第1話 氷の瞳に届かぬ思い
教室の窓から朝の光が差し込む。
白く柔らかい光が机の端を照らす中、紗夜はいつも通り静かにノートに向かっている。
黒髪のロングがさらりと肩に落ち、光を吸い込むように艶めいていた。
その髪の揺れや、紙にペンが触れる微かな音にさえ、俺の視線は自然と吸い寄せられる。
「おはよう」
小さく声をかける。
「……おはよう」
微笑むことも、目を細めることもなく、冷たく無機質な返事。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、視界が少し曇る。
小学校の頃の紗夜はまったく違った。
誰にでも優しく、笑顔を絶やさず、放課後には手をつないで帰ったり、一緒に遊具で遊んだりした。雨の日には傘を差し出してくれることもあった。
その優しさに触れるたび、心から安心して、嬉しくて、彼女のことを好きになるのに時間はかからなかった。
中学に入る頃まではその優しさは変わらず、俺は毎日が楽しかった。
放課後の校庭で遊んだ日のこと、夏祭りで浴衣を着て手をつないで歩いた日のこと、図書室でこっそり交換ノートを書き合った日のこと――今でも鮮明に思い出せる。
紗夜と一緒にいるだけで、心はいつも満たされていた。
しかし、高校に入ると、少しずつ距離ができ始めた。
視線は冷たくなり、会話は必要最低限。
それでも誰にでも優しい紗夜を見ていると、俺だけが置いてきぼりにされている気分になる。
「あの頃の紗夜はどこに行っちゃったんだ……」
胸に刺さる痛みとともに、問いかける声が心の奥で響く。
授業中、どうしても紗夜を見てしまう。
ノートに向かう手の動き、髪を耳にかける仕草、わずかに逸れる視線――それさえも胸に刺さる。
昔みたいに笑ってほしい、ただそれだけなのに。
口に出せば、ますます距離を感じるだけだと分かっている。
昼休み、友達と校庭を歩くときも、自然と視線は紗夜に向く。
クラスメイトに笑顔を向ける紗夜を見て胸が痛む。
笑顔なのに、俺には見せないその笑顔。
「なんで俺にだけ冷たいんだろう……」
問いかける声は、口には出せない小ささで、誰にも届かない。
帰り道、校庭を抜けながら思い出す。
小学校でこっそり渡してくれた交換ノート、雨の中で手を握ってくれた日の温もり、放課後に一緒に歩いた帰り道――どれも鮮明に蘇る。
でも、今はそれが幻のように感じられ、触れられるはずもない。
教室では誰にでも優しい紗夜。
昼休みに他のクラスメイトに笑いかけるときは柔らかい笑顔なのに、俺には見せない。
その差に、胸が張り裂けそうになる。
同じ空間にいるのに、どうしてこんなにも遠いのか――。
家に帰っても、今日一日の出来事は頭の中でぐるぐる回る。
紗夜の冷たい声、逸れた視線、無表情な顔。
そして、小学校や中学の頃の温もりと笑顔。
「どうして、こんなに変わっちゃったんだ……」
拳を握る。悔しい、悲しい、寂しい。
心の奥で小さな希望を握りしめようとするたび、思いが押しつぶされるような自己否定が襲ってくる。
かつてのように、紗夜の笑顔に胸をときめかせる自分は、少しずつ消えかけている。
その代わりに、劣等感や自己嫌悪が居座る。
「俺って……どうして、こんなに弱いんだろう……」
小学校の頃のように一緒に笑い合った記憶は、今では胸を締め付けるだけだ。
紗夜は誰にでも優しいのに、俺には優しくしてくれない。
それが俺の中で、劣等感という名の影を育てていく。
夜、ベッドに横になりながら考える。
「俺には価値がないのかもしれない」
愛されない自分、見てもらえない自分、ただそこにいるだけの存在――そんな気持ちが胸に重くのしかかる。
それでも、心の奥底に、かすかに残る残り火のような希望がある。
「……もう少しだけ、頑張ってみよう」
でも、それは以前の熱量を保つ力ではなく、消えかけの炎のように揺らいでいた。
冷たい瞳に向けて、名前を何度も呼ぶ。
届かなくてもいい、諦めきれない想い――だけど、その想いも少しずつ重さに押され、薄れていく。
紗夜は今日も冷たかった。
そして、俺の心には、かつての温もりと愛情が静かに、少しずつ消えかけ、代わりに劣等感が増していった……。




