第18話:悪夢、紫の死神、メリーはみんなの胸にいる
「諸君、おはよう!」
その声は、朝の爽やかな空気を切り裂くというよりは、土足で踏みにじるように響き渡った。
食堂の扉が開き、この地の支配者が姿を現す。
瞬間、メリーの手からカトラリーが滑り落ち、硬質な音を立てて皿の上で跳ねた。
隣でコーヒーを啜っていたベルンは、茶色の液体を盛大に吹き出し、噎せ返る。
バルカス・ブラッドレイ。
昨晩、そのままレグス商会へと泊まり込んだ彼は、実に見事な着替えを済ませていた。
最高級のシルクが放つ艶やかな光沢。
だが、問題はその素材ではない。色彩とデザインだ。
生地は、砂糖菓子のように淡く甘ったるいピンク色。
そこに、毒々しいまでに鮮烈な蒼紫色の薔薇が、蔦を這わせるように描かれている。
棘と葉は、目に痛いほど鮮やかなエメラルドグリーン。
頭には、同じ柄で作られたナイトキャップが、ふわりと乗せられていた。
どこをどう切り取っても、目の前の少女――メリーを構成する色彩そのものだった。
ただし、その配色は狂気と紙一重の悪趣味さで構成されている。
「ふむ。ジャック君が用意してくれたこの寝間着、実に着心地が良い。肌触りが滑らかで、通気性も申し分ない」
バルカスは周囲の凍りついた空気を意に介さず、優雅に椅子を引き、腰を下ろした。
ピンク色のシルクが、彼の動きに合わせてぬめりと光る。
「……バルカス。その寝間着はなに」
メリーは呻くように問うた。正体不明の未知なる頭痛がこめかみを刺す。
「知らないのか? 今、レグスで密かな人気になっているらしいぞ。ジャック君が提供してくれたのだ。『布教用』と言っていたか」
バルカスは悪びれもせず、ナプキンを広げた。
そこへ、朝食のトレイを持ったリタが静々と歩み寄る。
彼女は完璧な給仕の所作で皿を並べると、無表情のまま口を開いた。
「お目が高いです、子爵様。実は私も愛用しております。肌着ですが」
リタがエプロンの端を少しだけ持ち上げる。
そこには、バルカスと同じ、狂気的なピンクと薔薇の柄がチラリと覗いていた。
「なっ……リタ、貴女まで!」
「機能性は抜群です。通称『メリー様パジャマ』。着るだけで安眠効果と、守護されているような安心感が得られます」
「訂正するがいい、リタ」
食堂の隅、影の中からぬらりとジャックが現れた。
その顔は、いつになく真剣そのものだった。
「それは『メリー様パジャマ』などという俗称で呼ばれるべきものではない。正式名称は『エターナル・ビューティフル・ヴァイオレットローズ・メイデン・スリーピング・ウェア』だ」
「やめろ!」
メリーの絶叫が木霊する。
だが、ジャックは主の拒絶を「照れ」として処理したのか、満足げに頷いた。
「ちなみに私は保存用、観賞用、実用で三着確保しております」
「……どこで売ってるのよ、そんな呪いの装備」
「当商会の出張所ですが?」
答えたのはベルンだった。彼はハンカチで口元を拭いながら、遠い目をする。
「発売日の早朝、開店前から行列ができていまして……。先頭に並んでいたのがジャックさんでした」
「なんで販売元の人間が並んで買ってるのよ! 裏から回せばいいでしょう!」
「銀葉商会は、身内であってもズルは許しません」
ベルンはキリッとした顔で商人の矜持を説いた。
「……頭が痛い」
メリーは額に手を当て、深く息を吐いた。
全ての元凶である老執事へ、殺意のこもった視線を向ける。
「ジャック。後で……」
だが、メリーが顔を上げた時、そこには誰もいなかった。
気配すら残さず、影に紛れて逃走した後だった。
ただ、バルカスの着るパジャマの鮮烈なピンク色だけが、朝の食堂に残されていた。
「朝からにぎやかだな」
入れ替わるように、アルが入ってきた。
朝の鍛錬を終えた彼は、もはや恒例となった上半身裸で、玉のような汗を浮かべている。
その鍛え上げられた肉体は、彫像のように美しく、力強い。
しかし、メリーの視線は彼の肉体ではなく、彼が汗を拭っているその「布」に釘付けになった。
それは、ふわふわとした手触りの良さそうなタオルだった。
その中央には、極端に可愛らしく描かれた少女が笑顔を振りまいている。
きらきらと輝く大きな瞳。薔薇を背負い、愛らしく微笑む頭の大きな人形のような姿。
どう見ても、極限まで「カワイイ」を強調して美化されたメリーの似顔絵だった。
血と泥に塗れた現実のメリーとは対極にある、完全なる愛玩用メリー。
「……アル。そのタオル」
「ん? ああ、これか。なかなか手に入らなくて苦労したんだが、先日ようやく買えたんだ。吸水性が良くて気に入っている」
アルは爽やかに笑い、その「カワイイ」タオルで、無骨な筋肉の隆起する首筋を無造作に拭った。
男の野性味と、愛らしい物品。
その絶望的な不調和が、バルカスのパジャマとはまた違った方向からメリーの精神を削り取る。
「先日雇った絵描きがデザインした新商品ですね」
ベルンが補足を入れる。
「女性客を中心に飛ぶように売れています。まさかアルさんまで並んで買っていたとは」
「……あの絵描き、才能の無駄遣いにもほどがあるわ」
メリーはがっくりと項垂れた。
復興が進んでいる証拠とはいえ、その方向性は彼女の意図しない方へと全力疾走していた。
──────
レグス商会の一室。
張り詰めた空気の中、使い込まれた地図が机の上に広げられた。
報告を行っているのは、最近雇い入れられた斥候だった。元はゴロツキだが、数日の訓練で顔つきが変わっている。
「ここです。山岳部の盗賊団、冬ごもりのために物資を溜め込み、動きを止めています」
斥候が地図上の点を指し示す。
そして、そのさらに北側に引かれた一本のラインを、指でなぞった。
「ただし、このラインより北……オルコット辺境伯領には絶対に踏み込まないでください」
その声には、明確な恐怖が混じっていた。
「あそこは別世界です。うっかり足を踏み入れれば、あの『剣鬼』に俺たちが狩られます」
その場にいた荒くれ者たちが、一斉に息を呑んだ。
北の絶対強者に対する畏怖は、彼らの骨髄にまで染み込んでいるようだった。
「わかったわ。ラインは超えない。各員そのつもりで」
メリーは短く応じると、即座に人員の選別に入った。
戦闘班と、物資回収のための荷運び班。
その横で、アルは無言のまま愛剣の革ベルトを締め直し、腰に吊るした予備のナイフの柄を確認していた。
商会の前には、選抜された部隊が整列していた。
そこへ、朝の奇抜な寝間着から一転、完璧なスーツを着こなしたバルカスが姿を見せる。
「本来、領内の治安維持は領主たる私の義務なのだがね。……すまないな、任せてしまって」
バルカスはアルに向かって、殊勝な顔で言った。
だが、その目には計算高い光が宿っている。
「私の庭を荒らした代償だ。奴らが溜め込んだ物資は全てくれてやる。有効に活用したまえ」
「ええ、遠慮なくいただくわ」
メリーが頷き、アルが歩き出す。
それを合図に、混成部隊が山へと向かって行軍を開始した。
山道を進む最中、背後からひそひそとした話し声が聞こえてくる。
戦闘員たちが、前を行くメリーの背中を見ながら噂し合っていた。
「おい、見ろよ。久々に『紫の死神』のお出ましだぞ」
「ああ、あの蒼紫の炎を見るのはヴェーノのアジト以来か……」
メリーの足が止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、噂話をしていた男たちを見据えた。
「……その、尾てい骨のあたりがムズムズする二つ名はやめなさい」
「ッス! 姐さん!」
メリーは諦めたように溜息を吐き、再び前を向いた。
否定はしたが、部隊の士気は異様なほどに高揚していた。
彼らは知っているのだ。この少女と、その隣を歩く青年がもたらす、破壊と死の形を。
山中に作られた盗賊のアジトは、粗末な柵と見張り台で守られていた。
だが、警告も降伏勧告も行われない。
アルが音もなく疾走し、正門を蹴り砕いた瞬間が、戦闘開始の合図だった。
「な、なんだ貴様ら!」
飛び出してきた盗賊が剣を抜くより早く、アルの振るった剣がその喉を貫いていた。
引き抜くと同時に、鮮血が噴水のように舞う。
アルは返り血を避ける動きすら最小限に、次の標的へと踏み込んだ。
横から襲い掛かる斧を半歩の動きで躱し、すれ違いざまに、その首を無造作に斬り飛ばす。
叫び声すら上がらない。
そこにあるのは戦いではなく、ただの障害物の除去作業だった。
奥から、大柄な頭目らしき男が怒号と共に現れる。
「テメェら! ここを誰の……」
その言葉は最後まで続かなかった。
メリーが、その細い腕を無造作に振るったからだ。
五本の指先から伸びた蒼紫の炎が、爪のような形状となって空間を裂く。
ヒュン、と風を切る音。
頭目の首に、五本の赤い線が走る。
直後、その切断面から蒼紫の炎が噴き出した。
肉が焼ける臭いも、焦げる音もしない。
ただ、炎が噴き出した箇所から、物理的に肉体が「消失」していく。
頭部は地面に落ちることなく空中で消え失せ、残された胴体から大量の血が溢れ出し、雪混じりの地面を赤く染め上げた。
圧倒的な蹂躙。
数分後、アジトに立っていた盗賊は一人もいなかった。
静寂と、死体の山だけが残された。
「……終わったわね」
メリーは、血の海に沈むアジトを無表情で見渡す。
そして、控えていた荷運び班へ向けて手を振った。
「さあ、仕事よ。一枚の硬貨、一粒の麦も残さず回収しなさい」
──────
夕闇が迫る頃、レグス商会前の広場は、山から運び込まれた物資で埋め尽くされていた。
冬を越すには十分すぎる量だ。
盗賊たちが数ヶ月かけて集めた食料、酒、そして金品が、今やバルカスの管理下に置かれている。
「見事だ。これで冬の懸念事項が二つ同時に片付いた」
出迎えたバルカスは、積み上げられた木箱の山を見て満足げに頷いた。
治安の安定と、物資の確保。
領主としての責務を果たした(実際に手を下したのは部下だが)男の顔だった。
「部隊、整列!」
戦闘班を束ねていた隊長格の男が、野太い声を張り上げた。
血と泥にまみれ、疲労の色を見せながらも、男たちの表情は晴れやかだった。
勝利と略奪の味を知った獣の顔つきだ。
「作戦終了! これより休息とする! 装備解除!」
号令と共に、男たちが一斉に動き出した。
革鎧の留め具を外し、重たい防具を脱ぎ捨てる。
汗と熱気が立ち上る中、彼らの上半身が露わになった。
その瞬間、広場の空気が凍りついた。
いや、正確にはメリーの思考だけが停止した。
むさ苦しい男たちの肉体。
無数の傷跡、隆起する筋肉、胸毛。
その猛々しい肉体を包んでいるのは、汗を吸って張り付いた薄手の肌着だ。
だが、その柄が異常だった。
全員の胸元に、あの「極端に愛らしく描かれたメリーの似顔絵」がプリントされていたのだ。
ある者はピンク色、ある者は薄紫色。
血なまぐさい荒くれ者たちの集団が、揃いも揃って幼い少女の絵柄を身に纏っている。
その光景は、戦場の残酷さとは全く別の意味で、精神を削り取る狂気の光景だった。
「……」
メリーは言葉を失った。
怒りも、羞恥も、通り越していた。
ただ、圧倒的な「数」の暴力と、彼らの満足げな笑顔がそこにあった。
「……もういいわ」
本日二度目となる深いため息が、夕闇に吸い込まれていく。
活気に満ちたレグスの商会前で、メリーはがっくりと肩を落とした。
彼女の知らぬ間に、組織の結束は奇妙な形で完成されていた。
沈みゆく夕日が、レグスの街を燃えるような朱色に染め上げている。
復興の熱気と、勝利の凱歌。
そして、愛らしい少女の絵柄を胸に宿した、数十人のむさ苦しい男たち。
活気と狂気が同居する、最悪の絵面と共に、レグスの夜が更けていった。




