第33話 新しい日常
水曜日の昼。透子は、肩にクーラーバッグを下げて静かに歩いていた。
今日は、名取美鈴の家に初めて訪問する日。
柚月に言われたとおり、昼食用にカレーの材料をそろえた。隠し味のチョコレートも忘れずに持っている。
目指すマンションは、柚月の住むマンションから徒歩で数分。角を曲がれば見えなくなるが、それでもすぐ近くにあった。
(同じエリアに住んでるんだ……)
建物は、柚月のマンションと同じくらい高級感があり、オートロック付きのエントランス。
呼び出し番号を押し、インターホンを鳴らす。
「はーい!」
元気な声が返ってきて、透子が名乗るとすぐにロックが解除された。
エレベーターで指定の階まで上がり、もう一度チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
現れたのは、明るくて人懐っこそうな女性だった。肩までの髪をラフにまとめ、ゆるめのシャツにリラックスしたパンツスタイル。初対面にもかかわらず、すっと笑顔を見せてくれる人だった。
「こんにちは。名取美鈴さんですね。本日担当させていただきます、春野透子です」
「うわあ、ちゃんと来てくれた! よろしくお願いします!」
明るい調子でそう言いながら、美鈴は中へ案内してくれた。
室内は清潔感があり、床には物が散らばっていない。テーブルの上に多少の書類や雑誌が置かれている程度で、整頓された印象を受ける。
(生活感はあるけど、ちゃんと片づいてる……)
透子はそんな第一印象を心に留めながら、キッチンの位置や作業スペースを確認する。
まずは依頼内容の確認。
「本日はお昼のご飯と、作り置きを数品。そのあと時間内で掃除という流れでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします。たぶんそんなにやることないとは思うんですけど、料理がメインで掃除し足りない所とか、普段しない所をお願いします」
「かしこまりました。では、まずは昼食から始めさせていただきますね」
キッチンは広めで、作業スペースにも余裕がある。
調味料の棚には醤油やみりん、酢、オイスターソースなど一通りが揃っており、調理器具もよく使われている形跡があった。
(料理も掃除も、ある程度きちんとこなしてる人なんだ)
そう思いながら、エプロンを整え、カレーの準備に入る。
「高山様からのご依頼があり、本日はカレーを作らせていただきます」
そう言った瞬間、美鈴の表情がぱっと明るくなる。
「あっ、もしかして! 隠し味にチョコレート入ってるやつ?」
「はい。ご本人から、ぜひと仰せつかりましたので」
「うわあ、あの話ほんとだったんだ……めっちゃ楽しみにしてました!」
美鈴は弾む声でそう言い、キッチンの近くの椅子に腰を下ろして、うれしそうに透子の手元を見つめた。
「ゆずがね、春野さんのことめっちゃ褒めてたんですよ。料理おいしくて、動きに無駄がなくて、プロって感じだって」
「そう言っていただけるなんて、嬉しいです」
透子は少しだけ恥ずかしそうに笑いながらも、手元の作業は止めない。
「あまりにも自慢されるから私もお願いしちゃいました」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
「でもほんと、安心して任せられるって言ってたから、わたしもすごく楽しみにしてました」
「楽しみにしていてくださいね。精一杯、美味しく仕上げます」
透子はその視線を背中に感じながら、落ち着いた手つきで玉ねぎを刻み、にんじんとじゃがいもを炒めはじめた。
手元に集中しながらも、美鈴との気さくなやり取りや、柚月の言葉が自然に思い出される。
人と人がつながっていく感覚——それが少し心地よくて、くすぐったくて。
今日は、良い一日になりそうだと、透子はふっと微笑んだ。




