第16話:ネズミ、抜き身の刀身、バルカス・ブラッドレイ
「ネズミを捕まえてきた」
唐突なその声は、午後の静寂に落とされた一滴の墨のようだった。
芳醇な紅茶の香りが漂う食堂の空気が、瞬きする間に塗り替えられる。
勝手口から吹き込んだ風は、身を切るように冷たい。肌を焼く陽射しと腐臭が満ちていたこの港にも、数ヶ月の時を経て、鉛色の空と冬の足音が訪れていた。
だが、鼻孔を刺したのは冬の冷気ではない。濃厚な鉄錆の臭気だ。
勝手口に立つアルは、頭から爪先までを赤黒い液体で濡らしていた。
金色の髪は吸った血の重みで額に張り付き、頬を伝う雫が床に赤い斑点模様を描いていく。
だが、その胸郭は凪いだ海のように静かだった。
荒い息一つ吐かず、肩も上下していない。
身に纏う凄惨な色彩と、彫像のごとき静謐な佇まい。その物理的な乖離が、眼前の青年を人ならざる異物へと変貌させていた。
アルが無言で顎をしゃくる。
背後の庭から、男たちが荷車を引いて現れた。
積まれているのは、鋭利な刃物によって一刀のもとに断たれた二つの肉塊と、猿轡を噛まされ、眼球を限界まで見開いた一人の男。
死体が纏う黒い装束は、かつて山中で遭遇した暗殺者たちのそれと同一である。
「一匹だけ逃がした。現国王のヴォルガンに『アルベルト・アステリア健在』を知らせるためだ」
アルは濡れた前髪を無造作に掻き上げた。その指先までが、鮮烈な朱に染まっている。
メリーは無言で彼の瞳を覗き込んだ。
そこに怯えや動揺はない。
あるのは、研ぎ澄まされた刃物が鞘もなく置かれているような、触れれば指が落ちるごとき危うさだけだった。
「メリーが心配するような事は何もない。この剣を振るう意味と、この剣を誰にも渡さない約束は今も生きている」
メリーの視線を受け、アルが先に口を開く。
黄金の装飾が施されたその剣は、血糊で汚れることもなく、主の腰に鎮座している。
「……そういうことじゃない」
メリーの短く鋭い否定に、アルは淡く唇の端を歪めた。
「心配ない。壊れたわけでも、狂気に走ったわけでもない。この結果は俺の剣が鈍っていない事の証明にすぎない」
アルは一度言葉を切り、自身の掌を見つめた。
「メリーにもらった『剣を振るう意味』だけで剣を振っていてはいけない。自分自身の『剣を振るう意味』を見いださなければならないのはわかっている。重ねて言うが、心配はない」
その言葉には、かつてのような迷いはなかった。
「ジャック、尋問を。俺は血を洗い流してくる」
短く、重い命令。
ジャックは一瞬の空白すら置かず、深く腰を折った。
それは主君に対し、臣下が捧げる最上の礼だった。
踵を返し、浴室へと向かうアルの背中には、かつての逃亡者の影はない。
ただ、研ぎ澄まされた一振りの剣のような冷たさと静寂だけが、そこを歩いていた。
──────
翌朝。
庭は乳白色の霧に沈んでいた。
晩秋の冷気が、肺腑を凍らせるほどの密度で滞留している。
その白濁した世界の中で、唯一の熱源が躍動していた。
アルである。
上半身を剥き出しにしたその肢体からは、ごうごうと湯気が立ち昇っていた。
筋肉が収縮と弛緩を繰り返すたび、体表の汗が蒸発し、周囲の冷気を物理的に押し返している。
振るわれる剣に迷いはない。
風を裂く鋭利な音が、規則正しく朝の静寂を刻んでいた。
「……変わったわね」
テラスからその様を見下ろしていたメリーが、ぽつりと漏らす。
昨日の食堂で見せた剥き出しの刃の鋭さは、一過性の感情ではなかった。
眼下の青年は、もはやただの逃亡者ではない。明確な意志を宿した、猛獣のような危うさを放っている。
「いいえ。戻りつつあるのです」
傍らに控えるジャックが、静かに訂正した。
「あの日、全てを奪われる前……アルベルト様は騎士団の中でも随一の使い手でございました。自信を折られ、泥に塗れていただけに過ぎません。ようやく、本来あるべき器へと中身が追いつき始めているのです」
ジャックの視線は、かつての主君を見るそれのように細められている。
やがて、一通りの動作を終えたアルが、肩で息をしながらテラスへと歩み寄ってきた。
近づくにつれ、むっとするほどの熱気と汗の臭いが漂ってくる。
メリーはふいっと顔を背けた。
彫像のような肉体の美しさを認めるがゆえに、直視することへの照れを隠す。
「……アル。ところかまわず裸になる癖、やめなさい」
「あ?…ああ、すまない」
アルは悪びれる様子もなく、首筋の汗を拭った。
その口元には、今までに見たこともない、余裕を含んだ弧が描かれている。
「お子様のメリーには、少々刺激が強すぎたか」
からかうような響きを残し、アルは邸内へと消えていく。
メリーはその背中を見送り、小さく溜息をついた。
「……本当に変わったわね」
──────
「姐さん! 海賊船です!」
執務室の静寂を食い破り、転がり込んできた男の絶叫が空気を震わせた。
バズの部下である。
その顔面からは血の気が引いており、視線は恐怖に泳いでいる。
メリーは無言でペンを置き、ジャック、アルを伴い港へと急行する。
吹き荒れる海風は、冬の到来を告げるように冷たく、重い。
その風に混じり、肌を粟立たせる異様な圧力が漂い始めていた。
今まさに接岸せんとする規格外の排水量を誇るガレオン船。
港へ到着した一行の網膜を、巨大な黒影が焼き尽くす。
船体は闇夜を煮詰めたような漆黒。
船腹に並ぶ無数の砲門は、沈黙したまま港全域を射程に収め、無言の殺意を放射していた。
その攻撃的なフォルムは、海を行く者ならば誰もが戦慄する略奪者のそれだ。
マストにはためく旗だけが、その正体が単なる無法者ではないことを主張していた。
そこに描かれているのは安直な髑髏などではない。
この領域を支配する『ブラッドレイ子爵家』の紋章、その象徴がそこにあった。
無差別な殺意を孕んだ砲門の列と、秩序を象徴する貴族の紋章。
決して交わるはずのない二つの概念が、黒い船体の上で異様な同居を果たしていた。
悲鳴のような音を立て、タラップが慌ただしく架けられる。
軋む板を踏み締め、三つの影が港へ降り立った。
それは、この荒廃した港において、それぞれが決定的に調和を欠いた光景だった。
先頭を行くのは、潮風に晒された肌を持つ女。
腰には無骨な蛮刀を佩き、その立ち振る舞いは荒波をねじ伏せてきた海の獣そのものだ。
海賊船から海賊が現れるという、唯一の道理がそこにある。
それに銀縁の眼鏡をかけた女性が続く。
仕立ての良い商会の制服に身を包み、手には革張りのバインダーを抱えている。
その姿を認めた瞬間、背後に控えていたベルンが呼吸を忘れ、一歩後ずさった。
銀葉商会ヴォルデン支部、支部長。組織の規律と監査を司る最高責任者。それがなぜここにいるのか。
そして、最後の一人。
汚泥と油にまみれた港には、あまりに不釣り合いな男が優雅に歩みを進める。
最高級の生地で仕立てられたスーツ。一点の曇りもなく磨き上げられた革靴。
彼は泥濘む地面を、まるで王宮の絨毯の上であるかのように踏みしめた。
護衛もつけず、男は一直線にメリーの元へと肉薄する。
アルを一瞥し、ジャックを視界の端で処理し、その整った顔をメリーへと向けた。
「やあ。キミがメリー君かい? 私はバルカス・ブラッドレイ」
男は親愛の情を演じるように、大袈裟に両手を広げた。
「挨拶が遅くなってすまなかったね」




