第88話 お裾分け
キッチンから戻ってきた透子は、湯気の立つ皿をそっとテーブルに置いた。こんがりと色づいた表面から、香ばしい甘い匂いがふわりと広がる。
「デザートは、たい焼きです」
「たい焼き!うれしい」
美鈴の目が輝く。透子は微笑み、包み紙を解きながら続けた。
「昨日、高山さんにもお出ししたんですが、実家の近くのたい焼き屋さんのものなんです。たまに冷凍で送ってもらって、家で楽しんでいて。今日はそのお裾分けを」
「へえ、冷凍のたい焼きってあるんだ」
「はい。お店の人に頼んだら、冷凍で発送もできると教えていただいて。それから時々取り寄せています。冷たいままでもアイス感覚で食べられるんですが、今日は温かいほうで」
美鈴が身を乗り出す。透子は、温めの段取りを手短に説明した。
「レンジで中まで温めてから、トースターで軽く焼き直すと、外はパリッ、中はもちっと仕上がるんです」
「なるほど、プロのコツ……」
「そうですね。これは店員さんに教えてもらったので、プロのコツですね」
皿の上のたい焼きは、張りがあり、端から薄い焦げ目が美しく走っている。
「中は、つぶあんです。」
「大好き!じゃあ、いただきます」
美鈴は頭を持ち、そのままぱくりと齧った。薄い皮が小さく割れて、ほくほくのあんが顔を出す。
「……おいしい!え、これ冷凍だったの?全然わかんない」
「焼きたてだともっと美味しいんですけど、冷凍でも十分美味しいですよね」
「外がパリッとしてるのに、中がもっちり。あんこもしっとりしてて、甘さも上品。危ない、無限に食べられるやつだ」
「名取様は尻尾からなんですね」
「うん。尻尾、カリッとしてて好きなんだ。春野さんは?」
「私は頭からです。高山さんも、頭からでした」
「え、私だけ仲間外れか〜」
美鈴が大げさに肩を落とし、すぐに笑う。
「でも尻尾って、あんこ入ってなかったりするから、先に食べておきたいんだよね」
「なるほど。最後まで美味しくですね」
「そうそう」
ふたりはしばらく、たい焼きの食べ方談義に花を咲かせた。背びれから食べたり割ったり、最後にお腹を残したり。小さな話題が、思いのほか尽きない。
美鈴は湯呑のお茶でひと息つくと、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、春野さん」
「はい」
「私も、『様』じゃなくて『名取さん』にしてほしいな」
「……え?」
一瞬だけ戸惑いが滲んだが、美鈴はおどけて肩をすくめる。
「だって、ゆずは『高山さん』でしょ?私だけ『名取様』って、なんか距離ある感じするんだもん」
からかい半分の声色に、透子は小さく笑った。ほんのわずかに考える間を置いて、穏やかにうなずく。
「わかりました。では、名取さんとお呼びします」
「やった。改めてよろしくね、春野さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
言葉を交わすだけのことなのに、空気がわずかに近づいた気がする。
「このお店、教えてもらってもいい?」
「もちろん。今度、連絡先をお渡しします」
「うれしい。冷たいままでも食べられるって言ってたよね。暑い日に、絶対やる」
「おすすめです。暑い日に冷凍庫から出して少し置いたら食べられます」
湯気はもう見えないが、香りはまだ淡く漂っている。満たされた静けさの中で、ふたりの会話は自然と緩む。
「ごちそうさまでした。ほんとにおいしかった」
「お口に合って安心しました」
言葉少なに微笑み合い、透子は空いた皿を軽く重ねる。いつもと同じ時間、いつもと少し違う呼び方。小さな変化が、午後の光にやわらかく溶けていった。




