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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第1部:野生の伯爵令嬢、野良王子を拾う
14/23

第14話:凶器、死んだ歴史、温かな闇へと沈む

「認定しよう、貴様は敵だ! その破廉恥極まる凶器を、今すぐ我が視界から抹消せよ!」


 白亜のタイルに反響したのは、幼き主人の悲痛な宣戦布告だった。

 視界を白く染める湯気の中、メリーは湯船の縁に仁王立ちになり、目の前に屹立する「暴力」を指差していた。

 それは、重力という自然の摂理を嘲笑うかのような、圧倒的な質量の隆起だった。

 水滴を弾く磁器のごとき肌。

 湯の熱を帯びて上気したその曲線は、呼吸をするたびにたわわに揺れ、貧相な荒野に住まう者に対し、許されざる資源の独占を見せつけている。

 扇情的、などという生易しい言葉では足りない。それは弱者に対する、純然たる体積の暴力だった。


「まあ、酷い言われようです。……メリー様、先ほどの『濡れた犬の匂い』のこと、根に持ってます?」


 リタはきょとんと目を瞬かせると、生意気な妹の減らず口を楽しむように、悪戯っぽく笑ってみせた。

 あるのは、駄々をこねる子供を愛でるような、どこか粘度を帯びた慈愛だけだった。

 彼女は豊かな双丘を無防備に晒したまま、逃げようとするメリーを濡れた腕で包み込む。


「ぐっ……、仕方ないだろう。朝からずっと港にいたんだ。雇用主に向かって『雨に濡れた犬の匂いがする』とは、不敬にもほどがあるぞ!」


「はいはい、じっとしてくださいね。ゴシゴシしちゃいますからねー」


 有無を言わせぬ包容力が、メリーの抵抗を物理的に制圧した。

 椅子に座らされ、逃げ場を失う。

 背後から伸びるリタの手が、メリーの小さな背中を丁寧に、そして執拗に滑っていく。

 その直後、後頭部に柔らかく、それでいて確かな弾力を伴う「圧」が押し当てられた。

 それは凶器と呼ぶにはあまりに温かく、暴力と呼ぶにはあまりに甘美な、逃れられぬ現実の重み。


「……くっ」


 メリーは屈辱に唇を噛んだ。

 だが、絶妙な湯加減と、リタの職人的な指使いがもたらす快楽には抗えない。

 張り詰めていた神経が、湯気とともに強制的に解かされていく。


「……覚えておきなさい。これは、仮の休戦よ」


 敗北宣言は力なく湿気った空気に溶け、リタのくすくすという楽しげな笑い声だけが、湯殿に優しく木霊した。


     ──────


 陽が落ち、執務室の輪郭が闇に溶け始めた頃。

 アルは豪奢な革椅子には座らず、窓際で月光を頼りにその剣を抜き放っていた。

 黄金の装飾が施された柄。鞘の派手な悪趣味さとは裏腹に、露わになった刀身は、凍てつくような冷気を孕んで澄み渡っている。

 刃毀れ一つない白銀の輝き。それは美術品としての美しさではなく、生物の命を断つために研ぎ澄まされた、純然たる凶器の凄みだった。


「……意味、か」


 アルは低く呟き、切っ先を夜空へと向ける。

 ただの戦利品だ。盗賊が略奪し、メリーが回収し、自分が譲り受けた。それだけの鉄塊に過ぎない。

 だが、あの『剣鬼』と呼ばれた男の隻眼は、この剣の奥に何を見たのか。


「まだそんな顔をしているのですか、アル」


 思考の海に沈みかけた意識が、不意に引き戻された。

 扉の開く音と共に、執務室の澱んだ空気が揺らぐ。

 入室してきたメリーからは、湯上がりの熱気と、石鹸の柔らかな香りが漂っていた。

 濡れた髪を拭きながら、彼女はアルの手にある抜き身の剣を一瞥する。


「メリー。……あの男は俺を値踏みしていた。俺の覚悟、そして、この剣を背負うだけの器量があるかを」


 アルは剣を下げ、自身の肌で感じた重圧を口にした。

 あの眼は、ただの飾りを持つ者に向ける眼差しではなかった。


「もしかすると、この剣には俺たちが知らぬ来歴があるのかもしれん」


 だが、メリーは濡れた髪をバサリとタオルで包むと、興味なさげに鼻を鳴らした。


「それがどうしたというの」


 彼女はデスクの上座へと歩み寄り、当然のように革椅子へと身を預ける。


「盗賊から奪った時点で、その道具の過去など洗浄されているわ。誰が打たせたか、誰が持っていたかなんて、死んだ歴史に過ぎない」


 メリーは頬杖をつき、エメラルドグリーンの瞳でアルを射抜く。


「重要なのは『今』、その柄を握っているのが誰かということだけよ」


「……ああ」


 アルは短く答え、手の中の重量感を確かめるように柄を握り直した。

 過去も、本来の持ち主も関係ない。

 彼女が言う通り、今これを振るうのは自分であり、その刃が守るべき対象も定まっている。


「……そうだな。俺が握っている。それだけが事実か」


 カチリ、と硬質な音が部屋に響く。

 アルは迷いを断ち切るように、黄金の剣を鞘へと納めた。

 その正体が何であるにせよ、今の彼にとっては、少女を守り抜くための唯一の牙であった。


     ──────


 深夜、屋敷は死んだような静寂に沈んでいた。

 かつて犯罪組織の首領が愛用していた寝台は、九歳の少女が一人で眠るにはあまりに広大で、無駄な余白ばかりが目につく。

 メリーはその余白を不快そうに見つめ、シーツの冷たい感触に顔をしかめていた。


 軋み。

 静寂を裂いて、扉がわずかに開く。

 廊下の明かりを背負って現れたのは、枕を抱えたリタだった。

 彼女は寝間着姿で、怯えた小動物のように部屋の中を窺っている。


「……何よ」


 メリーは半身を起こし、冷ややかに問うた。


「あの、その……他のお部屋、埃っぽくて。それに、広すぎてなんだか怖くて……」


 リタはもじもじと身を捩り、上目遣いで訴える。


「メリー様の足元、空いてますよね?」


「不許可よ。廊下で丸くなりなさい」


 即答だった。

 メリーは再び枕に頭を沈め、背中を向ける。

 他人の体温など、睡眠を阻害する異物でしかない。


「私の部屋、用意されてないんですよ? ……じゃあ、アル様のお部屋にお願いしてきます」


 リタの口から漏れたのは、あまりに無防備な選択肢だった。

 彼女は悪気なく踵を返し、扉の方へと歩き出す。


「あの方ならお優しいですし、お部屋も広いですから、きっと──」


「──待て」


 メリーの声が、凍てついた鞭のように空気を叩いた。

 リタがドアノブに手をかけた瞬間、その襟首が背後から掴まれる。

 振り返ると、メリーが氷点下の瞳で見上げていた。


「……正気? あの男は、一応は健全な雄よ」


 メリーは吐き捨てるように告げた。

 そこにあるのは嫉妬などという甘やかな感情ではない。

 ただ、整理された自分の領域内で、男女が交わることで生じる「間違い」や「情事」といった、粘度のある不潔な事態が発生することを嫌悪する、純然たる潔癖さだけだった。


「貴女のような無防備な肉塊が転がり込めば、空気が濁るわ。私の庭で、発情した獣のような真似は許さない」


「え、えぇ……? アル様はそんなことしませんよぉ……」


「種としての機能の話をしているの。……戻りなさい」


 メリーは強引にリタを引きずり戻すと、自らのベッドの端を顎でしゃくった。


「ここに転がっていなさい。ただし、私の睡眠を妨げたら焼くわよ」


「わぁ、やっぱり優しい! ありがとうございます、メリー様!」


 リタは相好を崩し、警告など聞こえなかったかのように寝台へ飛び込んだ。

 ふわりと、石鹸の香りと柔らかな体温がシーツの冷気を追い出していく。


「……ちっ」


 メリーは舌打ちをし、再び背を向けた。

 だが数秒と経たずに、背後から伸びてきた腕が、メリーの小さな体を抱き枕のように包み込む。

 豊かな双丘の感触と、押し付けられる体温。

 抗議しようとしたメリーだったが、その時にはすでに、リタの指先がメリーの髪を優しく梳き始めていた。

 それは、今日一日の緊張を強制的に解きほぐす、熟練の魔手。


(……不覚)


 メリーの意識は、温かな闇へと急速に沈んでいった。

 遠くで夜風が窓を叩く音がするが、もはやそれは、少女たちの安眠を妨げる雑音にはなり得なかった。


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