第86話 バレンタイン改め
チョコレートのたい焼きとチョコミントアイスを平らげ、テーブルに残ったのは空になった皿と、うっすら曇ったスプーンだけだった。熱と冷たさが順番に通り過ぎたリビングには、まだ甘やかな余韻が漂っている。
「ごちそうさまでした。では、そろそろ仕事に戻りますね」
透子が立ち上がり、エプロンの紐をきゅっと結び直す。
「春野さん、次のお題なんですけど……」
「はい?」
「チョコレート、いろいろ食べましたよね。どれも美味しかったけど、そろそろ違うのも食べたいなって」
透子は一度時計に視線を落としてから、振り返る。
「そうですね。高山さんは、何かありますか?」
柚月はソファの背にもたれ、いたずらっぽく笑う。
「最近、プリンにハマってて」
「プリンですか」
「うん。コンビニのも専門店のも、いろいろ食べ比べてる最中なんです。とろとろのとか、固めの焼きプリンとか、カラメルが苦いのとか。で、よかったら春野さんのおすすめ、食べたいなって」
お願いの響きがほんの少しだけ乗った声。透子は一拍、言葉を選ぶ。
「プリンは、実はあまり食べないのですが……ひとつだけ、あります」
「あるんだ!」
「はい。以前いただいて、とても美味しかったものがあるので、それにします」
「やった。じゃあ次はプリン会でお願いします」
『会』という言い方に、ふたりで小さく笑う。
「春野さんのは、固めですか?なめらかめですか?」
「それは来週のお楽しみですね」
「えー、気になる」
身を乗り出す柚月に、透子は「内緒です」とだけ言って、代わりに雑巾を手に取った。
キッチンへ移動し、ペットボトルのラベル剥がしとキャップ外しに手を伸ばす。最近は柚月がそこまでやってくれる日も増えた。今日も、半分ほどはすでに仕分けが終わっている。
(少しずつ、習慣になってきていますね)
リビングに戻って床の拭き上げをしていると、窓際のレースカーテンの裾がうっすらと汚れているのに気づいた。午後の光で、思った以上に目立つ。
「高山さん、カーテンに少し汚れがありますね。次回、外してお洗濯しましょうか?」
「ほんとだ!お願いします」
「かしこまりました。天気が良い日に洗いましょう」
段取りを伝えつつ、掃除の残りも手早く終わらせる。ゴミ袋の口を結び、道具を片づけ、室内をひと巡り。視線の届くところに散らかりはない。
荷物を持って玄関へ向かうと、柚月が玄関マットの端でくるりと振り向いた。
「張り紙の件もあるので、気をつけて帰ってくださいね」
「はい。明るいうちに移動します」
靴を履き、軽く会釈をしてドアを閉める。エントランスへ向かう廊下は、午後の光が斜めに差していた。透子は歩きながら、来週のことを考える。
(ひとつだけ、あのプリンは、きっと気に入ってもらえる)
働き始めた頃、職場への差し入れでもらった瓶詰めのプリン。種類が豊富で、誰がどれを食べるか、皆でじゃんけんをした。
(高山さんには、どの味を持っていこうかな)
駅へ向かう足取りは自然と軽くなる。
(次は、ぷりん会)
毎週バレンタインは静かに衣替えをして、次の甘さへとバトンを渡すのだった。




