級なリネンの香りと、自身の吐く息に含まれる饐えたアルコールの臭気。
そして、頬に張り付く冷たく湿った感触。
「……あ、たまが……」
呻き声は喉の奥でひしゃげ、言葉にならなかった。
激しい頭痛。眼球の裏側で誰かが鐘を乱打しているような耳鳴り。
昨晩の記憶が、断片的な映像となって脳裏を明滅する。
ギルガルド伯爵領の陥落。
ランツェベルクの裏切りにも似た降伏。
そして、自身が少女たちの手によって――物理的な暴力によって――「確保」された屈辱。
何より、あの食堂での醜態だ。
子供に親殺しをさせたという絶望に耐えきれず、敵将であるアルベルト・アステリアの胸倉を掴んで泣きわめき、あろうことか泥酔して管を巻いた。
(……死にたい)
貴族としての矜持も、大人の威厳も、昨夜の安酒と共に便所へ流してしまったようなものだ。
いっそ、このまま二日酔いの波にのまれて溺死してしまいたい。
ダルトンが現実逃避のために再び目を閉じようとした、その時だった。
「お目覚めですか? ダルトン子爵」
鈴を転がすような、しかしどこか無機質な響きを含んだ少女の声が、頭上から降り注いだ。
ダルトンは弾かれたように――いや、錆びた蝶番のような悲鳴を上げる首を無理やり巡らせて、声の主を探した。
枕元、豪奢な装飾が施された木椅子に、一人の少女が腰掛けている。
商会の制服に身を包んだ、あどけない顔立ち。
昨晩、ダルトンを物理的に「安眠」させた張本人。
『海鳥』部隊の少女だ。
「……き、君は……」
ダルトンは身を起こそうとして、激痛に顔をしかめた。
頬が熱い。昨晩殴られた左頬だ。
右頬も痛い。意識を刈り取るためにまたもや拳を叩き込まれた箇所だ。
そして何より、視界の端に映り込む「質量」が、彼の理性を揺さぶった。
少女は椅子に深く腰掛け、足を組んで果物をナイフで剥いている。
その動作に合わせて、商会の制服の前ボタンが悲鳴を上げ、布地が限界まで引っ張られている。
十四歳。
到底そうは見えぬ、暴力的とさえ言える圧倒的な隆起。
昨夜、メリーという平原と比較し、ダルトンを絶望の淵へと叩き落とした「山脈」が、朝の光を受けて神々しいまでの存在感を放っていた。
「お水、飲みますか? それとも、もう一度寝ますか? 物理的に」
少女は剥き終わった林檎の一片をナイフの先に突き刺し、小首を傾げた。
その瞳にあるのは、怪我人を気遣う慈愛ではない。
暴れるなら即座に意識を刈り取る。そのための打撃点を正確に見定めている目だ。
彼女の空いている左手が、小さく拳を握りしめるのを見て、ダルトンの背筋に冷たいものが走る。
「み、水を……頼む」
ダルトンは掠れた声で懇願した。
差し出されたグラスを震える手で受け取り、一気に煽る。
冷たい液体が食道を駆け下り、焼けた胃袋に落ちると、ようやく自分が生きているという実感が湧いてきた。
グラスを返し、ダルトンは深い溜息をついた。
「……夢では、ないのだな」
「現実です。ダルトン子爵領は制圧されました。抵抗勢力は皆無。あなたは捕虜です」
少女は淡々と事実を告げる。
ダルトンは天井を見上げた。
見覚えのある、豪奢だがどこか古めかしいシャンデリア。
ここはギルガルド伯爵の館だ。かつては友として酒を酌み交わした男の城。
だが、その主はもういない。
娘の手によって灰に帰したのだ。
「……我々大人は、何をしているのだ」
再び涙が滲みそうになるのを、ダルトンは奥歯を噛み締めて堪えた。
泣いても現実は変わらない。
昨夜、散々泣きわめいて理解したことだ。
それに、これ以上この少女の前で醜態を晒せば、今度こそ永遠の眠りを与えられかねない。
「朝食の用意ができています。皆さん、お待ちですよ」
少女が立ち上がり、有無を言わせぬ圧力でダルトンの腕を引いた。
その華奢な腕からは想像もつかない怪力に、ダルトンは抵抗する気力すら奪われ、よろよろとベッドから這い出した。
******
食堂には、気まずい沈黙と、焼きたてのパンの香りが同居していた。
高い天井から差し込む朝日は、床に長い影を落とし、空気中の埃をキラキラと照らし出している。
長テーブルの上座には、鍛え上げられた胸板の厚さが分かる、ラフな開襟シャツ姿のアルベルト・アステリア。
その右手に、漆黒の喪服のようなドレスを着たメリー。
左手には、『剣鬼』オルコット辺境伯、バルカス・ブラッドレイ子爵、そしてランツェベルク子爵が並んでいる。
西側を統べる支配者たちが一堂に会するその光景は、壮観であると同時に、ダルトンにとっては自身の敗北を視覚的に突きつける処刑台のようでもあった。
ダルトンがふらふらと入室すると、全員の視線が一斉に突き刺さった。
給仕をしていた『海鳥』たちが手を止め、無言で一礼する。
「……おはようございます、ダルトン子爵。顔色は……最悪ですね」
バルカスがコーヒーカップを置き、苦笑交じりに声をかける。
その表情には、勝者としての驕りよりも、悪友の二日酔いを憐れむような色が濃い。
ダルトンは力なく頷き、指定された空席――ランツェベルクの隣へと重い腰を下ろした。
目の前には、湯気を立てるスープと、彩り豊かなサラダ。
胃が受け付けそうにないが、この場の空気がそれを許さない。
「……昨夜は、取り乱してすまなかった」
絞り出すような謝罪。
喉が焼け付くように痛い。
隣でナイフを動かしていたランツェベルクが、手を止めて友の肩を叩く。
「気にするな。私も似たようなものだ。……まあ、私は泣き叫んで殿下の胸元を鼻水で汚したりはしなかったがな」
「うるさいぞ、ランツェベルク」
ダルトンは毒づき、スプーンを手に取った。
金属の冷たさが指先に伝わる。
震えそうになる手を意志の力で抑え込み、スープを口に運ぶ。
野菜の甘みが溶け込んだ優しい味が、荒れた胃壁に染み渡っていく。
生きている。
敗北し、領地を奪われ、全てを失ったはずだが、こうして温かい食事を摂っている。
その事実が、逆説的に彼の胸を締め付けた。
「さて、ダルトン子爵」
不意に、バルカスがナプキンで口元を拭い、居住まいを正した。
その声色から、先ほどまでの労りの湿度が消え失せた。
残ったのは、退路を断った相手に契約書を突きつけるような、乾いた響きだけだった。
「腹も落ち着いたところで、単刀直入に聞こう。――西側連合への参加、腹は決まったか?」
西側連合。
その新しい響きに、ダルトンはスプーンを置いた。カチャリ、と乾いた音が静寂に響く。
アルベルトの武力、辺境伯の威光、そしてバルカスの経済力。それらが一つに統合された、巨大な反乱組織の誕生だ。
拒否権などないことは理解している。
だが、これは降伏の儀式ではない。
バルカスの視線が、ランツェベルクの沈黙が、そして上座で黙々と食事を続けるメリーとアルベルトの存在が、ダルトン自身の「大人としての選択」を問うている。
「……従おう。ブラッドレイ子爵」
ダルトンは深く頭を下げた。
それは領主としてのプライドを捨て、一人の共犯者として泥を被る覚悟を決めた姿だった。
「私の領地も、兵も、好きに使えばいい。……ただし」
ダルトンは顔を上げ、オルコット辺境伯へと視線を移した。
北の巨人が、静かに見返してくる。
「オルコット。……お前も、共犯なのだな」
「ああ、そうじゃ」
オルコットは髭を撫で、自嘲気味に笑う。
その笑顔の裏にある、壮絶な覚悟の重みをダルトンは感じ取った。
「子供に親殺しをさせ、国を背負わせる。その業を、ワシら大人も背負うと決めたのじゃ。……ダルトン、お主はどうする? 被害者のまま、安全な場所で嘆いているか?」
挑発ではない。
友としての、そして同じ時代を生きてきた大人としての問いかけだった。
ダルトンは視線を巡らせる。
バルカスが優雅に、しかし鋭い眼光でこちらを見ている。
ランツェベルクが、苦い顔で頷く。
そして、上座に座るまだあどけなさの残る少女と、武人として完成された壮年の男。
彼らは、大人が作った泥沼の中で、血を浴びながら必死に前へ進もうとしている。
「……そうか」
ダルトンは息を吐き、再びスープを口に運んだ。
味は変わらない。
だが、喉のつかえは取れていた。
腹の底で、何かがカチリと音を立てて定まるのを感じた。
「わかった。私も背負おう。……これ以上、あの子に一人で背負わせるわけにはいかんからな」
ダルトンがつぶやくと、メリーがわずかに目を見開き、そしてふっと表情を緩めた。
アルベルトが短く「感謝する」と応える。
それが、西側全域の意思が統一された瞬間だった。
書類や契約ではない。
不甲斐ない大人たちの、苦い連帯と贖罪の誓い。
これにより、西側は一枚岩の「敵性国家」として完成した。
食後のコーヒーが運ばれてくる頃には、食堂の空気は打って変わって実務的な熱気に包まれていた。
テーブルの上には地図が広げられ、バルカスが手慣れた様子で駒を進める。
「ギルガルド、ランツェベルク、ダルトン。この三領の制圧により、我々は中央へ至る山脈の西側、その主要な動脈を押さえました」
バルカスの指が、地図上の広大な領域をなぞる。
西側海岸沿いの辺境伯領、南のブラッドレイ領。
その内陸側に三つの領地が塗り替えられたことで、西側は巨大な防壁となった。
だが、バルカスの指は一点で止まった。ギルガルド領の北、険しい山脈に抱かれた小さな空白地帯だ。
「残るはこの『北の小領』ですが……」
「そこは後回しだ。今は触らん」
オルコットが苦々しく吐き捨てる。
どうやら、辺境伯にとっても厄介な相手らしい。
地図上の小さな染み。だが、それが後の戦局を左右する火種になることを、この場の全員が予感していた。
「問題は中央の反応じゃな」
オルコットが腕を組み、地図の東側――王都の方角を睨む。
「早馬は出しましたか?」
ランツェベルクの問いに、ジャックが影の中から答える。
「はい。ギルガルド陥落の報せは昨夜のうちに。続いてランツェベルク、ダルトンの陥落も、間髪入れずに届くよう手配しております」
「畳みかけるわけですね。相手に考える隙を与えないために」
ランツェベルクが唸るように頷く。
情報の伝達速度すら武器にする、西側の徹底した手際に舌を巻いていた。
「王都がどう動くか。……ヴォルガンは慎重な男だ。国軍を即座に動かすことはないだろう」
アルベルトが、かつての弟の性格を思い描くように呟く。
だが、メリーは冷ややかに否定した。
「国軍は動かないかもしれない。でも、個人の感情は別よ」
彼女の指先が、地図上の一点を叩く。
そこには、三つの領地を統括する監視役であり、中央軍の要である男の名が記されていた。
「マクシミリアン・フォン・アイゼンハイド。彼にとって、自分の庭を荒らされたことは、戦略上の損失以上の意味を持つ」
バルカスが、まるで舞台の解説者のように両手を広げてみせた。
「面子、か」
ダルトンが呻く。
彼もまた、アイゼンハイド侯爵の威光の下で生きてきた貴族だ。
あの男の、火のような激情と、傷つけられたプライドに対する執着をよく知っている。
──────
「報告します! ダルトン子爵領、陥落! 西側主要三領、すべてがアルベルト・アステリアの手に落ちました!」
悲鳴にも似た伝令の声が、王都アステリアの中枢、軍務局の執務室に響き渡った。
豪奢な調度品で飾られた室内に、鉛のような沈黙が落ちる。
だが、それは絶望による沈黙ではない。
あまりにも巨大な二つの知性が、同時に思考を回転させたことによる、深海のような静寂だった。
部屋の主である軍務局長、エーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、手元の書類から視線を外すことなく、万年筆を走らせ続けている。
そして、窓辺に立つ巨躯の男。
王国軍将軍、マクシミリアン・フォン・アイゼンハイド。
彼は腕を組み、窓の外に広がる王都の街並みを、ただ無言で見下ろしていた。
怒号もなければ、机を叩く音もない。
だが、報告に来た伝令兵は、その背中から放たれる圧倒的な威圧感に喉を鳴らし、直立不動のまま金縛りにあっていた。
「……ご苦労。下がっていい」
マクシミリアンが振り返りもせずに告げる。
その声は低く、腹の底に響くような重厚さを持っていた。
伝令兵が逃げるように退室すると、再び静寂が部屋を支配した。
「……西側の速度が異常だ」
マクシミリアンが、独り言のように呟く。
「山岳の要衝ギルガルド、海運のランツェベルク、そして中央への玄関口であるダルトン。これらをわずか数日で無力化した。……単なる武力制圧ではない。内通と懐柔、そして情報の遮断が完璧に行われている」
「ああ。手際が良すぎるな」
兄のエーベルハルトが、眼鏡の位置を指先で直し、ようやく顔を上げた。
その瞳には、感情の色はなく、盤面を見つめる棋士のような鋭い光だけが宿っている。
「通常なら国軍を動かす事案だ。だが、このタイミングで東の帝国軍が国境付近で演習を開始した。……偶然だと思うか? マクシミリアン」
「まさか。西の反乱と東の演習、連動していると見るのが自然だ。我々の主力を西へ釣り出し、その隙に背中を刺すつもりだろう」
マクシミリアンは窓から離れ、兄のデスクへと歩み寄る。
その足音は、巨体に見合わず音がない。
だが、一歩近づくごとに、室内の空気が濃密になっていく。
「つまり、国軍は動かせない。陛下も許可なさらんだろう」
「左様。……だが、放置すれば西の火種は国を焼き尽くす業火になる。アルベルト・アステリア……あの男は、かつてのような『お飾り』ではないようだ」
エーベルハルトが地図を広げる。
西側の領地が、次々と敵の色に染まっていく様を、二人は無言で見つめた。
「患部が小さいうちに、焼き払う必要がある」
マクシミリアンが、地図上の一点を指差した。
そこには、彼の生家であるアイゼンハイド家の紋章――咆哮する獅子――が描かれている。
「兄上。……『休暇』をいただきたい」
唐突な申し出。
だが、エーベルハルトは眉一つ動かさず、弟の意図を瞬時に理解した。
「国軍ではなく、アイゼンハイド家の当主代行として、領地へ帰省するというわけか」
「ああ。久しぶりに里帰りがしたくなった。……供回りに、私の『黒鉄』を連れて行くが、構わんか?」
将軍直轄の私兵団『黒鉄』。
国軍の精鋭からさらに選りすぐられた、マクシミリアン個人の武を信奉する数千の兵。
正規軍一個師団をも単独で粉砕しうると謳われる、王国最強の精鋭部隊。
それを「供回り」と称して持ち出す。
それは事実上の、アイゼンハイド家による私的制裁の宣言だった。
エーベルハルトは数秒の間、弟の瞳を静かに見つめ返し、やがて手元の書類にサインを走らせた。
「……受理する。休暇届だ」
彼は書き終えた書類を、弟の方へ滑らせた。
「国軍の装備と物資は使うな。あくまで『アイゼンハイド家の私闘』として処理しろ。……勝てるか?」
「愚問だな、兄上」
マクシミリアンが、わずかに口の端を吊り上げた。
獰猛な笑みではない。
職人が、手慣れた仕事を前に道具の手入れをするような、確信に満ちた表情。
「西には『剣鬼』がいると聞く。……久々に、退屈しのぎにはなりそうだ」
彼は書類を拾い上げ、踵を返す。
「――『黒鉄』全騎、召集。……一刻で発つ」
扉の向こうに控えていた副官へ、短く告げる。
怒号も歓声もない。
ただ、死を運ぶ行軍の開始を告げる、重い軍靴の音だけが廊下へと遠ざかっていく。
残されたエーベルハルトは、窓の外、西の空を見上げた。
「……毒を以て毒を制す、か。……吉と出るか、凶と出るか」
王都の空は、鉛色の雲に覆われていた。
だが、西から吹く風は止まない。
嵐が来る。
──────
「――釣れましたな」
執務室の扉が開くと同時に、ジャックが短く告げた。
その声色は、吉報を告げるようでもあり、同時に巨大な災害の到来を予感させる重さを含んでいた。
卓を囲んでいたメリー、アルベルト、バルカス、そしてオルコットの視線が一斉に老執事へと集まる。
「王都の『海鳥』からの早馬です。マクシミリアン将軍が出撃しました」
「ほう、国軍が動いたか?」
オルコットが身を乗り出す。
だが、ジャックは首を横に振った。
「いえ。動いたのは将軍のみ。率いるのは彼の手勢である私兵団『黒鉄』数千。国軍本隊は動いておりません」
「……あえて国軍を動かさず、私兵で来たか」
バルカスが、愉しげな笑みを消し、真剣な眼差しで地図を睨んだ。
「読みが甘かったかもしれん。……あの兄弟、挑発に乗ったわけではないな。こちらの狙いを理解した上で、最もリスクの少ない『解』を選んできた」
「どういうこと?」
メリーが問いかける。
「国軍を動かせば、帝国の介入を招く。だから動かさない。だが放置もしない。……国を守るために、自家の戦力を切って捨ててでも、我々という『毒』を絶ちに来たということだ。……本気だぞ、奴らは」
バルカスの言葉に、室内の空気が張り詰める。
単なる面子や感情ではない。
国家の守護者としての、強固な義務感と殺意。
「マクシミリアン・フォン・アイゼンハイド……」
オルコットが、その名を噛み締めるように呟いた。
その隻眼には、かつてないほどの警戒色が浮かんでいる。
「厄介な男が出てきたもんじゃ。奴は感情で剣を振るわん。勝てると踏んだ時のみ、首を取りに来る。……西側の全戦力を持ってしても、骨が折れるぞ」
彼は自身の左頬、古傷のあたりを指先でなぞり、ニヤリとその古傷を歪めて笑った。
「……震えが止まらんわ。武人として、これほどの好敵手は望んでも得られん」
その言葉に呼応するように、アルベルトが立ち上がった。
「……受けて立とう。相手にとって不足はない。奴を叩き潰せば、王国の武力の象徴が折れることになる」
彼は腰の剣に手を置き、地図上の敵影を睨み据えた。
その双眸は、ただ凪いでいた。
迫り来る巨大な暴力の予感を前にしても、瞬き一つせず、呼吸一つ乱さない。
研ぎ澄まされた刃のように、静謐な殺気だけがそこに在った。
「決戦の地はここだ。ダルトン領の平原。……小細工なしの正面衝突になるぞ」
バルカスが地図の一点を指差す。
風が、窓をガタガタと鳴らした。
西から吹く風は、今や嵐となって王国の屋台骨を揺らそうとしている。
最強の矛と、最強の盾。
時代を決する戦いが、幕を開けようとしていた。




