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二、白衣の医女

 ごほっ、ごほと咳き込み、ぜいぜいと荒い息をするふたり。医女と世子は陸の上に戻った。どちらとも無事に生きていた。

世子(セジャ)!」

世子邸下(セジャチョハ)!」

 彼の生母たる王妃と、お付きの内官は、今にも泣きだしそうな声で彼を呼ぶ。世子はわんわんと泣いていた。

 その小さな身体は、あっという間に、清潔な布と宮女たちに包まれる。王妃も宮女らのように身を屈め、自らが濡れるのも厭わず我が子を抱きしめた。お風邪を召してしまいますという尚宮(サングン)の声は、王妃の耳には聞こえない。

 王子のことが心配でたまらないという、一国の母よりもひとりの子の母らしい王妃の姿を見て、医女はちょっとぼんやりした。ほんの数秒のあいだ、自分の母ふたりのことを想った。一度目の人生の母と、二度目の人生の母だ。

「リョンハ」

 そんななか、彼女に声を掛けたのは、護衛の女。と言っても武官ではない。女は薄青の上衣を着た医女だった。

 ずぶ濡れの師を冷ややかな目で見て、女は呆れたような顔をしている。その人間らしい表情が嬉しくて、白衣の医女はにこにこした。莫迦(ばか)じゃないかしらと護衛は思った。

 しかし、この、ゆるふわりとした笑顔も、リョンハの武器である。護衛はそれをよく知っていた。

 かくいう女も、その人懐っこい笑みに惹かれて、あるいは騙されて、水汲みの下女(ムスリ)から医女見習いになったのだ。リョンハのせいで、医学の道に足を踏み入れた。

 まさか置いて()かれるなんて、思ってもみなかった。見習いの時も、今この時も。人々を死なせまいと駆け回るリョンハの死を、女は想像だにしなかった。

 リョンハという女は、いつも無敵に見えた。

 けれど死ぬ。

「もう一度、池へ行ってくるわね。ちょっとお花を摘みたいの」

「……はい」

 (はばか)りに行くという意味ではない。薬の材料を取りにいくという意味だ。止めても無駄だとわかっているから、護衛はおとなしく頷いた。でも、後で小言はいわせてもらう。リョンハの困ったゆるふわりが見たいから。

 母の形見だという装飾品(ノリゲ)()げた小刀を咥え、「ひっへひはふ(いってきます)」とこれまた莫迦のふりで薬草(あやかし)狩りへの出発を告げる医女は、雪の肌に水滴を煌めかせているからだろうか、護衛の目にいつもより〝いい女〟と見えた。きれいに映った。

 ざぷんっ。と。再び池に飛び込んだ、医女の名は――リョンハ。ペク・リョンハ。白衣の医女。(ペク)玲夏(リョンハ)。今や国王の主治医を務める女だ。



 ほどなくして、ぱしゃりという水音が再び王宮庭園に響いた。

 なんのことはない、リョンハが池から出てきたところであった。またにこにこしている彼女の腕には、人の頭くらいに大きな蓮の花が抱えられている。

 芙蓉池(プヨンジ)のほとりでそれを見た者は皆、ぎょっとした。花の光に照らされたリョンハのかんばせの美しさと、あやかしの存在に驚いたのだ。

 世子を魅了して底へと引き込んだのであろう蓮花のあやかしは、リョンハに絡みつくように茎をにょろにょろさせている。ちなみに根っこは彼女にちょん切られたので池の中。水底で咲くよう、誰かに()()()()()子だとリョンハは見立てた。

 ちらりと目配せすると、護衛は「はい」と片腕を伸ばし、あやかしを預かってくれる。慣れた動きだ。相変わらず、その可愛い顔からは想像できないくらいの力持ちね、とリョンハは心の中で拍手する。

 あの時の東宮殿側の状況を、内官や宮女から聞きたいけれど……。と小刀をノリゲにつけ直しながら彼女は視線を左右に動かすも、世子とお付きの者らは、もういない。それもそのはず。

 世子をひとりきりにして危険な目に遭わせるという失態を犯した彼らが、身体を冷やした世子を放っておく、などという恥の上塗りを許すとは考えられない。

 不埒な者が紛れ込んでいた可能性もわずかにあるが。リョンハの知る限り、東宮の内官や宮女は全員が全員、世子を心から敬愛しているのだ。そういう人選をされている。

 国王が真心を込めて〝きれい〟に保とうとしている東宮殿だ。世子を溺愛する王の目にも見られ、選び抜かれた者たちだ。今日の事件には、さぞ肝を冷やしたことだろう。

 リョンハにも、まだ、事のすべてはわからない。けれど考えている。推理している。にこにこ笑顔の裏で、彼女は、今の状況をぱぱっと整理した。

 内官の単なる過失か、あやかしに惑わされてのことか、はたまた誰かの手引きがあってのことか、幼い世子は庭園にひとりでいた。先ほどの内官たちの様子を見るに、これは間違いないはずだ。

 その庭園の芙蓉池沿いには、王妃とそのお付きの一行、彼女に呼び出されたリョンハとその護衛の医女もいた。しかし誰も、世子の落ちる現場は見ていない。音も聞いていない。こちらの事実も揺らぎようがない。

 芙蓉池は、四角形をした大きな池だ。〝王妃らと世子のいる場所が離れていたために、気づかなかった〟ということは十分にあり得る。また、〝近くにいたのに、あやかしに隠されて気づけなかった〟という可能性も否定はできない。

 ともかく。誰にも――より正しく言うのなら、味方の人間には、誰にも――知られぬまま、世子はひとりで池に落ちた。

 その後、水中に誰かがいると気づいたのはリョンハだ。

 王妃と話しながら歩いていたリョンハは、誰よりも早く、池に浮かぶ黒っぽい物に目を留めた。それは、国王や世子が被る冠・翼善冠(イクソングァン)だった。気づくともう池に飛び込んでいた。そうしたら、世子を見つけた。ついでに前世の死因を始めとする()()()()()を思い出した。

 今頃、世子に仕える者たちは、たっぷりの薬湯のお風呂で彼を温めようとばたばたしているのだろう。リョンハはその光景が目に浮かぶようだった。前世にドラマで見た入浴シーンから来るイメージだ。

 これまで世子の診察をしたことはないが、後ほど東宮殿の方から呼び出されるかもしれない。そんな気がした。あるいは、また王命が下されるのやも、と。彼女のこういう勘は、よく当たる。

「――リョンハ」

 とその時。

 彼女の名を呼んだのは、王妃だった。リョンハの意識は推理から離れ、美しく若々しい王妃へと向かう。

 一児の母である王妃は、二十代の半ばだった。ちなみにリョンハは十六歳だ。

「はい、中殿媽媽(チュンジョンママ)

 応えたリョンハの声は、凛として甘い。

 まるで夏の果実のような娘だと王妃は思う。

 品階のない官婢である医女は、女官らと違って〝王の女〟ではない。が、王の御手付きになってもおかしくないと王妃が睨むくらいには、この娘は魅力的だった。

 王はリョンハを気に入って御医(オウィ)とし、今では、男の医官と同じように純白の衣を纏わせる始末。王宮で〝白衣の医女〟と言ったら、間違いなくリョンハのことだ。

 ここでは他の医女に純白の上衣は許されず、また、女官や妃嬪は色がついた上衣を纏う。雑用係(ムスリ)などは色のない上衣だが、それは生成りの色であって純白ではない。

 清らかな水を通した純白を纏い、王宮の青空の下を歩ける女は、この世にひとり――(ペク)玲夏(リョンハ)だけなのだ。

 リョンハは特別だった。王と寝たことはなくとも、まるで承恩尚宮(スンウォンサングン)のように可愛がられていた。王妃も、なんだかんだとリョンハを可愛がっていた。憎めない娘なのだ。

 ふんわりと微笑み、王妃は、風邪をひいてはいけないから着替えなさいと医女に命じた。白衣の医女の白衣を脱がせ、今日は、貴族の娘らしい恰好にしてやることにした。たまにする()()だ。医女は素直に頷いた。

 王妃と医女とお付きの者らは、中宮殿へと歩きだす。


 ――いっそ手折られてしまえと、たまに思う。

 可愛いリョンハを、自分の真下に()としたいと王妃は思う。底の見えない医女の娘を、自分には暴けない心の底を、我が愛する王に暴いてほしいと。

 歪んだ感情だとは理解している。王や臣下に知られれば、王妃の座から廃されるかもしれない。それほど醜い想いだと。特に我が子には決して知られたくない。

 寂しさを募らせた女官と女官がするように抱きあいたいとまでは思わずとも、王妃は、医女を愛していた。

 この数ヵ月後、危篤となった王を置いて王宮から逃げろと命じるくらいには。もう良いから、王を救えずとも良いから生きてくれ。そう願うくらいには。

 でも、その命令だけは、リョンハは聞いてくれなかった。

 どんなに縋っても頷いてくれなかった。彼女は真っ直ぐだった。

「あら、きれいね。ほんとうに両班(ヤンバン)の娘みたいよ」

「……えへへ」

 着飾られたリョンハは、いつものように、ゆるふわりと笑った。こんな時でも、その頬は引きつらない。

 

 玲夏(リョンハ)は、最後まで、医女らしく生きた。

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