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四、れいかと蓮花−壱


 リョンハが内医院(ネイウォン)に戻ると、そこには王妃からの言伝が届いていた。

 なるほど、王妃もリョンハと同じように、彼女が東宮殿に行くことになると察していたようだ。支度ができたら中宮殿に寄れ、一緒に行こう、とのことだった。今の恰好のままでとも指示されていた。

(となると、向こうでは、薄青の前掛けをすればいいかしら。あとは――)

 医女見習いにも手伝ってもらい、支度を進める。護衛の可愛い力持ち医女・イェリは、ちゃぷちゃぷと水音のする蓋付きの木桶を持ってきた。

「おかえり、リョンハ」

「ただいま、イェリ。これは?」

「あやかし。見てみて」

 蓋を開けると、あの蓮花のあやかしが水に浸かってふよふよしていた。長かった茎は切られ、今は花と萼だけの姿になっている。

 リョンハは「ありがとう」とイェリに言い、水桶の中に向けて「ちょっと触るね」と言ってから、その子に触れて持ち上げた。〝(とげ)〟が無くなっていることを確認し、うんうんと頷く。

「うまく取れているわね。誰がやったの?」

「イム医官。〝おれがやる!〟ってうるさかった」

(ああ、私のイェリに、かっこいいところを見せたかったのね。きっと)

 イム医官は、言葉にこそしないものの、イェリのことを明らかに好いている。リョンハの弟子や同僚にあたる男だ。数年前からリョンハは、その恋の行方をこっそり見守っていた。

 リョンハが典医監(チョニガム)で薬材調達と医学教育を仕事にしていた、十三、四歳の時。彼はその生徒のひとりであった。下女だったイェリに出会ったのもこの頃だ。図らずも、ふたりを繋ぐ架け橋になってしまったリョンハなのだった。

「抜き取った棘は、どこにあるの?」

内医院(ネイウォン)で調べた後、今は奎章閣(キュジャンガク)に。こっちの見解では、水蜥蜴(みずとかげ)のあやかしの力を伝染(うつ)させられた棘じゃないかって」

「なるほど、水蜥蜴ね。それなら水底で咲くのも納得。傷口に刺さっていたのを見ただけだけど、私も異論はないわ。これについては、奎章閣(キュジャンガク)の答えを待つことにしましょう」

 内医院(ネイウォン)は、王宮内にある医療機関のひとつ。宮中の病院だ。今のリョンハやイェリの所属先である。

 一方、奎章閣(キュジャンガク)は、王宮内にある研究施設。医学やあやかし学といった様々な分野の学者が集められ、その最先端の研究をしているところだ。

 中身に多少の違いはあるとは言え、これらは、前世の時代劇や歴史書にも出てきたものだった。

「ねえ、リョンハ。(かんざし)。曲がってるよ」

「あら、そう? ――ありがとう」

 イェリはリョンハの髪へと手を伸ばし、簪を直す――ふりをした。ほんとうは曲がってなどいない。ただ触れたかっただけ。なんとなく。

「では、行きましょうか」

「うん」

 支度を終えると、リョンハとイェリと見習いふたりは、中宮殿へと歩きだした。

 鮮やかな色付きの服を着て、髪飾りをつけ、女らを連れたリョンハは、ほんとうの承恩尚宮(スンウォンサングン)みたいだろう。それを思うとイェリは胸が痛くなった。

 自分がその隣にいつもいられるのは、彼女を守れと王に命じられたから。彼女が特別な存在だから。そう、わかっているのにもかかわらず。

 リョンハがチマを裏返しに着ている姿は、イェリも、誰も、見たことがない。彼女は王に抱かれてなどいないはず。それなのに、今のリョンハは、王に愛される女らしく見えた。

 池に飛び込んだ後か、謁見の後か、今日のどこからか、何かが変わってしまったようだった。誰かと心を通わせたんじゃないかしら、そんな気もした。自分がリョンハを慕っているせいで、異様に心配してしまうだけかもしれないけれど。

 と。背後で護衛がもやもやした想いを募らせていることには、さすがのリョンハも気がつかない。だが、実のところ、イェリがおぼえた違和感は、かなりの精度で的を射ていた。

 この日から、リョンハは、自分が死ぬ未来を見据えて生きていた。もう一度の死の覚悟を固めた日だった。

 そして、この日は、もうひとつの運命の日だった。来世で結ばれるひとと、初めて触れあう(えにし)の日だ。



 東宮殿に着いた。リョンハは王妃と一緒に、初めて世子の居室に足を踏み入れた。ほんのちょっぴり緊張していた。 

世子(セジャ)。母が来ましたよ」と糖蜜みたいな声で優しく呼びかける王妃に、布団に入っていた世子はゆっくりと顔を向ける。起き上がる。リョンハは顔を下へ向けたまま、ちらりとだけ彼を盗み見た。

 世子(セジャ)王世子(ワンセジャ)。未来の王。この国の希望。守るべきひと。

 リョンハは敏腕の医女だが、世子をと王に頼まれたのは、それだけのためではない。前世で言うところの〝探偵〟や間諜のような役割をも、王はリョンハに期待しているのだ。

 十歳の頃に医女見習いになってから、リョンハはいつも宮中を嗅ぎまわっていた。当初は、復讐、あるいは正義のためだった。家族を死なせた陰謀の真相を知りたかった。

 が、その目論見はなかなか難航しており、十六歳になった今もなお遂げられていない。わかったのは断片的なことだけだ。代わりにと言うべきか、調査や仕事の過程で、他の事件をいくつか解決してしまった。

 大妃(テビ)の毒殺を謀ったという疑惑を掛けられた側室の無罪の証拠を見つけだしたり、宮女や下女らを襲ったとある伝染病の原因を突き止めたり、虫のあやかしの異常発生を鎮めたり、などなど。見つけた問題に首を突っ込んでは解決した。

 その積み重ねから、いつしかリョンハは王や妃嬪にまで興味をもたれるようになり、こうして目立つようになったのだ。四方八方から信頼と親愛の情を向けられるようになったのだ。

 それで、今日からは――〝世子の命を狙う不届き者から彼を守れ〟との王命を下された。〝世子を頼む〟と。

 大人になるまでを見守ることはできずとも、彼が生き残れる道を、一分(いちぶ)でも長く切り拓いてから死のう。リョンハは決意した。

 そのためには、リョンハは、世子にも懐かれなくてはならない。王妃もそれを望んでいるらしいのは好都合だった。存分に甘え、利用させてもらう。使えるものは何でも使う。人も、物も、時間も、いくらあっても足りないくらいだ。

 リョンハは(ジョル)をした。

「内医院の医女、ペク・リョンハと申します。世子邸下(セジャチョハ)にご挨拶申し上げます」

「――母上。こちらは?」

「白衣の医女、リョンハだ。世子も噂くらいは聞いておろう」

 世子は怪訝な顔をした。視界の端に見えるだけでも、可愛らしい顔立ちの男子だった。リョンハがその姿を見ることは叶わないだろうが、きっと美青年になると思う。どうか真っ直ぐに育ってほしいと願う。

 リョンハは、医女らしく世子を診察した。彼の主治医である男の医官も、リョンハより前に東宮殿に来ていたという。身体に問題はなさそうだった。

 ただ、心はちょっと弱っているようだ。池に落ちるという怖い目に遭ったからか、それとは他の理由があるのか。

 リョンハと世子は、ふたりきりになった――と言っても、部屋の入口付近には、東宮殿の内官と護衛とイェリがいるのだが。ふたりきりも同然だった。世子の命が脅かされない限り、彼らは物言わぬ壁となる。

 賤しい医女がこの場にいることを許されるのも、王や王妃が彼女へと向ける信頼の大きさのあらわれだ。頑張ったなぁ、と。我ながらしみじみする時もある。リョンハは頑張った。いっぱい頑張って、今の立場を手に入れた。

 医女見習いが、陶磁の器を持ってきて、そそくさと下がった。さて、ここからだ。リョンハは〝面白い女〟を演じなければならない。世子に気に入られるために。愛されるために。

 薄青の前掛けを脱ぎ、彼女はゆるふわりと笑った。

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