第74話 偶然
金曜日、午後の移動中。 透子は会社から次の訪問先へと向かうべく、最寄り駅の改札を抜けた。すると――
「春野さん?」
背後からかかった声に振り返ると、そこには私服姿の柚月が立っていた。髪はいつもよりふんわりとセットされ、ほんのりとしたメイクが施されている。ふだんの部屋着姿とはまるで印象が違った。
「え? 高山さん……偶然ですね」
思わず声が漏れる。家の中では見ることのない外出仕様の姿に、少し見とれてしまった。
「そうですね。お仕事中ですか?」
「はい、訪問先への移動中なんです」
透子はカバンのベルトを軽く持ち上げて見せた。
「高山さんは、お出かけですか?」
「うん、美鈴とカラオケに行ってて」
その名前を聞いた直後、ちょうどタイミングを見計らったように美鈴が現れる。
「あれ? 春野さん?」
「今ちょうど会って。カラオケに行ってたって話をしてたところ」
「へえー、なんか家以外で会うと新鮮ですね」
透子が微笑むと、美鈴がニヤリと笑いながら続ける。
「家じゃ、いつもメイクしてないだろうし、最初ゆずのこと、わからなかったんじゃないですか?」
「えー、それ言うなら美鈴だって一緒でしょ?」
柚月がすぐさま言い返し、美鈴が肩をすくめた。
「まあ、たしかにお互い様かもね。今日は一応、外に出るからそれなりに整えてきたけど」
「お二人ともお綺麗ですよ。普段はノーメイクでも、今と印象が大きく変わるほどではありません」
透子の言葉に、柚月が少し照れながら口を尖らせる。
「せっかくメイクしたのに、あまり変わらないってのもなぁ……」
美鈴がくすくすと笑いながら柚月の肩を軽く叩く。
「せっかく褒めてくれてるんだから、すねるなすねるな」
「すねてませんっ」
柚月は口をとがらせて抗議するが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「でもなんか、こうやって街中で会うのってちょっと不思議ですね」
透子がぽつりと呟くと、美鈴がうんうんと頷く。
「家でしか会った事なかったもんね。春野さんはいつも通りだけど」
「外で見ても、仕事できますって感じ」
柚月が笑うと、三人でくすっと笑い合った。
「……あ、そろそろ電車が来る頃なので、私はこれで」
透子が腕時計をちらりと確認して言うと、二人はそろってうなずく。
「はい、お仕事頑張ってください」
「また訪問のときに!」
「はい、ではまた」
手を軽く振りながら透子はホームへ向かう。背後では、柚月が「カラオケ二軒目行こっか」なんて言いながら、美鈴と笑い合っていた。
人の波の中、透子の胸の奥にほんのりとした温かさが広がっていた。
偶然出会っただけ。それだけのことが、なんだか一日を少しだけ特別なものにしてくれた気がした。




