三、リョンハ
二度目の人生。まだ両班の娘だった頃。
前世の友人関係とそれに連なる若者文化の記憶を取り戻した日、六歳のリョンハはこう思ったものだ。
(めちゃくちゃ現代的なカラーリングの可愛いデザインね……!?)
何がと言えば、服がである。前世の文化で言うところの韓服のことである。
(新大久保で着たやつみたい! わっ、あらためて見ると、ドラマやWebtoonの中の世界っぽいー!? っぽい、ってだけだけど!)
リョンハは、はしゃいだ。前世はいわゆる量産型女子。流行に乗りたい女の子だった。可愛いものは大好きだ。
チマ・チョゴリ――ぴたりとした上衣がチョゴリで、ふわりとした下衣がチマ。そのチマが広がる姿を見たくて、庭に出てくるくると回ってみた。
この日のリョンハのチョゴリは、淡い青白磁の色。チマは青空の天色。
艶やかな天色の生地は、期待以上に、大きく、丸く広がった。まるで舞踏会で踊るシンデレラのドレスのように。
リョンハは感動した。そこらへんにいた兄に抱きついた。「どうしたんだ? リョンハ」と高い高いをされた。力持ちで美男子で家族想いの兄だった。この頃の兄は、今のリョンハと同じ十六歳だ。
(うわぁん! ほんとに可愛い! 韓国旅行のことも思い出すな〜! みんな元気かなぁ)
高校時代に定番の遊びスポットだった東京の新大久保や、卒業旅行で行った韓国のソウルで。友人と韓服体験をした思い出が鮮明に蘇る。
この世界の布は、彩りにあふれていた。服の意匠は、現代の人気ファッションデザイナーがつくる韓服のようにお洒落だった。リョンハの琴線にも、ばっちり触れた。
(染色の技術がすごい。布地の質が高い。水が良いからかな? 植物や蚕の生育環境が良いのかな? どっちもかも!)
前世の医学や、その他の現代科学、歴史学の知識をもっていたとは言え、この時のリョンハは、まだ子どもらしかった。志半ばで前世を終え、奇跡の二度目を――異世界生活を謳歌しているところだった。
意外だと言うべきか、小さい頃のリョンハは、医学に傾倒することはなかった。前世とは違うこの世界の学問を広く嗜んでいた。今思えば、医学や薬学については、逆に避けていた節さえあったかもしれない。
自分が死んだことはなんとなく理解していたが、理由を覚えていなかった。
医学部の学生だった頃に人生を終え、研修医にもなれなかった、その無念だけは赤子の頃から抱え続けて。生まれ直した時から、心残りが重たくて。
医者になれない痛みを、もう感じたくなかった――。
両班の娘は、医女にはなれない。医女は〝婢〟がなるものだ。両班は貴族。婢は女の奴隷。医女は賤しい者の職だった。リョンハは〝お嬢様〟と呼ばれるような娘だった。身分が違うというやつだ。
なりたいと思うより先に、諦めた。この世界では無理だと頭に叩き込んだ。それが世の理だったのだ。
この時のリョンハの記憶は、まだ不完全で。前世の死因のみならず、覚えていない事柄が多々あった。
例えば、人間の醜さ。陰謀。復讐。冤罪。権力欲。そういう、どろどろした悲しいものを知らなかった。そういう汚いものが、自分や家族を襲うとまでは考えられなかった。
もっと早く思い出せていたら、何かを変えられたのだろうか。いや、六、七歳の幼子では無理だったろうか。陥れられて死んだ家族のことを、今も何度も夢に見る。
彼女の生まれた家は、もう、存在しない。
会える家族は、もういない。
両班の娘の恰好をした医女のリョンハは、王の前でにこにこした。
王妃に命じられて着たチョゴリは桃色で、チマは黄色。今の世の未婚の令嬢らしいパステルカラーの服だった。
リョンハの推理によれば、ここは異世界である。
前世の小説やドラマのジャンルで世界観を表すならば、これは〝架空歴史ファンタジー〟や〝ファンタジーロマンス史劇〟の世界になるのだろう。
(いまのところ、私にロマンス展開は微塵もないけどね)
にこにこ、もぐもぐ、ゆるふわり。畏れ多くも、彼女は王と一緒にお茶をしている。毒見役ではない、友人か愛人かのようにだ。よくすることだった。
若き王は、これを〝余の健康に良い菓子を見極める医療行為だ〟と言い張った。すると誰にも止められない。
そしてリョンハは図太かった。前世の死を合わせれば、二度も死ぬような目に遭った彼女だ。他の者にはない〝無敵感〟が彼女にはあった。だから王の前でも菓子を頬張れる。
(カロリー爆弾おいしい~!!)
彼女が食べているのは、薬菓。蜂蜜やシナモン、生姜を混ぜて作られる、濃厚なドーナツみたいなお菓子だ。花の形をしたクッキーのような見た目で、油で揚げた後はシロップ漬けにされている。前世、仲良しグループの友人らと一緒に作ってみたこともある。
あの時は、生果房の者が作るような美しい花の形にはできなかった。眠たい数学の授業中に描いた円の図のようにふにゃふにゃの丸だった。〝何この形!〟とみんなで笑った。
(でも、美味しかったなぁ。楽しかったなぁ)
在りし日を懐かしむリョンハを追うように、王もまた目を細める。「幸せそうに食べるものだな」と王は嬉しそうにした。リョンハもさらに幸せそうな顔をした。笑うのは得意だ。ゆるふわり。
こうして王に〝面白い女〟だと思われておくのは、彼を楽しませられるだけでなく、彼女にとっても利があった。
男と女が交わるような寵愛をうけたいと思っているのではない。ただ、王のそばにいられる位置を保っていたいのだ。
純愛的な思慕をしているのでもない。リョンハは、時が来るまで、王の主治医であり続けなければならなかった。
「――さて、リョンハ。そなたに頼みがある」
「はい、主上殿下」
王からの頼みは、大きくふたつあった。
ひとつは彼女の勘の通り、今後は世子のことも診てほしいということだった。今日の事件のことは聞いているので、これを終えたら東宮殿へ行ってくれと。
もうひとつは、これまで密かに話し合い続けたことへの答えだった。覚悟を決めた頼みであった。リョンハは「仰せのままに」と恭しく頷いた。いよいよ腹を括らねばなるまい。
(……大丈夫。絶対に成し遂げてみせる)
リョンハは、自らを励ますように笑った。笑顔は彼女の武器だ。今度のゆるふわりに、王はすこしだけ悲しそうに片頬で笑った。
王妃の思惑に薄々気づいていながら、まったく知らないふりをして。決してリョンハを手折りはしない。我が妻のことも、この強かだけれどまだ若い医女のことも傷つけないように、と。
心の優しい王だった。身体は強くなかったけれども、心に真っ直ぐ芯のある王だった。
リョンハの学んだことによれば、この国の歴史も、途中までは、彼女の知る前世の隣国らしいものであった。〝大長今〟と思しき医女についても書に残されていた。王の主治医だったと記録される最初の女だ。彼女のことは、小さな離島の人でも知っていた。
歴史のズレに気づいたのは、壬辰倭乱――前世の日本史の教科書だと、文禄・慶長の役。そう、豊臣秀吉のあれだ――のことを学んだ時。
当時の主な王宮・正宮であった景福宮の焼失は、彼女の知る歴史の通りだった。ただ、その時期に、この国の歴史書は焼損あるいは盗難の悲劇に見舞われたらしい。今でもちらほらと空白が残ったままになっているとのこと。それはリョンハの知らないことだった。
この世界には、今もあやかしがいる。
その存在が、いつ、どうして、どのように現れはじめたのかは不明だった。あやかしの出現時期は、歴史の空白なのだ。
それよりちょっと先、魑魅魍魎が跳梁跋扈して――という時代。転じた意味ではなく、ほんとうに化け物が暴れまわっていた時のことは、記録に残っている。ドラマの良い題材になりそうな時代だった。その後に、世界の様子はがらりと変わった。
人間は、化け物もといあやかしと仲良くする術を得た。あやかしの力をうまく利用することで暮らしを良くした。世界をもっときれいにした。人間とあやかしは、共存の道を進んだのだ。
この頃。悪しき化け物を退け、善きあやかしを惹きつけるためと、かの大国の皇帝は朝貢国に〝仮面の名〟をつけた。あやかしという存在に愛されるため、お化粧のような名前を授けたのだ。
ゆえに、この国の名に朝はない。今は仮面を被っている。
そして違う歴史を刻むこの世は、リョンハが前世で生きた世界の数百年前の世ともまた違うだろう。長今や豊臣秀吉だって、名前は同じでも、ほんとうは彼女の前世の歴史とは違う人かもしれない。地名だって、それ以外の文化や事物だって、前世で知る国と似ているだけかもしれない。
ここは、きっと〝過去〟ではない。小説や映画で見る〝並行世界〟というものの可能性も捨てきれないが、それも異世界の一種と言える。
もしかすると、未来で、彼女の知る歴史に繋がるのかもしれないけれど。今は、単に書き換えられる時代なのかもしれないけれど。あの世界の歴史に残っていないなら、やっぱり、ここは異世界だ。
だから彼女は、ここを異世界とした。自らに起きた現象を〝異世界転生〟と推理した。
皇帝がつけた化粧――沝蕣。
それが、善きあやかしと生きる、今の国の名だ。
水に恵まれ、色とりどりの草花が咲く、この地らしい名だと思う。その清らかな水の青さも、前世では見たことのない植物も、あやかしも、知らない学問も、彼女に異世界らしさを感じさせるものだった。
(うん。やっぱり異世界だ。私がどんなことをしようとも、母さんや父さんに知られる未来はない。大丈夫――)
この沝蕣の今の世の記録に、玲夏は医女として、悪女として名を残す。
彼女が処刑されるのは、次の年の冬のことだった。