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商業作品(書籍化・コミカライズ)

【コミカライズ】捨てられましたが、三度の飯より旦那様が好きです。

作者: 曽根原ツタ

 

 ある日突然、屋敷を訪れた婚約者バニスターに告げられた。


「マヌエラ。婚約破棄してほしい。もうお前のせいで恥をかかされるのは懲り懲りだ」

「ん……はい。分かりましたもぐもぐ」


 屋敷の客間にて。

 婚約破棄を突きつけられてもなお、彼女のフォークを動かす手は止まらない。慣れた手つきでスポンジケーキにフォークを差し、口に運ぶ。そして、幸せそうに目を細めて頬に手を添えた。


 テーブルの上に並んだお菓子を食べ続ける彼女は、マヌエラ。

 侯爵家の令嬢で、身分こそ非の打ち所はないのだが、いかんせん食べることが大好きだった。

 食べること以外には関心がないと言ってもいいほどで、朝起きた瞬間に食べ、昼食の前に一応食べ、昼食の後にも念の為食べ、のべつまくなし食べ続ける。

 彼女の場合、腹が減っては戦ができぬ……ではなく、腹がいっぱいで戦ができぬ、ということになりかねない。


 その食生活のせいで、マヌエラは年を重ねるごとに身長ではなく横幅が大きくなっていき、自他ともに認める大型(ぽっちゃり)令嬢となったのである。

 侯爵家のひとり娘として、蝶よ花よと甘やかされて育ったため、健康のために痩せた方がいいと諭されることもなく、ただただ美味しいものを与えられ続けた。


「お前と並んで歩く度に、俺がどんな気持ちになるか分かるか? 白い目を向けられ、俺まで馬鹿にされた気になるんだ」

「まぁまぁ……それはお気の毒に」


 他人事のように返すマヌエラ。

 クリームで口元を汚した彼女に、バニスターがほとほと呆れた様子で言う。


「お前は健康のために、もう少し、いやもっと、食生活に気を遣った方がいい。俺は妻には健康でいて長生きしてほしいんだ」

「そうですか。ではやはり、わたくしとは価値観が合いませんね。わたくし、自らに制約を課し、我慢してまで健康を維持して長生きするより――」


 体型について、社交界で誹謗中傷されることはしばしば。人前を歩けばひそひそと噂話され、嘲笑と好奇の目で見られることも。

 けれども、マヌエラが最も大切にしたいのは食べることが好きだという自分の気持ちだった。


 バニスターは幼いころから婚約が決まっていたが、小さいころからふっくらしていたマヌエラの体型のことをずっと小馬鹿にしてきた。

 彼にもっと痩せろ、お前は醜い、本当は痩せていて綺麗な女と婚約したかった、などと高圧的に怒鳴られるのが、正直ずっと煩わしかった。

 彼が時折美しい令嬢のことを目で追ったり口説いたりしていても怒らなかったのだから、マヌエラが美味しいものを食べることくらいは認めてほしかった。


 マヌエラはフォークを置き、ナプキンで口元を拭っておっとりと微笑む。


「好きなものを好きなときに好きなだけ食べて早死にする方がいいですもの。お互い、後悔のない人生を生きて参りましょう? バニスター様」

「…………」


 その食への執着心に、彼は呆れを通り越して、感心さえするのだった。



 ◇◇◇



(ああ……なんていい匂い。これぞ幸せ……!)


 マヌエラは食べることが大好きだ。

 主に専属のシェフやパティシエが彼女の好みに合わせて腕を振るうのだが、時々、自分自身も厨房に立つことがある。

 普段はおっとりしているが、食に関する意識だけは無駄に高いマヌエラは、プロさえ舌を巻くほどの料理の腕前を持つ。


 今日も厨房に立ち、完成した料理を見下ろしながら満足気にふん、と鼻を鳴らす。

 厨房の台には、美味しそうなパンやら肉料理やらが所狭しと並ぶ。

 マヌエラは食べることの幸せを共有するために、自分の分だけではなく、家族、使用人、その家族の分さえ食事を作る。

 侯爵家の者たちも、マヌエラの絶品料理をいつも楽しみにしており、文字通り太っ腹で優しい彼女を慕っていた。


(これぞ、完璧な味付け。舌に伝わる胡椒の辛味とトマトの酸味が絶妙ですわ。これはきっと、皆さまもお喜びになるはずです……!)


 スープをひと口味見して、口角を上げる。

 せっせとスープを皿に盛り付けていると、侍女のひとりが厨房に駆け込んで来た。


「大変です! お嬢様!」

「どうしたのベティ……? はっ。まさか、角のパン屋さんがとうとう潰れてしまった……!?」


 マヌエラにはお気に入りのパン屋がある。店に行かずとも屋敷にはシェフがいるのでいつでも焼き立てが食べられるのだが、街角で老婦人がひっそりと営んでいるパン屋が大好きだった。

 特に、あの店の甘いクイニーアマンは絶品だ。サクサクした食感とふんだんに使われたバターの風味がたまらない。


 パンを焼いたばかりなのに、パン屋に行きたくなってしまった。

 角のパン屋のクイニーアマンを食べる妄想をしていると、侍女の言葉で意識を現実に引き戻される。


「そうではありません! お嬢様に縁談が来たんですよ! それも――リクス公爵家のシルヴァン様との」

「ではあのパン屋さんはまだ続いているのですわね。安心いたしました」

「安心なさってる場合ですか! あの社交界で有名なリクス公爵様ですよ!?」

「そちらはお断りするつもりですわ」

「ええっ!?」


 リクス公爵家は、王家の分家で、この国の中でも随一の勢力を誇る上位貴族。そして現当主の名前が、シルヴァンだった。

 22歳で若くして公爵位を継ぎ、現在は25歳。マヌエラは18歳なので7歳の差がある。


 有能で領民からは慕われ、まだ未婚ということもあり、多くの令嬢たちが彼の妻の座を狙っている。

 そんな彼が、大型令嬢のマヌエラに何の前触れもなくなぜか縁談を申し込んだのだから、侍女が驚くのも無理のない話である。


「お腹が満たされないお話ならまた今度にいたしましょう。食事が冷めてしまいますので」

「お嬢様、公爵様に少しの興味もないのですか……!?」


 マヌエラは皿の上に載ったピーナツを指で摘み上げ、「このくらいでしょうか」と関心の大きさを表現する。


「わたくしが食べ物以外に関心がないということは、あなたもよく知っているでしょう?」

「…………」


 優美に微笑むマヌエラに、侍女は呆れて『あ』の字も出なかった。

 しかし、結婚と聞いたマヌエラは、はっと迫真に迫った顔をして、侍女の手をがしっと掴む。


「大変ですわ……!」

「は、はい! 分かってますよお嬢様! 令嬢たちから人気のあのリクス公爵様から縁談が申し込まれた実感が湧いてきたんですよね!」


 リクス公爵領は大きな港があり、この国の出入り口としての役目がある。貿易の中心地で、異国の食べものが集まってくるのだ。

 そしてなんといっても、海の幸が豊富。

 マヌエラは侍女の言葉を遮り、瞳を輝かせる。


「リクス公爵家に行けば、新鮮なお魚が食べ放題なのでは……!?」

「…………はい?」

「乗りました! わたくし、その縁談を受けますわ……!」



 ◇◇◇



 ――という流れでさっそく、縁談の日がやって来た。


 マヌエラの屋敷では、使用人たちが普段の何倍も気合いを入れて屋敷を掃除し、華やかに装飾を施して、シルヴァンの出迎えの準備に当たる。


 マヌエラはというと、今日も今日とて厨房にいた。今日作るのは、パウンドケーキだ。庭でレモンが採れたので、それを刻んで焼いていく。

 せっかく客人を、それも未来の夫になるかもしれない相手を迎えるのだから、マヌエラにとって最上級の歓迎の印を用意しなくては。

 せっせと生地を混ぜて容器に注ぎ、焼いていく。


 レモン入りのパウンドケーキが完成してまもなく、玄関のチャイムが鳴った。


「お嬢様、リクス公爵様がお見えです……! ご準備を」

「ええ、分かりましたわ」


 侍女の呼びかけに相変わらずマイペースに微笑み、エプロンを外した。

 そして軽く身支度を整え、応接間に行く。


 応接間の扉を開けた先でマヌエラは、人生最大級の衝撃を受ける。小さなときに初めてチョコレートを口にしたときが最も驚いた瞬間だったが、いやいや今日はそのときよりも衝撃だった。

 彼は、ソファに腰を下ろし、こちらを見上げながら微笑んでいた。


 夜を吸い込んだような漆黒の髪に、深い森を思わせる緑の瞳。

 筋の通った鼻梁に、薄い唇。

 とりわけ美しいという訳ではないが、醸し出す雰囲気は優しげで、清潔感がある。


「こんにちは。マヌエラ嬢。シルヴァン・リクスと申します」


 挨拶の言葉を返さなければならないのに、言葉が何ひとつ出て来ない。


 雷に打たれたような衝撃に、マヌエラは口をはくはくと動かしながら立ち尽くす。次第に、彼女の頬が赤く染まっていく。

 沈黙しているマヌエラに、シルヴァンはくすりと柔らかく微笑む。


「初めてで、緊張しているのかな? どうぞそこにお掛けになってください。君と話がしたいから」

「は、はい……」


 マヌエラはしおらしげな様子で頷き、彼の向かいに腰を下ろす。

 普段は食以外に関心を持たず、何があっても飄々としているマヌエラが、どこかたどたどしい様子に、侍女や両親は揃って首を傾げる。


 するとマヌエラの隣に座る父が、シルヴァンに尋ねる。


「娘はつい最近、婚約を解消されたばかりです。マヌエラは私たちが目に入れても痛くないほど可愛がってきましたが、とにもかくにもよく食べる娘です。どうしてマヌエラに縁談を?」


 そう。マヌエラは不健康に太った体型と、食への執着から婚約破棄を言い渡されている。

 そのことで、本人以上に両親は落ち込み、同時にマヌエラを気の毒に思っていた。


「その――食が、きっかけなんです。マヌエラ嬢は、貧民街で毎週炊き出しをなさっていますね?」

「あ……え、ええ。しております」


 こくんと小さく頷く。

 マヌエラは食べることが大好きだ。その食の喜びを、自分だけではなく、大勢の人たちに共有したくて、家族や使用人だけではなく、経済的に貧しくて飢えている人たちの元に食料を配りに行っている。

 いわゆる慈善行為だが、マヌエラに善いことをしたという意識は特になく、ただ食べる幸せを誰かと分かち合いたいだけだった。


「私の領地でも、炊き出しを行うマヌエラ嬢の評判を耳にしまして。一度こっそり見に行きました。そこで、汗を流しながら食料を配る彼女を見て、とても魅力的に思ったんです」


 彼はこう続けた。マヌエラのように、慈愛の精神を持ち、実際に行動に移す令嬢はそういないのだと。

 彼の目にはマヌエラが珍しく映った。そして、貴賓としての志の高さに感銘を受けたというのである。


 シルヴァンは結婚適齢期真っ只中で、周囲から度々縁談の話を持ちかけられていた。そろそろ身を固めたいと思っていた中で、マヌエラを見たときに、彼女がいい、と直感して縁談を申し込んだらしい。


「私の家系は昔から食に関する事業を行っていて、食べることが好きなんです。マヌエラ嬢もそうだと聞きました」

「――好きです!」


 マヌエラはばっとソファから立ち上がり、食い気味に言う。


「あ……はい、食べることがお好きなんですね」

「いえ……っ。シルヴァン様のことが好きです。わたくし、一目惚れいたしました……っ!」

「……」


 突然の告白に、目を瞬かせるシルヴァン。けれど彼はふっとまた笑い、口元に手を添えながら言った。


「ありがとう。ではこの縁談を受けていただける、ということでいいかな?」


 かくして、マヌエラはリクス公爵夫人となったのである。


 口を衝いたように好きだと伝えたあと、羞恥心で顔から湯気を出しながら、ソファで顔を覆うマヌエラ。両親は、夫婦になる二人きりで話してはどうかと気を利かせて部屋を退出した。

 その傍らで、侍女がワゴンを押してやって来て、マヌエラ作のパウンドケーキと紅茶を用意する。

 フードカバーを外して現れたパウンドケーキを見て、シルヴァンは言う。


「さっきから、マヌエラ嬢から甘い匂いがするなと思っていたんだけど、もしかしてこれ、君が作ってくれたのかな?」

「はい。実は……喜んでいただきたくて」

「それは嬉しいな。ありがとう。一緒に食べようか」


 彼は洗練された所作でパウンドケーキを食べる。その様子を見ているだけで、顔が熱くなり、心臓の鼓動は早鐘を打った。

 彼のことをじっと見ているだけでは不審がられてしまうと思い、自分もパウンドケーキをひと口含む。


(あららら……おかしいですわ)


 マヌエラは食べることが大好きだ。食べものに情熱を注ぎ、風邪のときも、落ち込んだときも、祖母が亡くなったときでさえ、1食も欠かすことなどなかった。――なのに。


(食べ物が喉を通らない……だなんて。このわたくしが……?)


 マヌエラは人生で初めて、食べ物を飲み込めないという経験をしたのだった。



 ◇◇◇



 シルヴァンは、この国で王家に次ぐと言われる勢力を誇るリクス公爵家の嫡男だった。

 能力、家柄に恵まれ、幼いころからもてはやされてきた。それにも関わらず、決して奢り高ぶることなく、謙虚で親しみやすい性格をしていたため、領民や他の貴族からも好かれていた。


 22歳にして公爵になると、領民をしっかり守っていかなくてはという責任感から、必死に政務を行った。

 みるみるシルヴァン・リクスの評判は上がっていき、特に女性たちは自分こそが公爵夫人の座を得ようと色目を使うようになった。


 シルヴァン自身も、公爵家の血筋を守っていくために妻を迎えたいという気持ちはあった。それに、誰かを愛することで安らぎを得たいとも。

 だが、シルヴァンが心惹かれるような女性は一度として現れなかった。


 シルヴァンは生真面目で、控えめな性格をしているが、彼に寄って来るのは、強い香水の匂いをまとわせた、金と権力にしか興味がない女性たちばかり。

 だから、シルヴァンは友人たちに、『お前は大抵のものを持っているが女運だけはない』と冗談めかしてよく言われたのである。


 そのまま時は流れ、25歳になったとき、ひとりの令嬢の噂を耳にする。


 侯爵令嬢マヌエラだった。彼女は家柄こそ文句のないものだったが、金にも地位にも名誉にも興味がなく、食べることだけが好きなのだという。

 彼女は横に広い体型から、社交界で馬鹿にされ、令嬢たちから嘲笑や軽蔑を向けられていた。


 夜会に出れば、婚約者と並んでひそひそと陰口を言われ、狩猟祭では、悪意のある貴族からわざと獣用の矢を向けられたこともあるとか。

 しかしマヌエラは一貫して微笑みを絶やさず、どんなに失礼な言動や態度を取られても、朗らかに笑って許すのだと。


 人伝てに聞いたことだが、そんな風に非難されて、過度に食べるのを止めてはどうかと言われた彼女は、こう答えたそうだ。


「周りにどう思われるのかではなく、自分の好きなように生きたいではございませんか。それで離れていく、嫌いになる方がいるのなら、縁がなかったということです。後悔のない人生を生きて参りましょう?」


 と。正直、その話を聞いたときに痺れるものがあった。他人の顔色を窺ったり、見栄を張ったりしてしまうのが人間の本質であり弱さだ。

 しかし彼女は、周りに惑わされない一本筋が通った精神の持ち主だと、感銘を受ける。


 会ったこともないマヌエラに興味を持ったシルヴァンは、彼女のことを調べさせた。彼女は偶然にも婚約破棄されたばかりだった。

 そして毎週、貧民街で炊き出しを行っていると聞き、さっそく様子を見に行った。


 彼女はエプロンを身につけ、貴族令嬢らしくなく汗を流しながら大釜を混ぜていた。

 そして出来上がった料理を、手ずから貧しい孤児や寡婦、老人たちに分け与えていく。


「ありがとう、太っちょのお姉ちゃん!」

「どういたしまして。熱いから気をつけるのですよ?」

「はーい!」


 子どもの純粋さは時に残酷だ。だが、自分の体型を揶揄されようと、マヌエラはにこにこと笑っていた。


 その笑顔が、シルヴァンにはどんなにか逞しく、眩しく見えた。

 シルヴァンは外套を着て深くフードを被り、貧しい民を装って彼女に食料をもらいに行った。


「はい、お兄さんもどうぞ」

「君はなぜ、炊き出しを?」

「わたくしは食べることが大好きなのです。わたくしが一番幸せを感じることを、手の届く範囲で、より多くの人々に共有したくて」


 そう言ってにこりと目を細めたマヌエラに、まんまと心臓を射抜かれる。

 そしてそのとき、彼女を妻に迎えたい。結婚するならこんな人が理想だ、と密かに思ったのである。


 その後、彼女の実家に縁談を申し込むと、あれよあれよという間に会うことが決まり、マヌエラの方もシルヴァンのことをどうやら気に入ってくれたようで、婚約が決まったのだった。


 そして、ともに生活していくうちに、優しく素直なマヌエラのことが、どんどん好きになっていった。

 一緒にいると落ち着き、いつの間にか眠くなってしまうこともある。最初に出会ったときの直感は正しかった。

 ふっくらした外面もおっとりした内面も、シルヴァンにとっては何もかも愛おしく思えた。



 ◇◇◇



 あれよあれよという間に準備が整い、マヌエラはリクス公爵家に引っ越す日を迎えた。婚約期間は一年。一年後に式を挙げて正式な夫婦になる予定だ。

 万が一ともに生活する中で問題があり、どちらかが結婚を拒めば、関係は解消される可能性もある。これは、シルヴァンからマヌエラへの配慮だろう。


 公爵家で暮らすようになってからしばらく。シルヴァンはいつも政務に忙しそうだが、マヌエラのことをよく気にかけてくれた。


(ああ……今日の旦那様も後光が差しているかように煌めいておりますわ。むしろ発光しているのでは……? 来世は野菜にでも生まれ変わって、旦那様の光で光合成をして成長し、そして最後には旦那様のお身体を構成する細胞の一部になりたいですわ……)


 彼のことを見つめながらそんなことを考えていると、本人は不思議そうに小首を傾げた。

 いつでもまったりのんびりなマヌエラだが、穏やかで包容力がある彼とは波長が合うようで、一緒にいると落ち着く。


「ここでの生活に不便はないかな? 何かあったらなんでも教えてほしい」

「今のところ特にないですわ。お屋敷の方々もとても親切にしてくださいますし……何より、リクス公爵家のお料理がとっっても美味しいので……!」


 食事は彼と一緒に大食堂で摂る。

 大きなテーブルの中、主人のための中央の席にシルヴァンは腰を下ろし、マヌエラはそこに一番近い場所に座る。


 テーブルにはいつもシミひとつないレースのクロスが敷かれ、花瓶の花はいつも新鮮なまま管理されていた。

 そして、テーブルには所狭しとご馳走が並んでいる。


 マヌエラは煮込んだ魚料理を、丁寧な所作で口に運ぶが、なかなか飲み込めない。


(どうしましょう。せっかく用意していただきましたのに、またわたくし……上手く飲み込めませんわ)


 この屋敷に来てから、食欲が明らかに減ってしまっている。こんなこと、マヌエラ史上初めてのこと。

 なかなか食事が進まないこちらの様子を見て、彼は首を傾げる。


「君は少食なんだね?」

「ショウショク!?」

「無理して食べようとしてくれなくていいからね」


 少食と言われたことも、人生で初めてだ。誰と食事しても、その人の倍の量は食べるくらいなのに。


(やはり、旦那様が魅力的すぎるせい……)


 シルヴァンに見られていると、胸の鼓動が早くなって、いつものように食べられなくなる。

 彼に見られていなくても、彼のことばかり考え、夢中になってしまって、食べ物をいつもより美味しく感じないのだ。


 きっとそれは、シルヴァンに恋をしているせい。

 縁談の日から、一ヶ月ほどそんな状態が続き、マヌエラは少し体重が落ち始めている。

 顔周りがしゅっとしたし、床が見えないほど膨らんでいたお腹も引っ込み出した。


「ごめんなさい。わたくし……」

「うん?」

「わたくし……恋煩いをしているようです」

「…………へ?」


 突然の告白に、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。頬を朱に染め、口元に手を添える。


「それで、食欲がないって……こと?」

「はい……そうみたいなのですわ……」


 フォークをことんと置いたそのとき、ふと脳裏に元婚約者に言われた言葉が思い浮かぶ。


『お前は健康のために、もう少し、いやもっと、食生活に気を遣った方がいい。俺は妻には健康でいて、長生きしてほしいんだ』


 今までは食に関する執着が強くて、好きなときに好きなものを食べ、自分に対する健康意識が低かった。


 バニスターの忠告を聞き流してしまったが、今はそれではいけないような気になった。ずっと元気でいなくては、シルヴァンのことを公爵夫人として支え続けることはできない。

 食生活が乱れているせいで自分が病に伏せったら、彼の足手まといにさえなってしまう。


 どうして今までは、そういう風に思わなかったのだろう。

 マヌエラはそっと手を合わせて、初めて食事を完食する前に終えた。そして、決心する。


「わたくし……ダイエットをいたしますわ」



 ◇◇◇



 半年後。マヌエラはシルヴァンの婚約者として、ある夜会に参加することになった。

 恋煩いで食欲が減退したのをきっかけに、健康的な食事の管理を行い、運動も頻繁にした。

 夜会を迎える前にはマヌエラの体型は、肥満から痩せ型へと変貌していた。


 すらりとした手足に、以前は埋まっていたデコルテのラインも今ではくっきりと浮き出ている。

 マヌエラの新しい体型にピンク色の細身のドレスがよく映えた。


「ねえ、ご覧になって? 彼女ってもしかして……マヌエラ嬢?」

「う、嘘!? あの細くて美人な令嬢が? 変わりすぎて分からなかったわ。リクス公爵様のお隣に立っていらっしゃるということは……本当にマヌエラ嬢なのでしょう」


 今までは桃色のドレスを着ると、そのフォルムから豚のようだと揶揄されたが、今日は違う。マヌエラには憧憬と羨望の眼差しが集まった。

 ウェーブのかかった長い金髪に、長いまつ毛が縁取るピンクの瞳。顔周りについた肉が隠していた彼女の本来の美貌が確認できる。


 そして、マヌエラをエスコートするシルヴァンは、筆頭公爵家当主として憧憬を集めていた人物だ。

 大型令嬢とマヌエラを見下し、嘲笑してきた令嬢は悔しげに眉を寄せている。


「玉の輿の上、あの美貌まで手に入れるなんて……」

「あんなににこにこと幸せそうにして……羨ましいですわ」


 他方、自分が注目の的になっていることには全く気がつかないマヌエラは、立食用のテーブルに視線が釘付けになっていた。


(ガトーショコラ、ババロア、マドレーヌ、スコーン、カヌレ、マシュマロ……! なんて幸せな空間なのでしょう。あらよだれが……)


 口元に可憐に手を添えるマヌエラ。

 よだれが出そうになるのを堪えただけなのだが、周囲の男性たちからは「おぉ……」と感嘆の息が漏れる。


 シルヴァンは男性たちからの視線に気づき、彼らを視線で牽制したあと、マヌエラを隠すように背後に庇い立った。


「今日のために一週間甘いものを控えていたからね。好きなものを食べるといい」

「はい……! 本当に頑張って我慢いたしましたの……!」


 あの食い意地の張ったマヌエラが、一週間甘いものを我慢していたという事実に、広間の人々は戦慄する。

 明日は雨、いや嵐が来るのではないか。頭でもぶつけておかしくなってしまったのではないか。はたまた、目の前にいる美少女は、同じ名前の別人ではないか。

 そんな推測があちこちで交わされる。


 マヌエラは手袋を外し、ピンク色に着色されたマカロンをひとつ摘み、口の中に入れる。


(んん……甘くて美味しいですわ)


 一週間ぶりにありつけた甘味に、瞳をきらきらと輝かせる。

 この半年間、体重を落として健康になるために、マヌエラは甘いものを食べ過ぎないように管理していた。


 シルヴァンに夢中になるあまり食欲不振になっていたおかげで、甘いものから離れるのに思ったよりも抵抗がなかった。

 痩せていくと、食事への過度な執着も薄らいでいき、今では他の人と変わらないくらいの食事量に収まっている。


(全ては、健康を維持し、旦那様の愛おしい姿を一秒でも長く拝み続けるため……!)


 隣に立つシルヴァンの怜悧な横顔を見つめ、うっとりと目を細めた。


 つまりマヌエラは、食よりも好きなものができたという訳である。

 今度は緑色のマカロンを手に取り、シルヴァンの唇に差し向ける。


「はい。あーん」

「美味いね」

「わたくしは旦那様が妻の手からマカロンを食べるお姿を、大変美味しくいただきましたわ」

「ふ。一度で二度美味しいな」


 彼はごく自然な様子で、マヌエラの手からマカロンを食べる。

 ツッコミどころ満載のバカップル……ではなく、その仲睦まじげな様子に、広間はまたざわめき立った。


 するとそのとき、ふたりの元にある青年が現れる。


「お、おい……これはどういうことだ?」


 眉間に皺を寄せ、困惑と疑念を表情に滲ませているのは、元婚約者のバニスターだった。

 バニスターはマヌエラの目の前に立ち、上から下まで舐めるように見つめた。


「お久しぶりでございます。バニスター様。お元気でしたか?」

「お元気でしたか……じゃないだろ。どうしてお前、突然そんなに痩せて……」

「バニスター様とお別れしてからわたくし……『健康』に目覚めまして」


 頬に手を添えて優美に答えれば、彼は眉間の皺を更に濃くさせる。


「健康だって!? 俺と婚約していたときは、好きなものを我慢するくらいなら、好きなものを好きなときに好きなだけ食べて早死にする方がいいとか言ってたお前が!? そんな、馬鹿な……ありえない……」


 マヌエラの食への執着をずっと間近で見てきた彼だからこそ、その変貌ぶりが信じられないのだろう。

 わなわなと衝撃に打ち震え、数歩後退る。開いた口を手で押さえながら、彼は言った。


「……知らなかった。お前が――こんなに綺麗だったなんて」


 小さな呟きは、夜会の喧騒に掻き消されてマヌエラたちの耳には届かない。

 バニスターの瞳には、婚約期間のときには一度も宿したことがない熱と憧憬が籠っていた。鈍感なマヌエラは気づかなかったが、シルヴァンはそれを見逃さなかった。


 かつて見下していたマヌエラに見蕩れていることに気づいたバニスターは、はっと我に返って、首を横にぶんぶんと振る。


「なんだ? リクス公爵夫人の荷はお前には重くてストレスでも溜まったか?」

「いいえ? わたくしは見た目の通り……いえ今は違いますが、図太い性格をしておりますので」

「じ、じゃあレクス公爵家が雇って無理矢理押し付けたトレーナーが厳しすぎたんだな? まぁ早々に音を上げて、リバウンドするに決まってるがな」

「いいえ? ですから、痩せようと思ったのはわたくし自身の意思です。健康に目覚めましたので」


 きょとんと小首を傾げて答えるマヌエラ。困惑し続けるバニスターに一歩近づいて言う。


「わたくし、反省しておりますわ。これまでは自分本意でございました。あなたと婚約していたときは、どんな体型でいても、健康を損なっても構わないと思っておりましたの。けれどようやく理解いたしました。あなたがおっしゃったように、生涯を寄り添う大切なパートナーには健康でいていただきたいですわよね」

「じゃあ、お前が痩せた理由は……」


 マヌエラは頬を朱に染め、うっとりと微笑む。


「恋煩いでございますわ。わたくし――三度の食事より旦那様のことが好きですの」


 マヌエラには、バニスターを挑発しようという意図は全くなかったが、彼女のその言葉はバニスターの男としてのプライドをへし折った。


 バニスターと婚約していた間、マヌエラの心は一切揺れなかったということ。

 マヌエラの美しさを引き出すことができず、食にばかり興味が向いていたのは、バニスターに男としてそれだけの魅力がなかったから。彼はそう解釈した。


 散々馬鹿にしてきたくせに、周りの男たちがマヌエラに見蕩れているのを見て、手放したことを後悔するバニスター。


 彼は悔しさでシルヴァンを威嚇するように一瞥してから、くるりと背を向けた。


「わたくし……何か不興を買うようなことを言ってしまいましたかしら。去り際、バニスター様が旦那様のことを睨んでいるように見えましたわ」

「ふ。君は気にしなくていい。――男同士には色々あるんだよ」

「……?」


 シルヴァンはぽんとマヌエラの頭を撫でて、バニスターの後ろ姿を鋭い眼差しで見据えるのだった。シルヴァンは平和主義で温和な性格だが、独占欲は強いのである。



 リクス公爵夫人、マヌエラは食べることが大好きだ。しかし、夫であるシルヴァンのことは、食べることよりももっと――大好きだった。

 だから、食べる量はほどほどで抑え、スリムな体型と健康を維持し続けてきた。かつて減量に成功したことが社交界に広まり、後に出版した『恋と健康のためのレシピ本』は大人気となるのだった。





 〈おしまい〉


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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