第31話:喪服、紅蓮の炎、ルシアン・ギルガルド
「……ちょっと、……これは、お尻が割れそうね」
車輪が岩を噛むたび、段差を乗り越えるたびに、硬い座面から無遠慮な衝撃が脊髄を突き上げてくる。
ギルガルド伯爵領へと続く山道は、街道とは名ばかりの、岩肌が剥き出しになった悪路でしかなかった。
軍用馬車というものは基本的に堅牢さだけが取り柄であり、乗り心地などという軟弱な配慮は設計思想の埒外にある。
メリーは顔をしかめ、小刻みに跳ねる車内で体勢を整えようと苦心していた。
「舌を噛まないように気を付けるッスよ。姐さん」
向かいの席で、慣れた様子で揺れをやり過ごしている『海鳥』の赤毛の女が、呆れたように声をかけた。
窓の外では、他の騎兵たちが手綱を巧みに操り、悪路をものともせずに進軍している。
揺れる車内とは対照的な彼らの姿を横目に、メリーは溜息交じりに言葉を紡いだ。
「街道の整備は急務ね。こんな道、毎回往復してられないわ」
「それはそうと、ドレスなんスね、姐さん」
ふと、赤毛の女がメリーの装いに視線を巡らせた。
戦場へ向かう馬車の中にあって、メリーは漆黒のドレスに身を包んでいる。
「ええ。この黒いドレスは喪服も兼ねているわ。そしてあの日、家を追い出された時のドレスと似せて作ってある。お父様への意趣返しよ」
かつて実家を追放された日。
これから討つ父親への追悼の意味を込めた、そして追放されたあの日を父親に思い出させるための装いだった。
しかし、赤毛の女は小首を傾げ、率直な感想を口にする。
「そんなこと言っても、姐さんはいつも黒いドレスじゃないッスか。違いなんか分からないッスよ」
「なっ! アンタもいつも商会の制服じゃない!」
痛いところを突かれたメリーは、即座に反撃に転じた。
確かに彼女もまた、見飽きるほどに同じ服装をしている。
「商会の制服は、いかにもな普通の制服ッスからね。民衆に紛れる『海猫』班のあたしたちにはちょうどいいッスよ」
「そういうもんなの……」
民衆に紛れて諜報をおこなう彼女たちにとって、平凡であることは最大の武器となる。
妙に説得力のある言葉に、メリーは毒気を抜かれたように納得した。
その時、それまで沈黙を守っていたジャックが、恭しく口を開いた。
「メリー様も初陣なのですから、蒼紫の薔薇のドレスに身を包まれた方が……」
「やめろ! 初陣にピンクのドレスを着る奴がどこにいるのよ!」
ジャックの提案を、メリーは食い気味に拒絶する。
あの悪趣味な配色の旗だけで十分だというのに、身に纏うなど言語道断である。
「あたしは身に着けてるッスよ、ほら」
言うが早いか、赤毛の女はスカートを捲り上げた。
そこには、鮮やかな蒼紫の薔薇模様の下着が鎮座していた。
「なっ! アンタ……」
絶句するメリーをよそに、ジャックが厳粛な面持ちでズボンのベルトに手を掛ける。
「私も身に着けております」
「やめろ!」
車内に響くメリーの悲鳴にも似たツッコミと共に、一行を乗せた馬車は最初の休憩ポイントへと差し掛かろうとしていた。
──────
最初の休憩ポイントに到着し、馬車が停止する。
護衛の騎士たちが騎馬から降り、強張った身体をほぐすように四肢を伸ばしている。
メリーたちもまた、拷問器具のような馬車からようやく解放され、固い地面を踏みしめた。
そこへ、地味な商会服に身を包んだ小柄な娘が、音もなく近づいてきた。
『海鳥部隊』の『海猫』班と思われる彼女は、オルコット辺境伯とジャックの前に跪き、短く報告を行う。
「山道での待ち伏せはないらしい。想定通り、西門の前に陣を張っているとの報告じゃ」
報告を聞いたオルコットが、白髭を撫でながら重々しく頷いた。
険しい山岳地帯での奇襲を警戒していたが、敵は正攻法を選んだようだ。
「当然ですな。兵を分散させれば『鶚』班の餌食ですからな。敵はそれなりに賢いと褒めておきましょう」
ジャックが不敵な笑みを浮かべ、同意を示す。
その口から出た班の名前に、メリーは意外そうな表情を浮かべた。
(え? 『鶚』ってそんなに危ない連中なの?)
メリーの無言の驚きを察したのか、ジャックが満足げに口角を吊り上げる。
「メリー様。『海鳥部隊』の中でも『鶚』は戦闘に特化した殲滅部隊です」
恭しく、しかしどこか誇らしげにジャックが説明を加える。
諜報や工作ではなく、純粋な戦闘力に秀でた部隊が存在するとは初耳だった。
「もう、その娘たちだけで全部片づけてしまえば良くない?」
メリーは呆れたように溜息を吐いた。
そんな強力な手駒があるのなら、わざわざ危険な正面突破をする必要などないのではないか。
しかし、ジャックは静かに首を横に振る。
「『海鳥部隊』はこれからの戦いの切り札です。初戦からお披露目するわけにはいきません」
「そうなの?」
「はい。今回の作戦に『海鳥部隊』は戦力として数えておりません。あくまで、不測の事態に対応するために存在しているとお考え下さい」
「そうなのね」
メリーが納得したように頷いた、その時だった。
「そうですよー。私はアルベルト様の初陣を応援してます」
ふいに、近くに控えていた別の少女が、場違いなほど明るい声で会話に割って入った。
屈託のない笑顔を浮かべるその少女を、メリーはまじまじと見つめる。
「ああ、この娘が『鶚』なのね……」
顔は見知っていたが、まさか彼女がその殲滅部隊の一員だとは思いもよらなかった。
驚きを隠せないメリーの背後から、アルベルトが穏やかな声をかける。
「疲れてないか? メリー」
「馬車に揺られてただけよ。疲れていないわ。それより、ルシアンの対策は大丈夫なの?」
気遣うアルベルトに対し、メリーは自身の疲労よりも懸念事項を優先させた。
――ルシアン・ギルガルド。
その存在が、この戦における最大の不確定要素である。
「ああ、作戦は立てた。そのルシアンとやらが戦場に現れたら、すぐに作戦を切り替える」
「そうなのね。無理はしないでちょうだい」
メリーは短く言葉を返した。
信頼と不安が入り混じる複雑な心境を、祈るような眼差しに乗せる。
空が茜色に染まり始めた頃、オルコットが低い声で号令をかけた。
「そろそろ日が暮れる。出発しよう。総大将」
「よし、移動!」
アルベルトの力強い返答と共に、休息の時間は終わりを告げる。
一行は再び隊列を組み、次の休憩ポイントを目指して進軍を再開した。
──────
二つ目の休憩ポイントに到着するや否や、『海鳥』の赤毛が駆け寄ってきた。
彼女は馬上のオルコットを見上げ、短く告げる。
「いたッスよ。噂のルシアン少年」
「どこだ?」
オルコットが即座に問い返す。
「西門の部隊に混ざってるッス。フェリシアさんの言っていた特徴と合致するそうッスよ」
「ギルガルド伯爵は?」
「館から出ないッスね」
「臆したか。先陣を切らないとは不甲斐ない」
オルコットは鼻を鳴らし、侮蔑の色を隠そうともしなかった。
総大将が姿を見せず、子供を矢面に立たせるとは、武人としてあるまじき振る舞いである。
「ルシアン少年が一番槍なのでしょう。戦力を考えれば妥当かと」
ジャックが冷静に分析を加える。
敵の配置が判明したことで、一行の間に張り詰めた空気が漂い始めた。
「いよいよね」
メリーが小さく呟く。
その言葉を合図にしたかのように、アルベルトが声を張り上げた。
「ああ、最初から対ルシアン対策の陣で行くぞ」
「「「は!」」」
騎士たちが力強く呼応する。
兵士たちは手早く弓の弦を張り、長槍を構え、臨戦態勢へと移行していく。
「全員準備はよいか? 出発するぞ」
「は!」「行けます!」「辺境伯軍の勇猛さを見せてやりましょう!」
オルコットの檄に、兵たちが奮い立つ。
「全員騎乗! 出発!」
アルベルトの号令と共に、軍勢は再び動き出した。
目指すはギルガルド領、西門。
******
夜の帳が下りる頃、闇の向こうに揺らめく光が見えてきた。
ギルガルド領西門を守る篝火である。
「先頭にいるのがルシアン少年との報告ッス」
『海鳥』の赤毛が、暗闇の中から指を差す。
「よし! 陣を開け。囲い込んで殲滅するぞ!」
アルベルトの指示に従い、隊列が左右へと大きく展開する。
「弓隊、準備よいな!」
オルコットが唸るような声で確認する。
「は!」「万全です!」「全弾撃ち尽くしてやります!」「残弾抱えて死ぬのは恥だ!」
殺気立った返答が夜風に乗る。
「前進!」
アルベルトが剣を掲げ、馬腹を蹴った。
軍勢は速度を保ったまま、敵陣との距離を詰めていく。
互いの兵力の全容が視認できる距離まで肉薄するが、突撃の合図はまだ出ない。
相手もまた、先手を打って矢を射掛けてくることはなかった。
名乗りを挙げ、大義を問うてからの開戦。
それが、この場の暗黙の了解となっていた。
「アルベルト・アステリアだ! ヴォルガン国王に与するギルガルド伯爵の首を取りに来た」
篝火に照らされた戦場の最前線で、アルベルトは堂々と名乗りを上げた。
純白の軽鎧が、夜の闇の中で鮮烈に浮かび上がる。
銀の縁取りが施されたその装甲と、左肩に揺れる赤い片マントは、彼がただの騎士ではなく、この軍の旗印であることを如実に物語っていた。
「次期ギルガルド伯爵として、受けよう。ルシアン・ギルガルドだ」
対する陣営から、一人の少年が進み出た。
まだあどけなさを残す容姿だが、その声音には年相応の怯えなど微塵もない。
「無駄だとは思うが、一応言っておく。降伏しろ! ルシアン・ギルガルド」
アルベルトは切っ先を向け、最後の通告を行う。
「そんなつまらないことを言うために、わざわざ辺境くんだりから来たのか? アルベルト・アステリア」
ルシアンは薄く笑い、両手を広げた。
刹那、その掌から紅蓮の炎が噴き上がり、揺らめく剣の形を象っていく。
交渉の余地はない。
アルベルトは迷うことなく、開戦の号令を放った。
「戦闘開始!」
──────
アルベルトの号令が、夜気を切り裂いた。
刹那、双方の陣営から矢が放たれ、虚空で交錯する。
死の雨が降り注ぐ中、前衛部隊が激突し、金属が軋む不快な音が戦場を支配した。
その最前線、矢と怒号が飛び交う殺戮の中心に、アルベルトは立っていた。
ルシアンの掌から放たれる紅蓮の炎が、凶悪な熱量を持って彼を襲う。
同時に、敵の弓兵が放った矢が、死角からアルベルトの喉元を狙う。
だが、当たらない。
アルベルトは最小限の足捌きで炎の剣を紙一重で躱し、首をわずかに傾けるだけで矢をやり過ごす。
その動きに無駄はなく、まるで予め軌道を知っていたかのようだった。
中央がアルベルトという特異点によって膠着する一方、両翼は確実に敵陣を侵食していた。
「押し込め! 一歩も引くな!」
左翼では、オルコットが鬼神の如き働きを見せていた。
返り血で髭を赤く染め、大剣を振るうその姿は、老いてなお盛んな猛将そのものだ。
彼の咆哮に呼応するように、辺境伯軍の兵士たちが敵の防衛線を強引に食い破っていく。
対照的に、右翼は不気味なほど静かだった。
右翼後方、メリーの護衛を兼ねて展開していたジャックの周囲では、敵兵が「何もしないまま」倒れていく。
陣の隙を突こうと突出した敵兵が、メリーに刃を向けようとした瞬間だ。
音もなく背後に忍び寄った影が、鋼の針を延髄へと滑り込ませる。
断末魔すら上げられず、糸の切れた人形のように崩れ落ちる敵兵。
ジャックは表情一つ変えず、手袋の埃を払うような仕草で次の獲物へと視線を向けた。
派手な剣戟などない。ただ、死角に入り込んだ敵が、物質へ還元されていくだけだ。
左右からの包囲網は、確実にルシアンを絞め殺そうとしていた。
「何だその動きは? 矢も剣も当たらないなんて、あり得ないだろう!」
ルシアンの声に焦燥が滲む。
援軍を送ろうにも、アルベルトの動きに翻弄され、不用意に近づけば味方を巻き込むことになる。
包囲は完成しつつあった。
このままでは、文字通り袋の鼠だ。
「もういい! みんな巻き込まれるなよ!」
理性を焼き切ったルシアンが、自身の周囲に膨大な炎を収束させる。
戦術も指揮もかなぐり捨てた、広範囲を焼き尽くすためだけの一撃。
紅蓮の炎が奔流となってアルベルトへ襲い掛かろうとした、その時。
蒼紫の炎の剣が、紅蓮の波を正面から受け止めた。
「なっ……!?」
炎が霧散した先に立っていたのは、漆黒のドレスを纏った少女だった。
「メリュジーヌ姉さん!?」
「久しぶりね、ルシアン。家出娘が戻ってきたわ。もうあなたに勝ち目はない。退きなさい」
「黙れ! 今更お前が帰ってくる場所なんてない! アルベルトもろとも消し炭になれ!」
ルシアンが絶叫する。
先ほどとは比較にならない熱量が、彼の両手から噴き上がった。
周囲の空気すら歪むほどの超高火力。まともに食らえば、人間など灰すら残らない。
だが、その炎が放たれることはなかった。
世界が、ズレた。
メリーの視界の中で、ルシアンを含む空間そのものが、斜めに切り裂かれたように見えた。
音速さえも置き去りにした、認識外の一撃。
「え!?」
何が起きたのか理解できないルシアンの身体が、斜めにずり落ちる。
その背後には、いつの間にか一人の少女が立っていた。
「アルベルト様に敵対する者は応援できません」
『鶚』の娘だった。
その手にある刃が、夜闇の中で黒く鈍い光を放っている。
「馬鹿、な……」
ルシアンの上半身が地面に落ち、遅れて下半身が崩れ落ちる。
あまりに呆気ない、敵将の死だった。
突然の出来事に、戦場が一瞬にして静まり返る。
「おい、ルシアン様がやられたぞ!」「ここまでか……」
ギルガルド軍の兵士たちから戦意が抜け落ち、武器が地面に落下する音が響き渡る。
その静寂を破ったのは、左翼から現れた血まみれの老将だった。
「ルシアン・ギルガルドは討ち取った! 今すぐ投降しろ!」
オルコットの大音声が戦場を圧する。
もはや勝敗は決した。
生き残ったギルガルド軍の兵士たちは、次々とその場に膝をつき、降伏の意思を示す。
「動けるものは総大将に続け! ギルガルド伯爵の首を取りに行く!」
オルコットの指示が飛ぶ中、アルベルトは翻るようにして愛馬へと跨った。
そこへ、メリーが駆け寄る。
「私も!」
短く、だが強い意志のこもった声だった。
アルベルトは無言で手を差し伸べる。
華奢な身体を軽々と引き上げ、自分の前へと座らせた。
その小さな背中を包み込むように手綱を握ると、アルベルトは馬腹を蹴った。
目指すは、ギルガルド伯爵が待つ館のみ。




