第18話 カレーの湯気に、ほどける言葉
週が明けた火曜日、午後一時。透子は、保存容器と数種類のスパイスを入れた保冷バッグを肩にかけ、いつものマンションの前に立っていた。
インターホンを押すと、いつもよりはっきりとした声で「はい」と返事があり、オートロックが開く。
前回の作り置きが好評だったため、今回はその継続としてカレーを準備した。お昼に食べてもらい、残りは冷凍保存できる。多めに作っておけば数日は持つし、温めるだけなので柚月でも出来るだろう。
玄関を開けた柚月は、マスクをしていなかった。眼鏡はかけていたが、素顔の一部が見えることに透子は少し驚いた。
(ご飯を食べるのに外すから、最初から外してるのかも。……少し、心を許してくれたのかな)
透子がバッグを軽く持ち上げて見せると、柚月の視線がそちらに移る。
「今日のお昼はカレーをお作りします。前回の作り置きに加えて、保存しやすい一品としてご提案させていただきました」
「はい。楽しみにしてました」
柚月の声は相変わらず小さいが、確かにそう言った。
透子はキッチンへ向かい、食材と調理器具を手早く整える。鍋やまな板は新しいままで、コンロ周辺もきれいなままだった。
「では、下ごしらえから始めますね。今日は牛肉と玉ねぎ、人参とじゃがいものカレーです。食べやすく、優しい味になるように工夫します」
そう言って透子が包丁を手にした頃には、柚月はいつの間にかソファーから立ち上がり、キッチンの入り口近くまで来ていた。調理台の中身を覗き込むようにして、視線を注いでいる。
透子は内心で驚きながらも、表情には出さずに玉ねぎの皮を剥く。柚月は何も言わず、ただ目を丸くしながら、その手元をじっと見つめていた。
玉ねぎを刻み始めると、淡い香りとともに、バターの風味がフライパンから立ち上っていく。ふと横を見ると、柚月がほんの少しだけ身を乗り出して、切る音に耳を澄ませている。
その様子に、透子の胸の奥がふわりと温かくなる。緊張ではなく、純粋な興味。彼女がこちらに一歩踏み出してくれたのだと、確かに感じられた。
透子は言葉を発さず、手元に集中しながら、そっと笑みを浮かべた。
「ちなみに……今日のカレー、最後に隠し味を入れます」
「隠し味?」
「はい。板チョコを少しだけ。甘さではなく、コクが出るんです」
「……チョコレート?」
驚いたような声に、透子は小さく笑った。
「ほんのひとかけらです。煮込んでいる間に溶けて、味に深みが出ますよ」
「食べてみたいです」
それだけで、透子の胸の中にふわりと温かいものが広がる。
煮込みに入り、しばらく部屋にカレーの香りが満ちていく。
「ごはんは炊きたてでなくても美味しいので、冷凍保存しておけばいつでも食べられます。よければ小分けにしておきますね」
「ありがとうございます」
少しずつ、しかし確実に、言葉の往復が増えていく。
出来上がったカレーを器に盛り、サラダとヨーグルトを添えてテーブルに並べる。
「それでは、よろしければお召し上がりください」
柚月はしばらく湯気を見つめていたが、やがて静かにスプーンを手に取った。ひとくち、口に運ぶ。
「美味しいです」
「よかったです」
「ほんとに、チョコ入ってるんですか?」
「入ってます。こっそりと」
小さく笑う柚月。その頬が、少しだけゆるんでいた。
「次回は、和風のおかずも入れてみましょうか。きんぴらや煮物など。バランスを考えて、ご提案いたします」
「お願いします」
言葉の選び方はまだぎこちない。でも、その奥にある気持ちははっきり伝わってくる。
透子はゆっくりと頷いた。
「もちろんです。お任せください」




