第9話 まだ言葉にならない頼みごと
三日後の午後一時。透子は再び、あのマンションの前に立っていた。
インターホンを鳴らすと、すぐにオートロックが解除され、前回と同じように、無言のままドアが開いた。
「こんにちは、春野です。本日はよろしくお願いいたします」
出迎えた柚月は、前回と同じ黒いマスクと大きな眼鏡姿。
「どうぞ」
声も、少しだけ滑らかになっていた。
部屋の中は、前回の作業のおかげで、人が生活できる最低限の空間を取り戻していた。床に散らばっていた物はほぼなくなり、家具の配置も少しだけ整っている。
「本日も春野がお掃除担当させていただきます。よろしくお願いいたします」
透子がそう言うと、柚月は小さな声で
「よろしくおねがいします」と返した。
今日の作業は、残りの物の仕分けと、水回りの清掃がメインだ。透子は手際よく準備を始め、柚月に今日の予定を説明する。
「本日は、こちらの残りの物の仕分けと、水回りの清掃を行います。何かご要望や、気になる点はございますか?」
柚月は少しだけ考え込み、「お風呂場のカビが、気になってて」と答えた。
「かしこまりました。重点的に清掃いたしますね。何か、特別な洗剤など、ご希望はございますか?」
「お任せします。できれば肌に優しい物で」
「承知いたしました。天然成分の洗剤を使用しますね」
透子は笑顔で答え、作業に取り掛かった。
柚月は、前回と同じように、リビングの隅で小さく丸くなっていた。しかし、今日は時折、透子の作業をちらりと見るようになった。
透子は、それに気づかないふりをしながら、丁寧に、そして確実に作業を進めていく。
物の仕分けは、前回よりもスムーズに進んだ。柚月も、少しずつ物の定位置を把握してきたようだ。
「これは、どうしましょうか?」
透子が手に取ったのは、大量のレシート。柚月は「それは、取っておいてください」と答えた。
「かしこまりました。こちらにまとめておきますね」
透子は、レシートの束を丁寧にまとめ、棚の上に置いた。
仕分けがひと段落し、水回りの清掃に取り掛かる。柚月に断ってから、バスルームとトイレへ向かう。
換気をしながら、丁寧にカビ取り剤を塗布していく。その間に、トイレの便器や床を磨き上げた。
バスルームに戻ると、カビがみるみるうちに落ちていく。透子は、丁寧にシャワーで洗い流し、最後に防カビ剤を散布した。
「終わりました。ご確認お願いします」
透子が声をかけると、柚月は少し驚いたように立ち上がり、バスルームへ向かった。
「すごい!すごく綺麗になりました!」
柚月の声は、今まで聞いた中で一番大きな声だった。透子は、少しだけ驚きながら答える。
「ありがとうございます。喜んでいただけて、嬉しいです」
透子が浴室から出ようとすると、柚月はその場に立ち尽くしたまま、ほんの少しだけ躊躇うような仕草を見せた。
「あの…」
か細い声。振り返った透子の視線を、柚月は見ようとしない。代わりに、バスルームの壁を見つめたまま、口を少し開きかけて――結局、言葉にはしなかった。
けれど、その視線の先にあるのは、浴室のドアの外に置かれた、洗濯機の前。蓋が半開きのまま、中には山積みの衣類が無造作に詰め込まれていた。




