第14話:凶器、死んだ歴史、温かな闇へと沈む
「認定しよう、貴様は敵だ! その破廉恥極まる凶器を、今すぐ我が視界から抹消せよ!」
白亜のタイルに反響したのは、幼き主人の悲痛な宣戦布告だった。
視界を白く染める湯気の中、メリーは湯船の縁に仁王立ちになり、目の前に屹立する「暴力」を指差していた。
それは、重力という自然の摂理を嘲笑うかのような、圧倒的な質量の隆起だった。
水滴を弾く磁器のごとき肌。
湯の熱を帯びて上気したその曲線は、呼吸をするたびにたわわに揺れ、貧相な荒野に住まう者に対し、許されざる資源の独占を見せつけている。
扇情的、などという生易しい言葉では足りない。それは弱者に対する、純然たる体積の暴力だった。
「まあ、酷い言われようです。……メリー様、先ほどの『濡れた犬の匂い』のこと、根に持ってます?」
リタはきょとんと目を瞬かせると、生意気な妹の減らず口を楽しむように、悪戯っぽく笑ってみせた。
あるのは、駄々をこねる子供を愛でるような、どこか粘度を帯びた慈愛だけだった。
彼女は豊かな双丘を無防備に晒したまま、逃げようとするメリーを濡れた腕で包み込む。
「ぐっ……、仕方ないだろう。朝からずっと港にいたんだ。雇用主に向かって『雨に濡れた犬の匂いがする』とは、不敬にもほどがあるぞ!」
「はいはい、じっとしてくださいね。ゴシゴシしちゃいますからねー」
有無を言わせぬ包容力が、メリーの抵抗を物理的に制圧した。
椅子に座らされ、逃げ場を失う。
背後から伸びるリタの手が、メリーの小さな背中を丁寧に、そして執拗に滑っていく。
その直後、後頭部に柔らかく、それでいて確かな弾力を伴う「圧」が押し当てられた。
それは凶器と呼ぶにはあまりに温かく、暴力と呼ぶにはあまりに甘美な、逃れられぬ現実の重み。
「……くっ」
メリーは屈辱に唇を噛んだ。
だが、絶妙な湯加減と、リタの職人的な指使いがもたらす快楽には抗えない。
張り詰めていた神経が、湯気とともに強制的に解かされていく。
「……覚えておきなさい。これは、仮の休戦よ」
敗北宣言は力なく湿気った空気に溶け、リタのくすくすという楽しげな笑い声だけが、湯殿に優しく木霊した。
──────
陽が落ち、執務室の輪郭が闇に溶け始めた頃。
アルは豪奢な革椅子には座らず、窓際で月光を頼りにその剣を抜き放っていた。
黄金の装飾が施された柄。鞘の派手な悪趣味さとは裏腹に、露わになった刀身は、凍てつくような冷気を孕んで澄み渡っている。
刃毀れ一つない白銀の輝き。それは美術品としての美しさではなく、生物の命を断つために研ぎ澄まされた、純然たる凶器の凄みだった。
「……意味、か」
アルは低く呟き、切っ先を夜空へと向ける。
ただの戦利品だ。盗賊が略奪し、メリーが回収し、自分が譲り受けた。それだけの鉄塊に過ぎない。
だが、あの『剣鬼』と呼ばれた男の隻眼は、この剣の奥に何を見たのか。
「まだそんな顔をしているのですか、アル」
思考の海に沈みかけた意識が、不意に引き戻された。
扉の開く音と共に、執務室の澱んだ空気が揺らぐ。
入室してきたメリーからは、湯上がりの熱気と、石鹸の柔らかな香りが漂っていた。
濡れた髪を拭きながら、彼女はアルの手にある抜き身の剣を一瞥する。
「メリー。……あの男は俺を値踏みしていた。俺の覚悟、そして、この剣を背負うだけの器量があるかを」
アルは剣を下げ、自身の肌で感じた重圧を口にした。
あの眼は、ただの飾りを持つ者に向ける眼差しではなかった。
「もしかすると、この剣には俺たちが知らぬ来歴があるのかもしれん」
だが、メリーは濡れた髪をバサリとタオルで包むと、興味なさげに鼻を鳴らした。
「それがどうしたというの」
彼女はデスクの上座へと歩み寄り、当然のように革椅子へと身を預ける。
「盗賊から奪った時点で、その道具の過去など洗浄されているわ。誰が打たせたか、誰が持っていたかなんて、死んだ歴史に過ぎない」
メリーは頬杖をつき、エメラルドグリーンの瞳でアルを射抜く。
「重要なのは『今』、その柄を握っているのが誰かということだけよ」
「……ああ」
アルは短く答え、手の中の重量感を確かめるように柄を握り直した。
過去も、本来の持ち主も関係ない。
彼女が言う通り、今これを振るうのは自分であり、その刃が守るべき対象も定まっている。
「……そうだな。俺が握っている。それだけが事実か」
カチリ、と硬質な音が部屋に響く。
アルは迷いを断ち切るように、黄金の剣を鞘へと納めた。
その正体が何であるにせよ、今の彼にとっては、少女を守り抜くための唯一の牙であった。
──────
深夜、屋敷は死んだような静寂に沈んでいた。
かつて犯罪組織の首領が愛用していた寝台は、九歳の少女が一人で眠るにはあまりに広大で、無駄な余白ばかりが目につく。
メリーはその余白を不快そうに見つめ、シーツの冷たい感触に顔をしかめていた。
軋み。
静寂を裂いて、扉がわずかに開く。
廊下の明かりを背負って現れたのは、枕を抱えたリタだった。
彼女は寝間着姿で、怯えた小動物のように部屋の中を窺っている。
「……何よ」
メリーは半身を起こし、冷ややかに問うた。
「あの、その……他のお部屋、埃っぽくて。それに、広すぎてなんだか怖くて……」
リタはもじもじと身を捩り、上目遣いで訴える。
「メリー様の足元、空いてますよね?」
「不許可よ。廊下で丸くなりなさい」
即答だった。
メリーは再び枕に頭を沈め、背中を向ける。
他人の体温など、睡眠を阻害する異物でしかない。
「私の部屋、用意されてないんですよ? ……じゃあ、アル様のお部屋にお願いしてきます」
リタの口から漏れたのは、あまりに無防備な選択肢だった。
彼女は悪気なく踵を返し、扉の方へと歩き出す。
「あの方ならお優しいですし、お部屋も広いですから、きっと──」
「──待て」
メリーの声が、凍てついた鞭のように空気を叩いた。
リタがドアノブに手をかけた瞬間、その襟首が背後から掴まれる。
振り返ると、メリーが氷点下の瞳で見上げていた。
「……正気? あの男は、一応は健全な雄よ」
メリーは吐き捨てるように告げた。
そこにあるのは嫉妬などという甘やかな感情ではない。
ただ、整理された自分の領域内で、男女が交わることで生じる「間違い」や「情事」といった、粘度のある不潔な事態が発生することを嫌悪する、純然たる潔癖さだけだった。
「貴女のような無防備な肉塊が転がり込めば、空気が濁るわ。私の庭で、発情した獣のような真似は許さない」
「え、えぇ……? アル様はそんなことしませんよぉ……」
「種としての機能の話をしているの。……戻りなさい」
メリーは強引にリタを引きずり戻すと、自らのベッドの端を顎でしゃくった。
「ここに転がっていなさい。ただし、私の睡眠を妨げたら焼くわよ」
「わぁ、やっぱり優しい! ありがとうございます、メリー様!」
リタは相好を崩し、警告など聞こえなかったかのように寝台へ飛び込んだ。
ふわりと、石鹸の香りと柔らかな体温がシーツの冷気を追い出していく。
「……ちっ」
メリーは舌打ちをし、再び背を向けた。
だが数秒と経たずに、背後から伸びてきた腕が、メリーの小さな体を抱き枕のように包み込む。
豊かな双丘の感触と、押し付けられる体温。
抗議しようとしたメリーだったが、その時にはすでに、リタの指先がメリーの髪を優しく梳き始めていた。
それは、今日一日の緊張を強制的に解きほぐす、熟練の魔手。
(……不覚)
メリーの意識は、温かな闇へと急速に沈んでいった。
遠くで夜風が窓を叩く音がするが、もはやそれは、少女たちの安眠を妨げる雑音にはなり得なかった。




