第89話 映画
たい焼きの香りが落ち着いたキッチンで、透子は流しに並んだ皿を静かに洗っていた。スポンジを押すと、泡が小さく弾けて、蛇口の音に溶けていく。湯気がふわりと指先を包み、仕事の手はいつもの一定のリズムを刻む。
「ねえ、春野さんって映画とか見るんですか?」
背後から、椅子を引く小さな音。美鈴がカウンター越しに顎をのせ、こちらを見る。
「たまに、ですね。原作を読んで面白かったら、映画館に行くこともあります」
「そうなんですね。今話題になってる『国家の宝』って映画、知ってます?」
「はい。原作も読んだことがあります。面白かったですね」
美鈴の目が、少し嬉しそうに細くなる。
「実はね、その映画をゆずに誘われてて。でも私の趣味じゃないのと……すっごく長いらしくてさ。私、長時間じっと座ってるのがちょっと苦手で」
「映画をやっているのは知っていましたが、長いんですね。それは知りませんでした」
「で……もしよかったらなんだけど、春野さん、ゆずを一緒に連れてってあげたり、とか……」
透子の手が、泡の上で一瞬止まる。
「……え?」
「む、無理にはぜんっぜん言わないの!仕事でもないし、春野さんの貴重なお休み使うことになるし、興味なかったら即スルーしてほしいし!それに、ゆずには一言も言ってないから!完全に私の独断で、いま勝手に言ってるだけで、あの子は何も知らないから!」
言葉が転がるように速くなる。美鈴は両手を胸の前でぶんぶん振って、早口のまま息を継いだ。
「名取さん、落ち着いてください」
透子は笑みを含ませ、蛇口をひねって泡を流す。からん、と皿を立て、布巾で手を拭いた。
「ちょっとびっくりはしましたが……高山さん、私と行って楽しいでしょうか」
「絶対たのしい!断言できる」
美鈴は迷いなくうなずく。
「生贄にしようとかじゃないよ。私が行けないから押しつけるのでもなくて、ほんとに、ゆずが喜ぶって確信があるから言ってる。だって、あの子さ――」
そこで言葉を選ぶように、少しだけ声を落とす。
「ゆず、もっといっぱい話したいんだよ。本当は。『自分で呼んでおいて、仕事の邪魔しちゃうのは違うな』ってブレーキかけてるだけで。だから、お話したりお出かけしたりしたら、ぜったい嬉しいと思うの」
静かに、でも確かな熱を含んだ声音だった。
透子は視線を落として、布巾をていねいに絞る。(……仕事の時間ではない、か)
「時間が合って、高山さんが嫌じゃないなら。たまには、そういうのもいいかもしれませんね」
「ほんと?ほんとに?」
美鈴の顔がぱっと明るくなる。
「はい。もし上映時間が長いなら、開始の前に少し余裕をもって、席も通路側にするとか……」
「そういう配慮、ありがたい……!ゆず、ポップコーン買ってはしゃぐタイプだから、開始前の時間も楽しめると思う」
「可愛らしいですね」
「でしょ」
ふたりで、ふっと笑う。
透子は水切りラックの食器を整え、キッチン全体をひと目で見回した。濡れた天板を乾いた布で拭き上げると、輪郭だけがきゅっと締まる。
「重ねて言うけど、無理はしないでね」
「大丈夫ですよ。私も、少し気になっていましたから」
「よかった……。じゃあ、私からゆずに伝えておく。『映画の件、次に春野さんが来たときに相談してみな』って。春野さんは、そのとき話を聞いてあげて。無理のない範囲で」
「わかりました。では、そのときにお話を伺います。参考までに上映時間だけ少し調べておきますね」
「ありがとう。助かる」
美鈴はホッとしたように息を吐き、空になった湯呑を両手で包む。
「原作はおもしろかった?」
「はい。テンポがよくて、随所に伏線が張られていました。映画でも、その感じが活きていれば、長くても退屈はしないと思います」
「へえ、伏線……。ゆず、そういうの語りたがるだろうな」
「きっと」
言葉は短いが、思い浮かぶのは、あの弾む声と目の輝きだ。(高山さん、喜ぶでしょうか)
布巾を掛け、エプロンの紐を解く。部屋の空気はすでに午後の落ち着きを連れてきて、食器のガラスが静かに光っていた。
「それじゃ、今日はこのへんで失礼しますね」
「うん。気をつけて。……ありがとう、春野さん」
「こちらこそ、ありがとうございます」廊下に出ると、空調の微かな風が頬を撫でた。
(次の『会』の前に、ひとつ、たのしみな話題が増えた。)
歩調は変えず、心だけが少し先へと歩き出していた。




