放課後の影
放課後
チャイムが鳴り響くと同時に、教室全体がざわめきに包まれた。
椅子を引く音、鞄を閉じる音、友達同士の笑い声。いつもの放課後の風景がそこに広がっている。
俺も机の中から教科書を片付け、鞄の口を閉めようとしたそのとき――。
「今日、一緒に帰りませんか?」
ぱっと視界に飛び込んできたのは七瀬だった。
軽やかな声に、思わず顔を上げる。彼女の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
その目はほんの少しだけ揺れて、どこか期待を隠しきれない色を帯びていた。
「……え? ああ、いいけど」
一瞬返事に迷ってしまったのは、予想していなかったからだ。
けれど口に出してしまえば、それは自然な頷きになっていた。
その答えに、七瀬の表情がふわっと明るく変わる。
ぱっと咲いた花みたいに、嬉しさを隠さない笑顔。
その眩しさに、なぜだか胸の奥が軽くなっていくのを感じた。
「やった。じゃあ昇降口で待ってますね!」
弾む声を残して、七瀬はすぐに身を翻す。
髪がさらりと揺れ、窓から射す夕方の光を反射してきらめいた。
そのまま軽快な足取りで教室を出ていく後ろ姿が、目に焼き付く。
扉が閉まると同時に、残響のように胸の奥がじんわり温かくなる。
――ほんの少し前までは、こんなふうに人に誘われても、ここまで心が動くことはなかったはずなのに。
気づけば俺は、小さな余韻に浸っていた。
だがその瞬間。
――刺すような視線。
背中に冷たい感覚が走り、反射的に振り向いた。
そこにいたのは、沙夜だった。
机に置かれた両手は、白くなるほど強く握りしめられている。
指先はかすかに震え、解くこともできないように見えた。
わずかに吊り上がった眉。影を落としたような瞳。
無表情に近いはずのその顔から、隠しきれない感情がにじみ出ていた。
「……」
言葉は一つも発せられない。
けれどその沈黙こそが、胸に重く響いた。
まるで問いかけるように、あるいは責めるように――ただ見つめてくる。
どうしてだ?
なぜ、こんな目を向けてくるんだ。
沙夜は、俺に対していつも冷たかった。
必要以上に話しかけてくることもなく、どちらかといえば距離を置くような態度。
だからこそ、この視線の意味が分からない。
苛立ちなのか、呆れなのか、それとも……別の何か。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。
けれどその答えを掴む前に、その視線の重さに耐えきれなくなり、俺は思わず目を逸らす。
その瞬間、机の上でペンが転がる乾いた音がした。
けれど沙夜はそれを拾おうともしない。
ただ、両手を下に降ろしたまま固く握りしめ、動かない。
その指先の力の入り方だけが、妙に鮮明に頭に残った。
……俺、何かしたか?
七瀬に誘われただけだ。返事をしただけ。
それなのに、なぜこんなふうに見られるんだ。
分からない。まったく分からない。
答えが見えない不安と、居心地の悪さだけが胸に積もっていく。
だから俺は、それを振り払うように鞄を持ち直した。
昇降口で待っている七瀬の姿を思い浮かべる。
それだけで少し気が楽になり、呼吸も整う。
けれど。
背中には、沙夜の視線が貼り付いたままだった。
まるで離れようとしない影のように。
夕陽の差し込む教室の隅。
沙夜はひとり、
影を背負ったまま動かずに座り続けていた。




