表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/91

第91話 勇気を出して

 火曜日の午後、透子はエコバッグを手に、柚月のマンションへ向かっていた。


 エントランスの自動ドアを抜ける前に、視線は自然と掲示板へ。「不審者に注意」の貼り紙は、あの日と同じ場所に、同じテープの跡で止まっていた。


(……今日も、何事もありませんように)


 心の中だけで小さくうなずいてから、インターホンに指を伸ばす。


「はい、どーぞ!」


 いつも通りの、明るい声。


「春野です。本日もよろしくお願いいたします」


 エントランスのロックが外れ、軽い音とともに扉が開く。エレベーターに乗り込みながら、透子はふっと息を整え、美鈴の言葉を思い出す。


『ゆず、もっといっぱい話したいんだよ。本当は』


 映画の話。柚月が喜ぶはずだと、迷いなく断言した声。その言葉を思い出すたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる一方で、「仕事」の線がうっすらと揺らぐ感覚も、確かにそこにあった。


(境界線は、私が引く)


 それはもう決めたことだ。プロとしての距離を保ちつつ、小さな一歩だけを許す。そう自分に言い聞かせながら、エレベーターの到着音に合わせて顔を上げる。


 チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開く。


「春野さん、こんにちは!」


 目が合った瞬間、いつもの笑顔があふれる。変わらない出迎えに、透子は胸の奥がふっと緩むのを感じた。


「こんにちは。本日も、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくです!」


 スリッパに履き替えて中に入ると、まず目に入るのはリビングの様子だった。


 完全に片付いているわけではない。ソファの端には畳みかけのブランケットがあり、ローテーブルの端にはリモコンやペンがまとまって置かれている。それでも、床に物は落ちておらず、キッチンカウンターには使い終えたマグカップが一つ、きちんと揃えて伏せてあった。


(……意識して、片付けてくださっている)


 ほんの少しだけ、胸が熱くなる。整いきっていないことが気になるのではなく、「整えようとしている」気配が嬉しい。ここに通うようになってから少しずつ積み重ねてきた時間が、部屋の空気に反映されている気がした。


「それでは、先にご飯の用意を始めますね」


「はい、お願いします」


 エコバッグをキッチンに運び、エプロンを着ける。手を洗ってから、まな板と包丁を出す。


 とん、とん、とん。


 一定のリズムで刻まれる音が、部屋の空気に溶けていく。鍋やフライパンを並べ、調味料の瓶を手元に寄せる。


(まずは下ごしらえから……)


 そんなことを考えながら手を動かしていると、背後から、そわそわと揺れるような気配が近づいてきた。


「あの、春野さん」


 おずおずとした声に、手を止めずに顔だけを向ける。


「はい。どうされましたか?」


 カウンターの端から、柚月がそっと顔をのぞかせていた。手持ち無沙汰そうに指先をいじり、いつもよりほんの少しだけ視線が落ち着かない。


「えっと……春野さんって、映画とか、観たりしますか?」


 数日前、別の場所で聞いたのと、ほとんど同じ問いだった。


 胸の奥で、くすりと微笑が生まれる。けれど表情には出さず、透子は淡く笑みを添えた。


「たまに、ですね。原作を読んで面白かった作品は、映画館で観ることもあります」


 柚月の顔が、ぱっと少し明るくなる。


「この前、美鈴から聞いたんです。今やってる『国家の宝』って映画、原作を読んだことがあるって」


「はい。だいぶ前になりますが、読みました。面白かったですよ」


「そうなんですね……」


 言葉の端に、ほっとしたような色がにじむ。そのあとすぐに、また迷いが戻ってくるのが、表情の揺らぎでわかった。


 透子は鍋に水を張り、火にかける。ふつふつと小さな泡が立ち始めるのを横目で見ながら、包丁を置いて、手を軽く拭いた。


「いま、その映画が公開されてるじゃないですか」


「ええ。少し調べてみたのですが……かなり長い上映時間のようですね」


「そうなんですよね。そこが、ちょっと……」


 柚月はカウンターの端に両手を置き、視線を落とす。


「無理に観に行かなくても、配信などで観られるようになるのを待つという選択肢もありますよ」


 あくまで一般的な話として、透子は静かに言う。押しつけにも、誘いにもならない程度の距離感で。


「うーん……それもありなんですけど」


 柚月は、ぐっと唇を結んでから、小さく息を吸い込んだ。


「その……もし、なんですけど」


「はい」


「もし、春野さんのご予定と合うタイミングがあったら、なんですけど……」


 ことさらに「もし」を強調しながら、視線が少しだけ泳ぐ。


「お休みの日につき合わせちゃうのは、すごく申し訳ないなって思うんです。でも……それでも、一緒に観に行けたらいいなって……」


 遠慮と本音が、同じ文の中で何度もぶつかっているような言い方だった。


「い、一緒に、その……映画、観に行ってもらえたり、しますか?」


 最後の「しますか」が、ほんの少しだけ上ずる。


 柚月が、不安そうにこちらを見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ