第24話:予備、往く道、剣の誓い
「そういうわけで、ガレル、ワシは帰れん。お前は先に帰れ」
昼食を終えたばかりの食堂に、オルコット辺境伯の重低音が響いた。
対面に座る長男ガレルは、眉間を指で揉みほぐしながら、深いため息を噛み殺す。
本来ならば、領主こそが率先して領地へ戻り、今回の視察の成果を政務に反映させねばならない。
だが、次男による突然の移住宣言と、それに伴う婚約者宅への挨拶という事態を前に、父親として予定を変更せざるを得なかった。
「……承知しました。本隊は私が率いて戻ります」
ガレルは早々に父の説得を諦め、矛先を隣の弟へと向けた。
「シリル。リタとの結婚は既定路線だったが、レグスに移り住むとはどういう思いがあってのことだ?」
兄の問いには、純粋な疑問と、弟の将来を案じる厳しさが混在していた。
シリルは父と兄、二つの巨岩を交互に見やり、乾いた笑みを浮かべる。
「殺しても死ななそうな父上と兄上の予備として、いつまでも辺境伯家にはいられないという事だ」
シリルは顔を上げ、窓の外に広がるレグスの街並みを指し示す。
行き交う荷馬車の列、活気に満ちた市場、そして何より、誰に強制されるでもなく、自らの生活をより良くしようと動く人々の熱量があった。
復興途上とはいえ、ほぼ復興を終え、さらなる繁栄へと向かう確かな「未来」が、そこには完成されていた。
「兄上もこのレグスを見て、何も感じなかったとは言わないだろう。ここには未来がある、希望がある。そしてリタがいる」
シリルは兄の目を真っ直ぐに見据え、言い切った。
「オレは、オレの道を行くと決めた。今日」
その言葉には、一時の迷いも、次男であるという甘えも一切なかった。
ガレルは弟の瞳の奥にある、確固たる決意の光を認め、一度だけ頷いた。
「言いたいことはわかる。が、決めた? 今日?」
呆れを含んだ確認に、シリルは不敵に笑って肯定する。ガレルは肩をすくめ、妥協案を提示した。
「結婚はいい。だが、移住はまた別の話としないか? 結婚が決まったら、一度帰ってこい」
なし崩し的な移住を許さず、けじめをつけろという兄の理屈に、シリルも異存はない。
「ああ、それでいい。……父上、準備を」
話はまとまったとばかりに促されたオルコットだが、自身の無骨な旅装を見下ろし、難色を示した。
「準備も何も、挨拶に行くための正装など持ってきておらん。このまま行けというのか?」
嫁の親に会うのだ。最低限の礼節として、それなりの衣服が必要だと考えるのが親心である。
だが、シリルは即答した。
「父上の正装はその『黒い鎧』だろう。何の問題もない。ないよな? リタ」
「はい。旦那様はそのままで威厳がございます」
リタの即答を受け、オルコットは髭をさする。
漆黒の甲冑を纏った巨人が一般家庭を訪問するという、威圧以外の何物でもない事態について、誰も深く考えようとはしなかった。
「私も行こう。二人の領主に祝福される結婚、いいじゃないか」
バルカスが同席を申し出るが、メリーは即座に拒絶の意思を示す。
「私は行かないわよ。マフィアのボスに祝福される結婚って何よ?」
──────
商会の前で、二つの集団が別れの時を迎える。
オルコットとシリル、そしてバルカスを伴った一行は、リタの案内で街の居住区画へと足を向けた。
一方、ガレル率いる本隊は、北の街道へ向けて馬首を並べる。
「また会おう、アルベルト殿」
馬上のガレルが、見送りに立つアルへと声をかける。
「ああ。達者でな、ガレル」
交わす言葉はそれだけで十分だった。
ガレルが手綱を振るうと、軍馬はいななきを上げ、砂煙を上げて北へと駆け出した。
──────
嵐のような辺境伯一行が去り、食堂には静寂が満ちていた。
テーブルには飲みかけのコーヒーと、広げられたままの地図。
熱狂の残り香が湯気と共に立ち昇り、冷たい空気の中で白く解けていく。
残された者たちは、それぞれのカップに視線を落とし、訪れた一時の凪を噛み締めていた。
「辺境伯との話、どうなりました?」
沈黙を破ったのはベルンだった。
彼は組んだ両手の親指を、いつもの癖のようにゆっくりと擦り合わせながら、メリーを見据える。
「概ね良好よ。協力の約束は取り付けたわ。辺境伯領内の反対派が押さえられるかはわからないけど」
「よく協力してくれる気になりましたね。我々と手を組むということは、王国に反旗を翻すと同義なのに」
ベルンの言葉は、事実として重かった。
一介の商会が、地方領主と手を組むのとは訳が違う。
「あら、そこまで知ってたの?」
「知ってたも何も、そりゃわかりますよ。王都を追われたアルベルト・アステリアが『剣鬼』オルコット辺境伯の後ろ盾を得て力をつける。行く道は一つじゃないですか」
ベルンはアルへと視線を流す。
アルは肯定も否定もせず、ただ静かにその視線を受け止めていた。
王族が武力を持ち、有力な貴族を味方につける。
その先にあるのは奪還か、あるいは破滅か。
「そうね。辺境伯領は揉めに揉めるでしょうね。大げさじゃなく、自領の命運が懸かっているものね」
「どっちにせよ、行くしかないという結論になるでしょうね。アルさんに賭けるか、我々と敵対して街道封鎖と関税値上げで干上がるかの二択ですからね」
ベルンは口の端を歪め、短く鼻を鳴らした。
その表情には、経済という暴力で殴られ、逃げ場を失う相手への、同情にも似た憐れみが浮かんでいた。
「ベルンはそれでいいの? 巻き込んだ私が言うことではないけど」
「巻き込まれたとは思っていませんよ。僕は商人です。これからさらに発展する西側全域を股にかける大商人を目指します」
ベルンの瞳には、野心が静かに燃えている。
もはや後戻りはできない。
全員の意思は、言葉にするまでもなく、一つの方向へと収束していた。
「ボス、今後について相談させてくれ」
重苦しい空気を切り裂くように、バズが身を乗り出した。
彼は実務の男だ。
未来の夢想よりも、目の前の障害を排除することに意識を向けている。
「例のルートは限界だ。早急に手を打たねえと、人員確保に支障が出る」
「十人二十人なら問題ないが、今ですらレグスに流入する人口の増加に対して手が回らない状況で、これからさらに辺境伯領との街道工事となると限界だ」
「そうね」
メリーは短く肯定する。
裏社会のルートは、あくまで「隠蔽」と「選別」に特化した細い管だ。
動脈のような太い物流を支えるには、物理的に容量が足りない。
「裏のルートだけじゃそもそも人数が頭打ちだ。もっと表の人間たちも含めて大っぴらに人を集める必要がある」
「そうですな。バズ殿の言う通り、裏のルートは間口が狭すぎます」
ジャックが静かに同意し、老執事の仮面の下から鋭い視線を覗かせた。
「また、ここまで発展したレグスに、裏の人間は異物となりかねません」
「手広く人員を集める組織を作れないか? 仕事を斡旋するという名目の組織だ」
「いいわね。人員が欲しい現場、仕事が欲しい人間の情報の一括管理ね」
メリーは指先でテーブルを叩き、リズムを刻む。
思考が加速し、新たな構造が組み上がっていく。
「子爵殿の公認を得て、レグスの民間企業にした方がよさそうですな。レグス商会とは切り離すべきかと」
「そうね。例の裏ルートはレグス商会が、表の人員募集はその企業がやるという棲み分けにしましょう」
「その表の組織の頭は誰がやる? オレは無理だぜ? レグス商会のチンピラとしての顔が売れすぎてる」
バズが肩をすくめる。彼の顔は、この街の裏側そのものだ。
「……。ちょうどいい人材がいるじゃない」
メリーの唇が、悪戯を思いついた子供のように歪む。
「シリル殿のことだな」
腕を組んで聞いていたアルが、呆れたように苦笑した。
「レグスに移住すると言っていたし、結婚早々無職というのもな」
「ええ。彼を抱き込みましょう」
「メリーらしいやり方だな。シリル殿とリタ殿の将来を考えつつ、オルコット家の次男を人質か」
「あら、人聞きの悪い。彼ならバルカスと手を組み、辺境伯領とも繋ぐことができる、ちょうどいい人材だと思っただけよ」
しれっと言ってのけるメリーに、ベルンが「またですか」と言わんばかりに肩を竦める。
「モノの流れを押さえただけじゃなく、次は人材の流れですか。悪どいですねぇ」
「今はその悪どさも必要な時期よ」
「そうですけどね……」
ベルンはカップに残った茶を飲み干し、低い声で告げた。
「この先、西側全域が栄え、レグスが西側最大の貿易都市となった際に、いずれ排除されるべき対象ですよ。『レグス商会』は」
その言葉に、バズが眉を跳ね上げる。
「そうなのか?」
「そうです。今のレグスは『レグス商会』が復興した街です。みんな知っています。ですが、世代が変わり、新しい住民が増えたら、レグス商会はただの異物です」
「オレたちの功績を知る者、恩を感じる人たちが減り、マフィアは排除すべき、となる、か」
バズの声には、理不尽への怒りよりも、諦念に近い納得が含まれていた。
陽が当たれば、影は濃くなる。
光が強くなればなるほど、闇に生きる者は居場所を失う。それは物理的な必然だ。
「いいじゃない。我々裏社会の人間は、将来の健全化した西側全域にとって排除されるべき物。だからと言って、今の流れを止めることはできないわ」
「レグス商会は将来潰すつもりだと?」
アルの問いに、メリーは首を横に振った。
「潰しはしないわ。まっとうな商売で生き残ればいいのよ。街道の警備と整備、物流区画の警備、これだけでも十分生きていけるわ」
メリーの視線が、テーブルの隅へと向けられる。
そこには、緊張感のない姿勢でお茶を啜る、場違いな少女たちの姿があった。
「それに、チンピラ上がりのバズやその部下、そして表に出せないあの娘たちのためにも、潰すわけにはいかないでしょう」
赤毛の少女――『海猫』のコードネームを持つ諜報員が、クッキーを齧りながら顔を上げた。
「あたしらッスか? あたしらはジャックさんの下部組織ッスからね。事が成されたらジャックさんは王城に残るッスよね。あたしらも半数くらいは王都に残ることになると思うッスよ」
ジャックが無言で頷く。
その沈黙は、彼女たちの未来が、血塗られた暗闘の中にしかないことを示唆していた。
「私はアルベルト様のそばでずっと応援します」
もう一人の少女が、瞳を輝かせて宣言する。
「あたしは姐さんのそばにいるッスよ。帰ってくる場所が無くなるのは困るッスね」
「私たちはそのうちいなくなるわ。そうなってもレグス商会は生き延びなければならない。バズ、あなたは私たちの帰る場所を守りなさい」
「了解だ、ボス」
バズは短く答えた。その声には、契約以上の重みが宿っていた。
「二、三年後くらいですかね。アルさんが王都に向かうのは」
ベルンが指折り数えながら呟く。
「今すぐじゃないのか?」
「メリーの考える『西側大穀倉地帯構想』がある程度形にならないと無理だろうな。半端な状態で行動を起こせば、中央に丸ごと潰されかねない」
アルの冷静な分析に、メリーも頷く。
「そうね。中央を敵に回しても、西側だけで生きていける地盤が必要だとは思うわ」
「そうですな。最悪の場合、反逆の罪で子爵領と辺境伯領は取り潰し、中央から派遣される貴族に西側が牛耳られることも考えられますからな」
「それは面白くねえな」
「ええ、そんなのは実質植民地と変わらないですからね」
未来への希望と、背中合わせの破滅。
綱渡りのような現状を再確認し、全員が重い息を吐き出した時、バズがふと疑問を口にした。
「こちらが動く前に、中央は動かないのか?」
「動くでしょうな。向こうからすれば、アルベルト様を生かしておいて良いことなど一つもありませんからな」
ジャックが答えると、赤毛の少女がカップを置き、世間話でもするように口を挟んだ。
「たまに来てるッスよ。アルベルト様を狙う刺客」
「……?」
メリーとベルンが、虚を突かれたように固まる。
「とはいえ、辺境伯領を抜けて来られないんで、大概山脈越えッスね。ルートが限られてるから監視も楽、死体処理も楽ッスよ」
少女は淡々と、明日の天気を語るような口調で死を語る。
その日常的な仕草に、彼女がただの給仕係ではなく、手を汚すことに慣れたプロであることを周囲に思い出させる。
「さすがに兵を挙げての辺境伯領抜けは誰もやらないでしょう」
「こないだ来てたッスよ。門前払いされてたッスけど」
「どこの馬鹿よ。一番敵に回しちゃいけない辺境伯領を抜けようとするなんて」
「ギルガルド伯爵ッス」
「……」
メリーの表情が、凍りついた。
「ギルガルド伯爵は第二王子派でしたからな。命令されたら動かざるを得ないんでしょう」
「それにしても、辺境伯領ルートはないでしょう」
「オルコット辺境伯も第二王子派です。協力してくれると思ったんでしょうな」
ジャックの解説に、アルが冷ややかに付け加える。
「辺境伯は王族に傅かない、王国にのみ忠誠を誓う、というのをわかっていなかったんだろうな。ギルガルド伯爵は」
「すごすご帰っていったッスよ」
「あんた、見ていたように言うわね」
「見てたッスよ。ちょうど辺境伯領に調査に行ってたんで」
少女の言葉に、メリーの目が細められる。
「あんたら、辺境伯領にまで勢力を伸ばしてるわけ?」
「メリー様。そこは機密のため、明かせません」
ジャックが遮る。
その徹底された情報統制に、メリーは溜息をつくしかなかった。
「……いいわ。何にせよ、敵は来る。敵対勢力は事前に黙らせる。兵力の増強は必要ね」
メリーの呟きに、ジャックが首を横に振った。
「メリー様、相手に攻め込まれた時点で勝利条件は破綻しています。レグスを戦場にした段階で我々は負け、くらいに思っておくべきでしょう」
「それはそうだけど……」
「そのためにあたしらがいるッスよ。攻め込まれる前に攻め込んでしまえばいいッス」
赤毛の少女が、平然と言い放つ。
「あんたらの規模も活動範囲もよくわかってないんだけどね」
「メリー様。そこは機密のため、明かせません」
「……」
メリーは再び沈黙する。
自分の知らないところで、この組織は随分と獰猛な牙を隠し持っていたようだ。
「なにしろ、懸かっているのが玉座ですからな。血で血を洗う戦いになるのは必至でしょうな」
「そうだな。俺も一歩も引く気はないし」
アルが拳を握りしめる。
「しばらくは防戦一方ね。やりにくいわ」
「そうでもありません。北に辺境伯領、東は山脈、南と西は海ですからな。レグスは天然の要塞と言っても過言じゃない」
「そうだな。守るって意味じゃあ、やり易いかもな」
バズが窓の外、夕闇に沈みゆく港を見つめる。
波の音は穏やかだが、その向こうには、確かな嵐の予感が渦巻いている。
彼らは知っているのだ。
この平穏が、薄氷の上に成り立つ仮初めのものであることを。
そして、その氷が割れる時こそが、本当の戦いの始まりであることを。
──────
陽が落ち、挨拶回りを終えた辺境伯一行が戻る頃には、レグスの街は深い夜の帳に包まれていた。
いつもなら、夕食の席を賑やかに、あるいは世話焼きに立ち回る栗色の髪の侍女の姿はない。
彼女は久しぶりの里帰りで、今夜は実家に留まっている。
リタという緩衝材を失った商会の夜は、どこか欠けたような静寂と、男所帯特有の無骨な空気に支配されていた。
シリルは興奮冷めやらぬまま、与えられた客室で新生活の構想を練っているのだろう。
バルカスも早々に自室へと引き上げた。
廊下を渡る風の音だけが、やけに大きく響く夜だった。
アルの部屋の扉が、控えめに、しかし確かな重みを持って叩かれた。
「入ってくれ。鍵はかけていない」
入室してきたのは、武人の顔をしたオルコットだった。
昼間の好々爺のような表情も、酒席での豪快さもない。
そこには、大陸北部の山岳地帯を統べる『剣鬼』としての威圧感が、静かに、だが隠しようもなく漂っていた。
「夜分にすまぬな」
「構わない。俺も、少し考え事をしていたところだ」
アルは布で拭っていた剣を、デスクの脇へと立てかける。
オルコットは椅子を勧められたが、座ろうとはせず、部屋の中央で腕を組み、アルを見下ろした。
「ここ数日、西側の変化を見せてもらった。……見事だった」
「ああ。メリーと、皆が積み上げたものだ」
「うむ。流れは変わる。我が領もまた、変わらねばならん」
オルコットの声は低く、腹の底に響くようだった。
それは単なる感想ではない。
一つの巨大な勢力を率いる長としての、決断の響きがあった。
「アルベルト殿。ワシが貴公に剣を貸すということは、我が領の民すべてを、貴公の往く道の敷石にするということだ」
室内の空気が、物理的な質量を持って張り詰める。
数万の民、その家族、生活、未来。
それら全てを天秤に乗せ、修羅の道へ踏み出すことへの責任。
その重圧が、アルへと突きつけられる。
「その重み、背負う覚悟はあるか」
隻眼の光が、アルの心臓を射抜くように凝視する。
「以前、ワシは言った。あの剣を持つ意味をよく考えてほしい、と」
「……聞かせてくれ。ワシら数万の命を預けるに足る答えを」
アルは視線を逸らさず、その圧力を正面から受け止めた。
そして、静かに立ち上がり、立てかけていた『黄金の装飾剣』を手に取る。
派手で、悪趣味で、しかし恐ろしいほどの切れ味を秘めた剣。
彼はそれを鞘のまま、愛おしむように、あるいは自らの半身であるかのように握り締めた。
「この剣の由来も、卿が期待するような『王としての意味』も、今の俺には関係ない」
アルは断言した。
高尚な理想も、血統の誇りも語らない。
「だが、この剣は……俺が死んで誰かの手に渡ることを禁ずるという、メリーとの約束がある」
脳裏に浮かぶのは、薄汚れた宿屋の一室。
泥だらけの少女が、この剣を渡してくれた時の言葉。
――死んで奪われるな。
そのシンプルな契約は、今の彼にとって、自らを縛る鎖ではなく、決して折れぬ「誓い」となっていた。
「俺は道半ばで倒れることは許されない。この剣が俺の手にある限り、俺は進み続ける」
アルはオルコットを真っ直ぐに見据えた。
「『意味』など、今はなくていい。俺が泥を啜り、血を流し、歩き続けたその道の後にしか、本当の意味は生まれない。俺はそう考えている」
沈黙が落ちた。
オルコットは彫像のように動かず、アルの瞳の奥にある揺るぎない炎を覗き込んでいた。
やがて、その巌のような表情が、微かに緩んだ。
「……なるほど。良い答えだ」
満足げな吐息と共に、オルコットは頷く。
口先だけの理想よりも、その泥臭い生存への執着こそが、荒野を切り拓く刃には相応しい。
「時が来たら、すべてを話そう。……失礼した」
オルコットは踵を返し、風のように去っていった。
再び静寂が戻った部屋で、アルは剣の鯉口を切る。
半分ほど覗いた刃が、月光を受けて冷ややかに輝いた。
パチン、と乾いた音を立てて、彼は剣を鞘に収めた。
──────
翌朝。
出発の準備で慌ただしい商会の食堂に、異様な光景が出現した。
優雅にモーニングコーヒーを啜るバルカスと、その向かいで同じようにくつろぐジャック。
その二人が着用しているのは、光沢のあるシルク生地に、毒々しいほど鮮やかな「蒼紫の薔薇」が全面にプリントされた、お揃いのパジャマだった。
朝の光を受け、薔薇の模様が無駄に神々しく輝いている。
「……」
正装に身を包み、出発の挨拶に現れたオルコットとシリルは、その視覚的暴力の前に絶句した。
だが、最強の武人は即座に気を取り直し、真顔でベルンへと向き直った。
「ベルン殿。……子爵とジャック殿が着ているあの寝間着、ワシの分も用意できんか?」
ベルンは商人の手つきで地図を畳みながら、感情を排して即答した。
「無理ですね。その体で着られるサイズはありません。特注は受け付けていませんしね」
オルコットは肩を落とし、あからさまに落胆した。
その巨躯を包めるシルクなど、特注でなければテント用の布地くらいしか存在しないだろう。
玄関先で腕を組んでいたメリーが、限界を迎えたようにこめかみをピクリと震わせた。
感動的な別れも、重厚な密約の余韻も、すべてが毒々しい薔薇色に塗り潰されている。
「くだらないこと言ってないで、さっさと帰りなさい!」
少女の怒声が、晴れ渡ったレグスの空に響き渡る。
慌ただしく馬車に乗り込む辺境伯一行と、それを追い立てる小さな女帝。
その騒がしくも温かな光景は、やがて訪れる激動の時代を前にした、最後の平穏な朝のひとコマだった。




