第87話 同じ話題、同じ言葉
翌日水曜日。透子は名取美鈴のマンションへ向かっていた。エントランスには特に張り紙も注意喚起も見当たらない。それでも昨日、柚月の住むマンションで見た「不審者に注意」の紙が頭を離れず、周囲に気を配りながら足を速める。
(何もないのが一番。でも、用心に越したことはありませんね)
インターホンを押すと、間髪入れず快活な声が返ってきた。
「はーい、どうぞー!」
「春野です。本日もよろしくお願いいたします」
通された室内は、いつも通り整って清潔。ゴミは袋にまとめられ、テーブルの上にも余計なものは出ていない。
「今日は和食を、ご用意いたします」
メニューは、焼き鮭、だし巻き、そして豆腐とわかめの味噌汁。キッチンに立つと、手は自然に動き出す。出汁の湯気がゆらぎ、鰹と昆布の香りがふわりと広がった。
鍋に味噌を溶き入れようとしたそのとき、リビングから美鈴のやってきた。
「ねえ春野さん、味噌汁って煮立たせる派?煮立たせない派?」
瞬間、透子の口元にくすっと笑いがこぼれた。
「え、なに、いきなり笑われた?私、変なこと言った?」
「いえ、すみません。昨日まったく同じ話題が出まして」
「え、ゆず?」
「はい。SNSで話題になっていると教えてもらって。私はいつも通り煮立たせず作ります、と答えました」
「なるほどね〜。あの子、SNSずっとチェックしてるからなあ」
「そうなんですね」
「って、人のこと言えないけど。私も暇さえあればスマホ見ちゃうの。気づくと手にスマホが」
二人で小さく笑い合う。透子は味噌を溶き、火加減を落として香りをふくらませた。
だし巻きを巻き終え、焼き網の鮭を返し、配膳を整える。美鈴がテーブルにつくと、手を合わせた。
「いただきます!」
まずは味噌汁をひと口。美鈴の頬がふっと緩む。
「うん。これ、これ」
「お口に合って何よりです」
だし巻きに箸を伸ばしながら、美鈴が続ける。
「煮立たせ論争さ、どっちでも良いって言ったら怒られるかな。私は春野さんのが正解でいいや」
「作り手が迷わなければ、食べ手も迷いませんからね」
「名言出た」
軽口が行き来するうちに、皿の上はみるみるうちに色が減っていく。鮭の皮を最後まで香ばしく味わい、湯気の落ち着いた味噌汁をすすった美鈴が、ふと顔を上げた。
「春野さんが作ってくれたら、なんでも美味しいですよね」
その一言に、透子は思わず目を瞬かせる。昨日、高山の口から聞いたのと同じ言い回し。
(同じ言葉。でも、どちらも本気の声)
込み上げる嬉しさを胸の奥でそっと受け止め、控えめに微笑んだ。
「ありがとうございます。励みになります」
「え、なんで今ちょっと笑ってた?」
「昨日も全く同じ言葉を、いただいたものですから」
「うわ、シンクロしてる。よく話してるから思考まで似てくるのかな」
「嬉しい言葉がシンクロするのは、私はうれしいです」
美鈴は「ごちそうさま」と小さく呟いて、箸をそっと箸置きに戻した。
「本日は、デザートもご用意があるのですが、まだ召し上がれますか?もしお腹がいっぱいでしたら、あとでゆっくりでも大丈夫です」
「食べる!」
即答に、透子は思わず目を細める。
「承知しました。では、持ってきますね」
そう言ってエプロンの裾を整え、静かにキッチンへ向かった。




