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第32話 ふたりをつなぐカレーの香り

 火曜日、いつもの時間、いつもの道。


 透子は肩に食材の入ったバッグを下げ、穏やかな気持ちで高山柚月の部屋へと向かっていた。


 マンションのエントランスをくぐり、エレベーターで上階へ。インターホン越しの「どうぞ」の一言にも、もう動じることはなかった。


 扉が開き、静かに微笑む柚月の顔が出迎える。


「こんにちは。本日もよろしくお願いします」


「こんにちは」


 丁寧に靴を脱ぎ、荷物を所定の位置に置くと、透子はエプロンを着けて準備に取りかかった。


 キッチンに立ちながら、軽く話を切り出す。


「そういえば先日、お話いただいていた件ですが——名取様より、会社へ正式な依頼をいただきました」


 その言葉に、柚月が瞬きをした。


「……名取さん?」


 少し首をかしげる様子を見て、透子は「あ」と軽く口元に手を添えた。


「名取美鈴様、ご友人の方ですよね」


「あっ、美鈴か。よかった、ちゃんと頼めたんですね」


 安堵したように微笑む柚月に、透子も頷く。


「はい。お昼の調理と作り置き、簡単な掃除のご依頼をいただいております」


「そうだったんですね……よかった」


 それからは、いつも通りの作業が始まった。


 冷蔵庫の確認、食材の整理、食事の調理と同時進行で掃除の段取りも立てていく。透子の動きは一つ一つ無駄がなく、丁寧で、それでいて速やかだった。


 床の拭き掃除に取りかかっていたとき、柚月がスマートフォンを手に何かを打ち込み始めるのが見えた。指先が軽やかに動き、数分後、再び画面を確認した彼女が透子に声をかけた。


「明日行くんですね」


 その言葉に、透子は一瞬だけ手を止めたが、すぐに微笑みを浮かべて頷いた。


「はい、明日伺います。……本当はこういうこと、あまり言っちゃいけないんですけど、ご本人から聞いたなら大丈夫ですね」


「えっと、もし可能ならお願いしたいことがあって」


「はい。なんでしょうか?」


 柚月は少しだけ笑みを浮かべて言った。


「カレー、作ってあげてほしいんです」


 透子は少しだけ驚いたように瞬き、すぐに柔らかく頷いた。


「カレー、ですか?」


「はい。カレーがすごくおいしかったって自慢しちゃったのでよかったら食べさせてあげたいなって。あ、でももちろん、無理はしなくて大丈夫なので」


「いえ、お昼のご希望はまだ伺っていなかったので、逆にありがたいです。ご友人のご希望でしたら、尊重したいと思います」


「よかった……ありがとう」


 それだけの短いやりとりだったが、透子の中でふっと心があたたかくなった。


 この部屋で、こうして静かに繋がる“信頼の連鎖”が、誰かの日常を確かに変えようとしているのを感じた。


 その後も透子は、変わらずに仕事を続けた。水回りの掃除、ゴミ出し、洗濯物の確認——一つひとつの作業を丁寧に、誠実にこなす。


 すべてを終え、荷物をまとめて玄関へ向かうと、柚月が見送りに立っていた。


「今日もありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました。明日は美鈴のこと、よろしくお願いします」


「——かしこまりました」


 ドアが閉まる直前、ほんの一瞬だけ、透子は微笑みながら小さく頭を下げた。


 その背筋はまっすぐで、どこか誇らしげだった。

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