第15話:彫像、未回収の資源、人身売買ルートはまだ生きている
「キャーッ!」
朝の静寂を引き裂いたのは、桃色に上気した悲鳴だった。
リタが両手で頬を覆い、指の隙間からその光景を直視している。
勝手口から食堂へと足を踏み入れたのは、全身から湯気を立ち昇らせたアルだった。
上半身は剥き出しだ。
朝露と汗が入り混じった雫が、鍛え上げられた胸筋の谷間を伝い、腹筋の稜線を滑り落ちていく。
それは彫像のような美しい肉体だった。
メリーはふいっと顔を背けた。
興味なさそうに視線を窓外へと逃がすが、わずかに覗く耳朶は朱に染まっている。
「朝から何をしていたの?」
「ああ、ちょっと体を動かそうかと」
アルはばつが悪そうに首筋を拭う。
その腕にも、確かな疲労と充実感が滲んでいた。
「昨日の、オルコット辺境伯の言葉が頭に残っていてな」
アルは独り言のように呟き、自身の掌を見つめた。
「過去に浸る分には、起きたことを思い出せば済む。現在のことは、この目で見ればいい」
彼は一度言葉を切り、未だ見えぬ窓の外へと視線を向けた。
「だが、未来を考えると、途端に邪念が入る」
そうして、再び掌を握りしめる。
「なので、素振りをしてスッキリしてきた」
「……そうですか」
メリーは紅茶のカップに視線を落としたまま、短く答えた。
「正直、空回りしているのは自覚している。それでも、剣を振りたい気分だったんだ」
「……そう」
「悪い。汗を流してくる」
──────
数刻後、食卓には身なりを整えたアルと、メリー、ジャックの姿があった。
並べられたのは備蓄の麦粥と、干し肉のスープ。そして、緑色の野草と乾燥野菜を和えたサラダ。
メリーはフォークで無機質に葉野菜を刺し、口へと運ぶ。
続くスープには、かつて靴底のように硬かった干し肉が、ほろほろと繊維を解かれて沈んでいる。
どれもが、美味だった。
リタの手間という工程だけが、ただの餌を食事へと昇華させていた。
「本日の予定ですが、いつもの広場での炊き出しを──」
「あ、ジャック様! その準備の合間に、倉庫の整頓とシーツの洗濯を済ませておきますね!」
ジャックの報告に、リタが花が咲くような笑顔で業務をねじ込んでくる。
水差しを持った彼女は、メリーのグラスが空になるコンマ一秒前に水を注ぎ足し、アルの視線がパンに向くや否やバターを差し出した。
淀みがない。
呼吸をするように最適解を出力し続けるその挙動は、新人侍女のそれではなく、熟練した職人を思わせた。
(……有能すぎる)
メリーは麦粥を口に運びながら、そのスムーズすぎる給仕に違和感を覚える。
ジャックの調査では、彼女はただの不遇な娘だという。
だが、これほどの性能を持つ個体が、組織の中で迫害され、放置されていたという事実は、あまりに不自然だ。
オルコット辺境伯の差し金。
あの怪物は、なぜこの屋敷にこれほど『優秀な人材』を送り込んできたのか。
純粋な善意か、それとも何らかの策謀か。
あの怪物の真意は、深すぎて底が見えない。
メリーは思考を保留し、目前の温かなスープをすくい上げた。
意図が何であれ、提供された利便性は享受する。
それが、彼女の生活を快適にするものである限りは。
──────
港にある広場には炊き出しを待つ列が伸びていた。
ここでもリタの手際は遺憾なく発揮されていた。
配給の速度はいつもの倍近く、列は淀みなく消化され、殺伐としがちな空気もどこか穏やかだ。
その様子を少し離れた木箱の上から見下ろす影があった。
メリーである。
彼女は港での定位置となった木箱の上に立ち、手元の帳簿にペンを走らせていた。
「三日連続で干し肉と根菜のスープか……。海藻とかタコとか、海産物も欲しいな」
列の半ばで、男たちのぼやきが風に乗って届く。
「タコか? あんなウニョウニョしたもん食わねーだろ」
隣の男が露骨に顔をしかめて吐き捨てた。
「ばっかおめぇ、煮ても焼いても干しても美味いんだぞ?」
最初の男が呆れたように反論する。食欲を含んだ、熱っぽい声だった。
ペンの音が止まる。
メリーは顔を上げ、会話の主である薄汚れた男たちを見つめた。
見た目が悪い、気持ちが悪いタコとやら。
そんなものは個人の感傷に過ぎない。
彼らは言った。「煮ても焼いても美味い」と。
ならば、それは海に放置されている未回収の資源でしかない。
メリーは木箱から飛び降りると、一直線に男たちの元へと歩み寄った。
「今の話、詳しく聞かせてちょうだい」
──────
夕刻。
執務室には、予定通りに帰還したベルンと、アル、メリー、ジャック、そしてバズの姿があった。
ベルンの背後には、護衛とおぼしき大柄な兵士が一人、直立不動で控えている。
「報告します。物資の調達は完了しました。それと……」
ベルンはメリーに向き直り、声を潜める。
「子爵からの接触は、一切ありません。不気味なほど静かです」
「子爵にとって、貴方は『銀葉商会ヴォルデン支部の商人』に過ぎない。ただの商人が港へ商売に来た。それだけのことに、いちいち目くじらを立てる暇はないのでしょう」
「『銀葉商会』の身分が、うまく機能しているようですね。僕も綱渡りですよ。マフィアとの取引なんて、支部長にバレたらクビじゃ済まない」
メリーは無言で頷き、手元の帳簿を破り取ってベルンへと差し出した。
昼間、港で書き記していた物資のリストだ。
「ベルンは継続して物資の調達を。何が必要かは書いておいたわ」
「わかりました。出発は明日でいいですよね」
ベルンが一礼して紙片を受け取る。
メリーは視線を巡らせ、全員に告げた。
「商業区画に、『銀葉商会ヴォルデン支部レグス出張所』を設立するわ」
「レグス商会の看板を掛け替えるつもりか?」
アルの問いに、メリーは首を横に振る。
「いいえ。この屋敷はマフィアの巣窟として知られすぎている。私たちが作るのは、あくまで『銀葉商会』の出張所よ」
「では、ヴォルデン支部に戻り次第、支部長に許可をもらいます」
ベルンが即座に意図を汲み、請け負う。
メリーはバズへと視線を転じた。
「バズ、旧ヴェーノの人身売買ルートは、まだ生きてる?」
「ああ。まだ動いてるはずだ」
「なら、使いなさい。まずはこの港の中にいる人材を探す。不足している分は、そのルートを使って買い付けてきなさい。必要なのは労働力じゃない。『知識と経験』を持った人材よ」
メリーは指を折りながら、淡々と発注リストを告げる。
「まずは農業、建築、土木、医療の心得がある者。そして調理師。これらは常時確保しなさい。あればあるだけいい」
「わかった」
「次に、国中の料理に精通した、食べることが生きがいのような『食通』。そして、絵描き」
アルやベルンが怪訝な顔を見合わせる。
街の基盤づくりの職人はわかる。食通と絵描きに何の需要があるのか。だが、メリーは説明を加えようとはしなかった。
「ジャック、人選を」
「畏まりました」
メリーの脇に控えていたジャックが、短く応える。
「話は以上よ」
メリーは椅子に深く腰掛け、ふと思い出したようにバズを見た。
「バズ、この街の市長に会わせてちょうだい」
「市長なら、そこにいるが」
バズが親指で、ベルンの背後に控えていたガタイのいい兵士を指し示す。
兜を目深に被り、槍を持って立っていたその男が、気まずそうに敬礼した。
「なんで市長が兵士なんかやってんのよ!」




