第13話:出発、赤い果実の挨拶、飾りにしては重すぎる
「では、行ってきます。戻りは明日の夕方になる予定です」
朝靄が残る街道の入り口。
御者台に座ったベルンは、手綱を短く持ち直して告げた。
その背後には、昨日広場で雇用された男たちが整列している。
統一された革鎧と槍。路地裏でたむろしていた昨日の面影はなく、彼らは「レグス商会」の私兵として、緊張した面持ちで積荷を守っていた。
「ええ、頼みましたわ。……それとベルン、一つ指示を」
見送りに立ったメリーは、ベルンを見上げて淡々と付け加えた。
「ブラッドレイ子爵の方から接触や干渉があった場合、即座に現金を握らせなさい」
「……賄賂、ですか?」
「防衛費です。商会や港、そしてヴォルデン支部への無用な詮索を金で塞ぐのです。今の私たちに必要なのは、正当性よりも事業を進めるための『時間』ですから」
「なるほど。金貨で目を焼き、耳を塞げと。……安くはない経費ですが、商会ごと潰されるよりはマシですね」
ベルンは得心したように頷き、隣の馬上にいるバズへ目配せをした。
バズはニヤリと笑い、無言で親指を立てる。
ベルンが軽く鞭を振るうと、車輪が湿った土を噛み、重い音を立てて回転を始めた。
護衛たちが隊列を組み、馬車を囲むように歩き出す。
メリーはその隊列が霧の向こうへ進み始めるのを確認すると、車体が見えなくなるのを待たずに踵を返した。
「ジャック、広場へ。在庫を全て放出します」
──────
天頂に座した太陽が石畳を温め、広場は穏やかな湯気と喧騒に包まれていた。
大鍋から溢れるのは、根菜と塩漬け肉が煮込まれる濃厚な香り。
昨日のような飢えの狂騒はない。椀を受け取る民衆の顔には、確かな明日への安堵が宿り、雇われた男たちが杓子を振るう音も、どこか誇らしげな律動を刻んでいる。
ジャックは腕を組み、その平和な回転を無言で見守っていた。彼の存在が一本の芯となり、場に心地よい規律をもたらしている。
その安らぎの中心で、メリーだけが積み上げられた木箱の上に立ち、険しい顔で帳面を睨みつけていた。
部下が差し出した報告書をひったくるように受け取り、小さな指で数字を追う。
住民の数、消費される食料の量、算出される生存可能日数、どんなに計算しても足りない物資。
湯気を顔に浴びながらスープを待つ女たちが、ふと顔を見合わせ、その愛くるしい指揮官に目を細めた。
「あら、見てごらんよ。あのお嬢ちゃん、またあんな高いところで」
「ふふ、可愛いわね」
女たちの囁きと、柔らかな失笑。
メリーはその視線に気づくこともなく、ただ一心不乱にペンの先でインクを走らせ続ける。
穏やかな昼餉の時間。
だが、その温かな空気は、唐突な地響きによって裂かれた。
最初は、足裏に伝わる微細な振動。次いで、椀の中のスープがさざ波を立てる。
遠雷のような重低音が急速に距離を詰め、広場の入り口で風が巻いた。
ジャックが弾かれたように動きを止め、鋭い眼光を街道へと突き刺す。
陽炎の向こうから現れたのは、商人の柔らかな馬車ではない。
陽光を反射してギラつく鋼鉄の防具。一糸乱れぬ隊列で進軍する、騎兵の群れ。
風に煽られた旗印が、バサリと音を立てて翻る。
そこに描かれていたのは、二振りの剣が交差する武の紋章。
北の山脈に座する『剣鬼』、オルコット辺境伯の騎士団が、前触れもなくレグスの地を踏んでいた。
──────
石畳を叩く蹄の音が止むと、広場には窒息しそうな静寂だけが残された。
数百の瞳が、広場の入り口を埋め尽くす鋼鉄の壁に釘付けになっている。
先頭騎馬の鞍上から、一人の男が降り立った。
石畳が沈み込むかのような重厚な着地。
身長は二メートルに届こうかという巨躯を漆黒の鎧に包み、背には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
顔の左半分を走る古傷と、岩盤のように無骨な相貌。
北の山脈を統べる武の化身、『剣鬼』オルコット辺境伯その人であった。
住民たちが恐怖に身をすくませる中、ジャックだけは静かに息を吐き、組んでいた腕を解いた。
殺気はない。あるのは、厄介な客人を迎える執事としての、隙のない警戒心のみ。
彼は音もなく歩みを進め、木箱の上に立つメリーの前に滑り込むようにして立った。
「……何の用だ、剣鬼。ここは貴公の庭じゃなかろう」
ジャックの低い問いかけに、オルコットは隻眼を動かし、古びた石像のような表情で彼を見下ろした。
「懐かしいドブネズミの臭いがすると思えば……やはり貴様か、『梟』」
オルコットは鼻を鳴らし、ジャックの背後にいる小さな影へと視線を移した。
その眼光は、戦場で数多の猛者を屠ってきた暴力の塊だ。並の人間ならば、射すくめられるだけで腰を抜かす。
だが、メリーは木箱の上から、その巨人を無表情に見返していた。
怯えも、媚びも、驚きもない。ただただ「邪魔だ」と言わんばかりの瞳。
「……ふん」
オルコットは短く唸ると、背後の部下たちへ顎で合図を送った。
鎧を鳴らして歩み出た兵士たちが、荷馬車から巨大な木箱を次々と降ろし始める。
一つ、二つ、三つ。
広場の石畳に、重量感のある音が響く。
兵士がバールのようなもので木箱の蓋をこじ開ける。
ふわりと、甘酸っぱい香りが広がった。
箱の中から溢れ出したのは、陽光を弾いて赤く輝く、瑞々しい果実の山。
北部の山岳地帯、辺境伯領でしか採れない特産品──希少な蜜林檎だった。
「……挨拶代わりだ。受け取れ」
オルコットはそれだけを吐き捨てた。
あまりに場違いな光景に、住民たちは恐怖も忘れ、ぽかんと口を開けている。
メリーは瞬き一つせず、眼下の赤い山と、目の前の巨人を交互に見た。
「……ご挨拶の品、ありがたく頂戴いたしますわ。ジャック、検品と受領を」
「畏まりました。……相変わらず手荒な挨拶ですな、辺境伯」
ジャックは恭しく一礼し、手際よく木箱の確認へと移る。
その所作は、荒くれ者相手ではなく、王族に仕える執事のそれだった。
メリーはスカートを翻して木箱から降りると、オルコットの前まで歩み寄る。
見上げる少女と、見下ろす巨獣。
だが、その場の誰もが錯覚した。対等に渡り合っているのは、むしろ少女の方であると。
「では、立ち話も非効率です。執務室へ」
メリーは踵を返し、当然のように先導する。
オルコットはその小さな背中を隻眼でじっと見つめ、口の端を微かに歪めた。
獰猛な獣が、興味深い獲物を見つけた時の笑み。
彼は無言で少女の後を追い、その巨体で人波を割って進む。
──────
通された執務室の革椅子は、北の巨人を迎えるにはあまりに窮屈そうだった。
オルコットは軋む背もたれに巨体を預け、卓を挟んで対峙する少女を、値踏みするように見下ろしている。
メリーはデスクの上座に座り、その右手にジャック、左手にはアルが、侍従武官のように背筋を伸ばして控えていた。
彼女はオルコットの威圧感を無視し、手元で書類を揃えると、凛とした視線を返した。
「改めまして。レグス商会代表、メリーと申します」
「メリュジーヌ・ギルガルド伯爵令嬢か」
オルコットは短く、事実だけを訂正した。
メリーの眉がわずかに動く。
彼女は視線でジャックを制すると、間髪入れずに言葉を継ごうとした。
だが、オルコットは鼻を鳴らし、その隻眼をジャックへと巡らせた。
「私の手の者が既に街へ入り込んでいることにも気づかんとは、『梟』もヤキが回ったな。面白い連中が面白いことを始めたと聞き、自ら挨拶に来たというわけだ」
「手厳しい。引退した身ですので、耳も遠くなりました」
ジャックは涼しい顔で肩をすくめ、メリーへ向き直る。
「メリー様、ご安心を。辺境伯とは二十数年前の内乱で、共に泥水を啜った仲です。信用に値する相手でございます」
「……ふん。追放された令嬢に、翼の折れた梟。それに、アルベルト・アステリア第一王子か。随分と奇妙な取り合わせだな」
オルコットは口の端を歪め、楽しげに喉を鳴らした。
その視線がアルを射抜くが、アルは眉一つ動かさず、無言でその隻眼を見返した。
ただ背筋を伸ばし、顎を引き、視線を逸らさない。
「……まあいい」
オルコットは短く切り上げると、視線を扉の方へと投げた。
「入れ、リタ」
重厚な声に応じ、執務室の扉が開かれる。
入ってきたのは、仕立ての良い侍女服に身を包んだ少女だった。
だがその表情は暗く、栗色の髪を引っ詰め、怯えた小動物のように肩を震わせている。
「こいつを雇え。ウチの侍女どもは気性が荒くてな。新人いびりが目に余る。……こいつはレグスの生まれだ。街に母親と、まだ小さい弟妹がいる」
オルコットはバツが悪そうに視線を逸らし、頬の傷を指で掻いた。武の化身が、屋敷内の人間関係に頭を悩ませている。
メリーはその不釣り合いな悩みには同調せず、提示された条件のみを咀嚼した。
「茶を淹れる人間が欲しいと思っていたところです」
彼女は即断し、怯えるリタへと視線を向けた。
「採用です。ジャック、身元の精査と教育を」
「畏まりました。……昔から変わりませんな、辺境伯の拾い癖は」
ジャックが苦笑しながら手招きすると、リタは救われたような顔で深々と頭を下げ、逃げるようにジャックの背後へと隠れた。
オルコットは肩の荷が下りたように大きく息を吐くと、軋む椅子から腰を上げた。
巨体が立ち上がると、部屋の空気がまた一段と重くなる。
彼は無言で出口へと歩き出し──アルの前で、不意に足を止めた。
「……アルベルト・アステリア第一王子」
低い声で紡がれたその名は、確認ではなく、突きつけられる刃のようだった。
アルは無言で顎を引き、その呼びかけを受け止める。
オルコットの隻眼が、アルの腰に佩かれた装飾の施された美しい剣へと落ちる。
「貴君がその剣を持つという意味、よく考えてほしい」
それだけを呟き、オルコットは足音高く部屋を去っていった。




