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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第1部:野生の伯爵令嬢、野良王子を拾う
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第10話:黄金、腐った玉座、足は届かない

「――入れ。待ちかねたぞ」


 扉の向こうから響いたのは、重々しく、しかし隠しきれない脂ぎった欲望を含んだ男の声だった。


 メリーたちは足を踏み入れる。

 そこは、館の他の部屋とは一線を画す、腐臭と香水が混じり合った密室だった。

 壁を埋め尽くす宗教画、床を覆う最高級の獣の毛皮。そして部屋の中央には、不釣り合いなほど巨大な黄金の玉座が鎮座している。


 そこに深々と腰掛け、ワイングラスを揺らせている男こそが、この港町レグスを裏から支配するヴェーノの首領、ガウツであった。


 アルは、その圧倒的な「俗」の暴力に気圧され、入り口付近で足を止めた。

 進むべきか、下がるべきか。判断機能が凍結する。

 ただ呆然と立ち尽くすその背中に、コツン、と何かが当たった。メリーだ。

 彼女は進行ルートを塞ぐアルを、道端の障害物のように無言で押し退け、部屋の中央へと歩を進める。アルはよろめき、飾り台の花瓶に肘をぶつけて、カチリと情けない音を立てた。


「ボロフを殺ったそうだな。あの猪武者を正面から叩き潰すとは……。見かけによらん化け物だ」


 ガウツはグラスを置き、大仰に両手を広げてみせた。


「単刀直入に言おう。お前、俺の下につけ。ボロフの席が空いた。幹部の座と、この街の上がりの二割……いや、三割をやろう。子供のお小遣いにしては、一生遊んで暮らせる額だぞ?」


 彼の論理は明快だ。

 世の中に金で動かない人間はいない。暴力で敵わないなら、買えばいい。

 ガウツは机の引き出しを開け、鷲掴みにした金貨の山を無造作に積み上げた。ジャラジャラと擦れ合う金属音が、下卑た欲望の音色を奏でる。


「どうだ? 俺と組めば、この街のすべてが手に入る。暴力だけのガキが野垂れ死ぬか、賢く富を得るか。……答えは決まっているだろう?」


 確信に満ちたその提案。彼の中では、それが最大限の譲歩であり、断る理由のない慈悲なのだろう。


 だが、メリーの反応は彼の予想を裏切るものだった。

 彼女は積み上げられた金貨の山に、視線すら向けない。

 興味なさそうに部屋を見回し、窓からの採光を確認し、あろうことかガウツの座る玉座の材質を値踏みするように眺めている。


「……日当たりは悪くありませんわね。趣味が悪いですけれど、内装の総入れ替えをすれば使えそうですわ」


「……あ?」


「この椅子も、張り替えが必要ですわね。脂の臭いが染み付いていそうで、座るのが躊躇われますもの」


 メリーは淡々と事実を述べた。

 そこに侮蔑の感情はない。ただ、これから自身が使用する執務室を確認し、不備を洗い出しているに過ぎなかった。

 彼女にとってガウツは、立ち退き期限を過ぎた「前の住人」でしかない。


「き、貴様……! 俺の話を聞いているのか!」


 ガウツの顔から余裕が剥がれ落ちる。

 無視。それは彼のような権力亡者にとって、殺意よりも堪え難い屈辱だ。彼はバンと机を叩き、立ち上がった。


「調子に乗るなよガキが! 俺はこの街の王だぞ! 領主すら顎で使い、すべての富を握っている! その俺が下手に出てやれば……!」


 唾を飛ばして喚き散らす男。

 その騒音に、メリーは小さく溜息をついた。


「騒々しいですわね。……前の入居者がこれほど品がないと、部屋の『浄化』に手間取りますわ」


 彼女は冷ややかな瞳を、控えていたジャックへと向けた。

 言葉はない。

 ただ、わずかに顎をしゃくっただけ。

 ――『片付けなさい。汚さずに』


 その意図を、老執事は完璧に汲み取った。


「御意」


 短く応じた瞬間、ジャックの気配が消失した。

 風も起こさず、床を蹴る音もない。

 瞬きの間すら置き去りにして、老執事は既にガウツの背後へ転移していた。


 ガウツは気づかない。

 目の前のメリーを睨みつけ、次の罵倒を口にしようと息を吸い込んだ――その頂点で、動きが凍りつく。


 延髄を貫く一本の鋼針。

 脳からの信号が遮断され、怒りの表情を張り付かせたまま、肉体だけが物質へと還元される。


 膝から力が抜け、巨体が崩れ落ちる。


 ドサリ。


 鈍い音が絨毯に吸い込まれた。

 血は一滴も流れていない。

 主の命通り、部屋を汚すことなく、ただ生物としてのスイッチだけが切られていた。

 静寂。

 先ほどまでの怒号が嘘のように、部屋は死に絶えた。


「……手際が良いですわね」


 メリーは痙攣するガウツの体をまたぐと、空になった玉座の前へ歩み寄った。

 スカートの埃を払い、当然の権利であるかのように、その黄金の椅子へと腰を下ろす。


「……ん。座り心地は悪くありませんわ。少し、背もたれの角度が気になりますけれど」


 彼女は肘掛けに頬杖をつき、足を組もうとして――足が床に届かないことに気づき、ぶらぶらと揺らした。

 その姿は、あまりにも自然で。

 まるで最初から、この場所こそが彼女の席であったかのような風格を漂わせていた。


 ジャックは恭しく一礼し、主君の傍らに控える。

 ただ一人、アルだけが、その光景を前に言葉を失い、棒立ちになっていた。


     ──────


 たった半日。

 朝日が昇り、中天に掛かるまでの僅かな時間で、港町を支配していた巨大組織は壊滅し、その首がすげ変わった。

 それを成し遂げたのは、訓練された騎士団でも、物語に語られる勇者でもない。

 たった一人の少女と、その従者。


(本当に、やってのけたのか……?)


 アルの脳裏に、契約を交わしたあの夜の言葉が鮮烈に蘇る。

 『私があなたたちの存在を隠れ蓑にする代わりに、あなたたちは追っ手の目を逃れるための新しい身分と居場所を得る。合理的な取引ですわ』


 彼女は有言実行したのだ。

 最も効率的で、あまりに血生臭い方法で。

 アルは震える手で、目の前の現実を受け止めようとする。

 逃亡中の身としては、これ以上ないほど強固で、そして凶悪な「盾」が手に入った。だが、その事実は安堵よりも先に、胃の腑が冷えるような畏怖を彼にもたらしていた。


「……まずは、これでようやくスタート地点ですかな」


 ジャックが静かに呟いた。

 玉座の少女は、地図の端――遥か彼方の外海を見つめたまま、小さく頷いた。


「ええ。確かにスタート地点ではありますわ」


「……これだけのことをやってのけて、まだスタート地点だと?」


 思わず、アルの口から疑問が漏れた。

 敵のトップを殺し、この街の裏社会を掌握した。これ以上の成果がどこにあるというのか。

 だが、メリーは揺れる足先を見つめながら、冷ややかな声音で告げる。


「まだ、一歩も進んでおりませんわ。現状はマイナスですもの」


「マイナス……?」


「死に絶えた産業と流通の蘇生、飢えた住民への食糧確保、そして……この街を食い潰す領主との折衝。マイナスを埋め合わせ、人間が住める『ゼロ』の状態に戻す。……そこまでは単なる準備運動。これを『前進』と呼ぶのは傲慢よ、アル」


 彼女の視線は、部屋の壁に掛けられたレグスの地図、その一点を見据えていた。

 その瞳には、玉座を得た高揚など欠片もない。ただ、地図の上を視線だけが忙しなく走り、インクで描かれた廃れた街道と、沈黙した港湾区画を無言でなぞっていた。


 アルは何も言い返せなかった。

 彼女の見ている景色、その時間の尺度が、自分とは決定的に異なっていることだけを、痛感させられていた。


 港町レグスの闇は、新たな「管理者」を迎えた。

 血塗られた玉座。そこに座る少女の足は、まだ床に届いてすらいなかった。


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