第4話 決意と震える指
高山柚月(Vtuber朝比奈柚葉)視点
配信を終えた部屋には、いつも通りの静けさが戻ってきた。
けれどその静けさが、今日はやけに重たく感じる。
モニターの電源を落とし、椅子にもたれながら柚月は小さくつぶやいた。普段は“朝比奈柚葉”として配信している彼女も、配信が終わればただの人見知りな一人暮らしの女性だ。
「……マジで、やばいなこれ」
配信では笑い混じりに“汚部屋”をネタにしていたけど、現実はネタにできるような可愛げすらなくなっていた。足元には脱いだままの靴下とTシャツ、いつ開けたかも覚えていないコンビニ弁当の容器。そしてペットボトル……なぜか3本、倒れている。
「生活って、こんなに……崩れるもの?」
問いかけに返事をする者は、もちろんいない。
この部屋には、自分しかいないのだから。
ソファーの端に積まれた洗濯物は、もはや“積み重ね”ではなく“崩れかけ”に分類されそうだった。ルンバも、どこかで充電切れを起こしてから見かけていない。たぶん、ベッドの下にでも潜っている。
柚月はスマホを手に取り、もう何度目かになる検索を開いた。
「『家事代行』、っと」
出てくるのは、見慣れた検索結果ばかり。これまでにも何度か、勢いで見ては閉じていた。でも今日は、ほんの少し、画面をじっくりと見つめていた。
スクロールを進めると、ひとつのサイトが目に留まる。
『クリーン・コンフォート』――女性スタッフ指定可能、プライバシー配慮、守秘義務の徹底。
「ふーん、シンプルでよさそう」
デザインは落ち着いていて、派手すぎない。売り込み感もなく、控えめに「静かな対応」や「人見知りの方にも安心」といった文言が書かれていた。
「レビュー」
気になる点を開いていく。
「“話しかけられずに済んで助かった”“こちらのペースに合わせてくれた”“静かに作業してくれた”……」
ひとつひとつ読みながら、柚月は画面に目を凝らす。
もちろん、不安がないわけじゃない。むしろ山ほどある。
人見知りなのに他人を家に呼ぶ? それも知らない人? 会話とか、絶対にうまくできる気がしないし――なにより、声。
「朝比奈柚葉」の声として知られている、それが柚月にとって最大のリスクだった。もし、相手に気づかれたら? ファンだったら? 情報がどこかに漏れたら? 考えれば考えるほど、胃が締めつけられる。
「……いやいや、考えすぎでしょ。そんな簡単にバレるもんじゃないって」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。
でも、心のどこかで「絶対」はないことも、よくわかっていた。
けれど、それでも――この部屋の状態をどうにかしたい、という思いのほうが、今日は少しだけ勝っていた。
「一回、フォームだけ見てみようかな」
サイトの依頼フォームを開く。項目は思ったより多くない。
名前、住所、連絡先、希望日時、希望作業内容。そして「ご要望」欄。
「……部屋の間取り、希望日時……」
少しずつ埋まっていくフォームに、現実味が増してくる。最後に「ご要望」欄の入力で、また手が止まる。
何度も消して、打ち直して、悩んだ末に、こう書いた。
「女性スタッフ希望です。また、個人的な事情で、作業中の会話は最小限にしていただけると助かります。後、かなり部屋が散らかっています。よろしくお願いします」
必要最低限、でも丁寧に。失礼のないように。できる限りの誠意を込めたつもりだった。
「……よし」
送信ボタンを見つめる。いま押せば、もう後戻りできない。
(……でも、もう……これ以上、自分だけじゃ、無理だから)
そっと、指を重ねる。
――ぽち。
「送信完了」の文字が、画面に浮かんだ。
まだ、緊張は解けない。でも、それと同じくらい、どこか胸の奥が軽くなっていた。送信しただけなのに、ちょっと呼吸がしやすい気すらした。
ソファーに身体を預け、柚月は改めて部屋を見渡す。
山のような洗濯物、謎の空箱、居場所を失ったクッションたち。見慣れていたはずの風景が、今日だけは「変えられるかもしれないもの」に見えた。
「少しは、人間らしい生活に戻れるかな」
そんな希望をこぼした瞬間、またひとつ、胸の奥が温かくなった。
……いや、まだ当日まで不安のほうが多いんだけど。
顔合わせ……どうしよう、喋らなくていいかな、目とか合わせないで済むかな……。
柚月は再びクッションに顔を埋めた。
「はー……胃が痛い……」
でも、布団の中に逃げ込むその動作は、少しだけ軽やかだった。