第90話 揺れる境界線
日が傾きはじめた頃、透子はいつものように玄関で靴をそろえ、鍵を小さなトレイに置いた。整った部屋は、朝に出た時の姿のまま静かに待っている。
バッグを定位置に戻し、ケトルのスイッチを押す。小さなランプが灯り、やがて水の中に細かな泡が立ちはじめた。
(名取さんに言われたこと……)
湯が温度を上げるのと同じように、胸の内側も少しずつ熱を帯びる。美鈴は「ゆずが喜ぶ」とはっきり言った。嘘のない声だった。
推しと映画に行ける――言葉にしてしまえば簡単だけれど、胸の奥がふっと軽くなるほど嬉しい。頼られている実感もあって、長く続けてきた関係がきちんと育っているのだと、そっと確かめられる。
ただ、それは“仕事上の心地よい距離”での話だ。プライベートに踏み出す一歩は、似ているようで違う。
ケトルが控えめに「ピッ」と鳴る。マグに湯を注ぐと、紅茶の香りが静かに立ちのぼった。湯気を目で追いながら、透子はソファに腰を下ろす。
(私が誘うのは、きっと違う)
そこだけは、すぐに定まっていた。名取が「伝えておく」と言っていた。次に高山が話を振ってくれたら、その時、落ち着いて向き合えばいい。
(でも……本当に、大丈夫だろうか)
職業としての自分と、いち視聴者としての自分。配信の向こう側で灯る推しへの気持ちを、どこまで表に出していいのか。家事代行として出会い、信頼を積み上げてきた相手に、好きの熱で近づきすぎることは、たぶん一番してはいけない。
同時に、わかっていることもある。すべてを共有しないからこそ保てる信頼があるように、共有してもいい小さな時間が関係をやわらかくすることもある。
映画は、その小さな時間になりうるだろうか。館内は暗く、会話は多くない。上映前に軽く相談して、席は通路側。長尺なら途中で少し姿勢を変えやすいように。帰り道は人通りのあるルートを、そんなふうに、仕事の延長のように段取りを考えてしまう自分がおかしくて、透子は小さく笑った。
(喜んでもらえるなら、きっと嬉しい)
紅茶をひと口。温度が舌をなで、肩の力が少しほどける。もし誘われたら、まずは柚月の予定を最優先に。無理はしない。約束は短めに。きっとそれでいい。
ふと、昼間の会話がよみがえる。
『もっといっぱい話したいんだよ。本当は』
美鈴がそう言っていた。柚月が、仕事の邪魔をしたくなくてブレーキを踏んでいること。柚月が喜ぶと確信していること。長く隣にいた人だからわかるのだろう。
その言葉に背中を押されるのを、認めてしまえば、気持ちはすっと軽くなる。映画の内容も、原作のおもしろさも、話題に困ることはきっとない。けれど、いちばん話したいのはきっと映画そのものではなくて、同じ時間を共有したという事実のほうだ。
(境界線は、私が引く)
それは自分のためであり、相手のためでもある。心地よい距離のまま、一歩だけ近づく。戻りたい時に戻れる幅を残したまま。
カップを置くと、ほんのり色づいた液面が揺れた。部屋は静かで、時計の秒針が遠くで刻む音がする。
(次にお会いしたら、ちゃんと聞こう)
誘いの言葉が来たら、笑顔で受け止める準備をしておく。それだけ決めておけば充分だ。無理に答えを出しすぎないことも、きっと大事。
立ち上がってカップを流しに運ぶ。ケトルのランプはもう消えている。作業の手はいつも通り正確で、動きは静かだ。
寝室へ向かう前に部屋をひと巡りして、窓の鍵、ガスの元栓など、いつもの確認を終えると、透子は灯りをひとつ落とした。
(一緒に映画を観られたらすごく嬉しい)
思いが胸の中で小さく点灯し、消えずに残った。境界を傷つけないまま、少しだけ近づく方法を探しながら、透子は静かな夜へと身を溶かしていった。




