ヨコミチ
夜10時。夜間部の講義を終えた葵は明日が休日ということで、とあるバーのカウンターで友達とお酒を飲んでいた。
「葵とこうして飲むのも結構久々な気がするわね」
「最近はちょっと色々あったからね」
「ストーカー被害はちょっとの話じゃないわよ…」
呆れた顔で葵の隣に座る彼女は同級生の三上里香。
明るい茶髪のボブカットで、背丈は葵よりも少し低いのだが、同じぐらいに見えるのは椅子の高さを調節しているからだ。
「でも無事で本当に良かった。もう安心なんでしょ?」
「うん。犯人も捕まったから大丈夫なんだけど……正直まだ落ち着かないかな」
「無理もないわ。この上アンタ美人だからって男に言い寄られたりするんでしょ?私なら男アレルギーになるわ」
「あはは……確かに」
これが実は洒落になってないのだが、葵は事件が解決したことや一人で無かったことが幸いし、そこまで重症には至っていない。
その証拠に、今も彼女の中にはあの日から燻っている感情がある。
「恋人の一人でもいれば諦めるのだろうけど、土台無理な話よねぇ……」
里香の呟きが耳に吸い込まれ、頭の中でぼんやりと広がっていく。煙のようなそれはやがて一人の男の姿へと形作られた。
「あ。あー……無理でないわけでもない……?」
「待った。なにその引っかかる反応。もしかして気になる人がいるの!?」
目を見開いて食いつく里香は葵の肩を掴んで激しく揺らす。
「男と言えばストーカー事件の時に助けてくれた男子がいて……良い人だなぁとは思ってる……」
「なにそれ初めて聞いたんだけど。そういうのは早く教えなさいよ。どんな人なの? 年上? イケメン? 写真ある?」
怒涛の質問責めに圧倒されつつも、葵は龍臣と事件について詳しく話した。
───最初の印象は「目つきが悪人」だった。
無愛想な目つきで目が合うのが少し怖い上に寝不足からか目の下に隈が出来ていた。
話し掛けて目が合うと思わず逸らしてしまった。本人には男性不信からと言って納得してもらったが、正直目を合わせるのに怖さも少しあった。
そんな印象とは裏腹に彼はゼミでやむを得ず仕事を多く任せたが嫌な顔一つせずに受け入れ、ストーカーを見ても特に慌てる事なくこちらを気遣ってくれた。
『え、えーと……さっきの、友達スか?』
和ませようとしていたのを分かっていても、そんなわけ無いでしょと心の中でツッコまずにはいられなかったね。
でも偶然とはいえ彼が居なかったら私がどうなっていたのか分からない。助けてもらったし、彼に少し興味があったのでご飯を奢るついでに色々話してみたりしたら、根が善い人なんだろうなっていうのがわかった。
それから一緒に帰るようになり、しばらく過ぎた頃、ストーカーが捕まったけれど、実は私を狙ってたストーカーはもう一人いて。
それに気付いた久場くんが間一髪のところで助けに来てくれて、犯人は捕まったの。
「久場くんは困ってる人が放っておけない、優しくていい人だよ」
「背が高くて強くて性格も良い?これはイケメンね。こういうのは顔も良いに決まってるわ。そのイメージしかできない。今度会わせてよ。いや、今度言わず今呼ぼう」
「えぇ……連絡するだけしてみるけど、断られても文句いわないでよ?それと勝手に期待しすぎてがっかりなんて失礼な事しないように」
「しないしない」と流す里香に呆れながら、葵は龍臣に用件と場所を書いたチャットを送った。
夜11時に呼びだすのもどうかと思ったが、夜間部の人間ならまだ普通に飲んだりしている時間なのでいけないこともないと踏んでいた。
5分後、「行きます」と一言書かれた返信が返ってきた。
「久場くん、来るって」
「ホント!? ノリがいいねぇ」
「急に呼び出したんだから1杯くらい奢りなよ?」
「それくらいしてあげるわよ」
それから暫く龍臣が来る事に盛り上がっていると、店のドアが開く音がした。
やってきたのは二人組。一人はふくよかに大柄な男で、もう一人は金髪に焼けた肌のいかにも遊んでそうな風体の男だった。
バーテンダーに案内され、彼らは里香の二つ隣の席に座る。
大柄な男が注文したウォッカを煽っていると、ふと里香の方を向いていた葵と目が合った。
まずいと思ったときにはもう遅い。大柄な男はグラスを持って彼女達に近づいてきた。
「よぉ、君達二人だけ? よかったら一緒に飲まねぇ?」
「急にナンパっすか……ってうわっ、めっちゃかわいいじゃん!」
へらへらと軽薄に笑う二人の顔はほんのりと赤みを帯びており、店に来る前から既に酔っていたようだ。
「ルシアン二つ。お近づきの印に」
「誰もアンタ達と飲むなんて言ってないけど。どっか行ってくれる?」
強気に返す里香だったが、大柄な男は目の前に2つ並べられた酒を一つ彼女に差し出した。諦める気は無いようだ。
しかし里香もそれを飲む気は無かった。
ルシアン。甘く飲みやすいカクテルの一つだがその実、アルコール度数は非常に高い。いわゆるレディキラーと呼ばれる部類のカクテルだ。
酔わせて持ち帰ろうという考えを彼女達はとっくに見抜いていた。
「つれねぇな〜1杯くらいよくね? ねぇキミいくつ? 大学生?めちゃくちゃかわいいね。モテるっしょ?」
金髪の男は葵の隣に座り、馴れ馴れしく話掛けてくる。
葵は顔も合わせずに自分の頼んだカクテルを飲む。
里香も同様に相手にしたくないと話に乗らずに立ち上がった。
「悪いけど待ち合わせしてるの。私達もう行くから」
「オイ待てよ」
「ッ、離して!」
里香は腕を掴まれ、引き留められる。
これにはバーテンダーも止めに入ろうと慌てるが、小柄な彼には大きな男を相手に手を伸ばしかけたり引っ込めたりと足踏みするだけで割り込む勇気はなかった。
周りの客も見てるだけで止めに入らない。
「ちょっと貴方……!」
「まぁまぁ落ち着いて。アイツ格闘技やってたからさぁ。怒らすのはヤバイって。な?楽しく飲もうよ」
怒る葵は金髪の男に肩を掴まれ、背筋が凍る。
男の話しかける声が耳障りで仕方ない。
触れられる事が気持ち悪い。
全身で拒絶反応を起こした葵が男を振り払おうとした時だった。
「すいませーん」
呑気な声で鈴の音と共に店の扉が開き、誰もがそっちを向いた。
「あっ、こうじゃないか……」
「居酒屋のノリで入っちゃった」と片手で口を塞ぐ龍臣はこれは失礼と軽くお辞儀で謝った。
軽く咳払いをして仕切り直す。落ち着いた店の雰囲気に合わせてクールな男のような態度を取って店を見渡した。
すると、いかにも絡まれているという女性と自分を呼んでくれた女性が目に入る。
その光景だけで大体の状況を察した。
一瞬、葵に絡んでいる男に思わず殴りかかりたくなったが、以前我を忘れて止められた事もあり、龍臣は飛び出さずに歩き出す。
金髪の男を遮るように葵の前へと顔を出した。
「すいませんお待たせしました。先輩」
「あ、うん……こっちこそ急に呼んでごめんね」
「大丈夫ッス。どうせ一人で飯食ってただけなんで」
「おいコラ待てや」
金髪の男が立ち上がり、龍臣の肩を掴んで葵から自分の方へと向かせる。
「その子は今俺と楽しくお喋りしてたとこなんだよ。いきなり出て来て邪魔すんじゃねぇよ!」
怒鳴る金髪の男に龍臣は動じず、相手を指差して「ホントに?」と目で尋ねる。当然葵は「違う」と首を横に振ってみせた。
「絡んでただけっぽいスけど」
「オメーには関係ねぇだろがよ!ああん!?」
期待はしていなかったが話してどうにかなる空気ではないようだ。
かといってここで殴り合いの喧嘩になるのもお店や葵たちに迷惑がかかる。
どうしたものかと龍臣は考えたが、結局は拳しかなさそうだった。
ぶつかりそうなほど近くで睨みつけてくる相手に、龍臣は小さく頭突きを食らわせた。
「んがっ!?」
「イッタ〜……近くで怒鳴るからビックリしたじゃないスか……」
自分から頭突きしたのだが、龍臣はわざとらしくよろめいてみせた。
向こうは不意にくらったせいで額を押さえながら床を転げまわる。
これで一人は片付いた。よろけたまま里香の方へと足を向け、大柄な男の前に立つ。
「すいません。連れの人が話聞いてくんないんス。俺らもう店出るんで解放してもらっていいッスか」
「そりゃあ困るなァ……こっちはもう二人に奢ってんだ。酒の分は付き合って貰わねぇと損だぜ」
「アンタねぇ……!」
「勝手に注文しといてよく言うわよ」と続けようとした里香を龍臣の手が遮る。
そのまま伸びた手はルシアンへと向かい、持ち上げた。
どうする気なのかと誰もが黙る中、龍臣はグラスを一気に傾け、飲み干した。
「あっ、オイ!」
「意外と飲みやすいんスねー」
言いながらもう一杯にも手を付け、やがて中身が空になったグラスをテーブルに置いた。
「これでいいスか」
「ふざけやがって……! ナメてんじゃねぇぞ!」
立ち上がり、勢い良く振りかぶった拳が龍臣の顔をめがけて振り下ろされる。
だが喧嘩慣れしている龍臣咄嗟にガードの姿勢や躱そうとするわけでもなく、ただ立っていた。
そして拳が当たるよりも先に相手の股間を蹴り上げた。
「アッ」
予想外の一撃だった。大柄な男は内股になり股間を両手で押さえながら崩れ落ちる。
悶絶する男の姿に、見ていた他の男性客も痛みを想像して思わず股を閉じた。
龍臣は静まり返った店内で「お騒がせしました」と苦笑いで頭を下げた。
「それじゃ行きましょうか、先輩」
「え、ええ。里香、行こう」
「う、うん」
「すいません、チェックで」と葵がバーテンダーに声を掛けると金額の書かれた紙が差し出される。それを見て現金で支払う為、女性二人は各々の財布を開いた。
「オイ待てこの……ヴェッ!」
その間に金髪の男が起き上がってきたりしたが、龍臣は最早見向きもせずに拳を突き出すと顔に命中して相手はまた倒れた。
「ごちそうさま」
葵と里香がそう言って退店していくのを大柄な男は恨めしそうに見つめていた。
(この借りは絶対に返してやる……ダチも集めて袋叩きに……)
「オイ」
そんな事を考えていると、強く踏み込んだ人の足が鼻先を掠める。ほんの数ミリ間違えば鼻が潰されていたところだ。
残っていた龍臣は倒れたままの大柄な男の前でしゃがみこむ。
「次話し掛けたらマジで潰すんで。いいッスか?」
「ひ、は、はいっ……」
冷たい瞳に見下され、背筋が凍り、股を閉める。
たった一言で男の復讐心は空気の抜けた風船のように萎んでしまった。
負けてプライドを傷付けられた相手はやり返し切るまで何度も向かってくる。それをよく知っていた龍臣はきっちり心を折っておくようにしている。
必死に何度も首を立てに振る様子を見て、龍臣は笑顔で「酒、ゴチでした」と店を去るのだった。
「お待たせしました。次どこ行きます?」
「………………葵、ちょっと」
「何?」
二人は龍臣に背を向け、彼に聴こえないように小さな声で話し始めた。
(想像の五倍くらい喧嘩っぱやい男じゃない! なんであんな危ない男呼んだのよ!)
(呼べって言ったの里香でしょ!? それに私達たった今彼に助けてもらったところじゃない!)
(そうだけどっ……言ったとおり背が高くて強くて、多分善い人なんだろうけど……ガラ悪くない?チャラチャラしてるわけじゃないのが逆にヤバさを感じるわよアレ)
(私最初に言ったよね? 勝手なイメージ作ってがっかりしないでって。それ以上言ったら怒るからね?)
(まさか葵が危険な男に惹かれるタイプだったとは……)
「それ今関係ないでしょうが!?」
思わず出た葵の大声に里香と龍臣の肩が跳ねた。
葵もしまったと口を覆い、どうしようと目を泳がせる。
「……そ、それじゃあ行こっかー」
「は、はいッス……?」
葵の笑顔に誤魔化され、なんの話か聞き出せない龍臣だった。
店を出るのは予定外だった為、次は何処にしようかと三人は探しながら歩いていく。
「名前、久場くんだっけ? 喧嘩強いんだね。葵からも聞いてるよ?ピンチの時に颯爽と現れてカッコよく助けてくれたって。格闘技かなんかやってた?」
「言い方美化し過ぎじゃない?」
「あー……格闘技とかやってないんすけど……不良友達とつるんでたら巻き込まれたりして、そっから喧嘩慣れしていきました……ッスね……」
「根っから不良ってわけじゃないのか……」
「ていうか久場くん顔赤くない?」
並んで歩いていた二人が龍臣の顔を見上げると、頬がほんのりと赤みを帯びていた。
受け答えもはっきりしていない様子だ。
「久場くん、酔ってる?」
「え?なんで?まだ飲んでない……」
里香が言いかけたところで二人はさっきの店での出来事を思い出す。
龍臣は目の前でルシアンを2杯、一気飲みしていた。
「あっ……」
「あ〜……そりゃ酔っても無理ないわね」
レディキラーの中でもアルコール度数が高い方に入るルシアンを2杯も飲めば、した酒に強くない人なら酔って当然と言える。
「これはもうお開きにして送って行った方がいいわね。葵はこの子の家分かる?」
「うん。近所だから」
「そう。じゃあ後は頼むわね。久場くんには今度お礼するって言っといて」
「いいけど……一緒に行かないの?」
「葵アンタね……」
里香は龍臣に聴こえないように葵に耳打ちする。
(二人っきりにしてあげるって言ってんの。なんならそのまま持ち帰っちゃいなさいよ)
(なっ……するわけ無いでしょそんな事!)
(そう? 気になってるって言う割に彼の事話してる時のアンタ、随分楽しそうだったからてっきり好きなのかと)
(だからそういうのじゃないから……)
(なら私が持って帰ろうか?)
(……わかった。私が送る)
里香が龍臣を襲うわけがない。分かっていても葵は彼が他の女の子と帰る姿を想像したくなかった。
それがどういう意味か、自分の心に目を逸らして。
「じゃ、今日はお開きって事で。ごめんね久場くん、呼んでおいてすぐ帰っちゃって」
「いえ全然……むしろ気を遣ってもらってすんません……あ、せめて途中まででも送って……いや須藤先輩いるから……できたら一緒に行くとか……どう行きゃいいんだ……」
「え」
龍臣の提案に里香は唖然とした顔で葵を見るが、「そういう子だよ」とアイコンタクトで返され、視線を龍臣に戻した。
里香はまだ龍臣の事を葵を狙ってる男だという疑いを消していなかったのだが、こちらを本気で心配してる様子に驚かされた。
酔ってるから何を言いたいのかまとまってないのはカッコ悪いが。
呆れて笑ってみせた里香は独り言をつぶやく龍臣の肩に手を置いてこちらに目を向かせる。
「私の事は気にしなくていいから。気遣いだけ貰っとくね」
「……大丈夫スか?」
「駅降りたらすぐだから平気よ。葵の方をお願いね。それじゃまた大学で」
「うす。お疲れ様です」
「おつかれー。葵もまた飲もうね」
「うん。お疲れ様」
去っていく里香を見送り、龍臣と葵も家の方へ歩き出した。
二人きりになり、葵は早速龍臣の介抱を始める。
「久場くん、大丈夫?水買ってこようか?」
「……大丈夫スよ。こんくらい平気ッス。あれ、須藤先輩明るくなりましたね」
「久場くんそれ自販機」
思ったよりも重症のようだと葵は認識を改めた。
「大丈夫、大丈夫ッスよ」
「酔っぱらいはみんなそう言うのよ。ほら電柱気をつけて」
「んぇ」
おぼつかない足取りの龍臣を見ていられず、電柱にぶつかりそうになるのを彼の手を引く。
(あ……)
思わず手を取ってしまったが、葵は自分から男の人に直に触れてしまった事に後から気付いた。
以前なら自分からそんな事はしなかったし、やむを得ずやるとしてもすぐに手を離しただろう。
けれど、今は不思議と悪い気がしなかった。
「もうすぐ着くから頑張って」
「うううっす!」
「声が大きい」
「うーす……」
龍臣が敬礼しながら急に大きな声を出すので葵が人差し指を立てると、彼はそれを真似して人差し指を立てて小さく返事を返す。
いつもなら居てくれるだけで頼もしい男の龍臣が、まるで大きな子供のように可愛らしく見えた。
そうして歩くうちに、龍臣の住むアパートへと到着。
部屋の鍵を開けようとするが手元がブレまくる龍臣を見かねて葵が鍵を回して部屋へと入った。
「久場くん、何か飲み物ある?飲んだ方がいいよ」
「冷蔵庫に水があります……」
「持っていくから座ってて」
龍臣はミニテーブルの前で座布団に大人しく座った。
冷蔵庫を開けると500ミリリットルのミネラルウォーターが入っていたので、葵はそれとコップを棚から取って龍臣の前で座布団に座る。
「はい、お水。あるやつ適当に開けたよ」
「あざっす……」
コップに注がれた水を一気に飲み干していく。
「少しは気分良くなった?」
「うっす……すいません送ってもらった上に……」
「気にしないでいいのに。いつも送ってもらってるのは私の方だもの。これくらいじゃ足りないくらいだよ」
「いや……迷惑掛けっぱなしじゃ男が廃るンす! なんでも言ってくださいよぉ! お礼したいっす!」
「まだ結構酔ってるね?」
頬が赤みを帯びたままの龍臣はテレビに向かって叫んでいた。
「お礼と言われてもね……」
酔っぱらいの戯言を真に受ける必要はない……のだが、実は葵は水を飲ませてからある欲求を龍臣に抱いていた。普段なら断られそうだが、今ならいけるかもしれない。
黒い髪を見つめて、ダメ元で言ってみる。
「じゃあ……頭、撫でさせてくれる?」
「へ? 頭? んー…………ん! 好きなだけどうぞ!」
龍臣はあぐらのまま身体を葵の方へ傾けて頭を差し出す。
彼を撫でたくなるこの衝動を、葵自身も説明は出来なかった。ただ、隣に座って彼を見つめた時、どこからか突然湧いた欲求だった。
「ありがとう。それじゃあ遠慮なく……」
「ん〜」
龍臣の黒い髪の毛をそっと右手で撫でる。
大人しく撫でられる龍臣の姿はまるで大型犬のようだ。
「傾いたままだとつらくない?横になっていいよ?」
「じゃあ遠慮なく」
龍臣はそのまま葵の膝を枕にして床に寝転んだ。
普段の彼なら間違いなくやらない行動と酔った様子が愛らしく、葵は思わず笑みを溢した。
前髪をどかして彼の顔をあらわにしながら「意外とまつ毛長いんだ」とか「髪も伸びてるみたいだけど切るのかな?」なんて発見を楽しんでいく。
(目つきが悪くて顔が怖いって自分でよく言ってるけど、こうして目を瞑ってる顔はむしろかわいい……というか、普段の顔だって悪くないような……って私何考えてるの!?)
我に返り、顔が真っ赤になる。どうやら自分もだいぶ酔っていたのかもしれない。
思い返すと男性に膝枕をして頭を撫でるという今までの自分ならありえない行動をしていた事に気がつく。
バーで男に肩を掴まれた時は触れられる事をひどく嫌悪していたのに。
すぐに離れようとしたが、いきなり動けば龍臣の頭が落ちるのでそうするわけにもいかない。
「く、久場くん。もういい──」
「やっぱこれハズいッスよ! なんだこれ! 頭撫でられんの初めてだわよく考えたら」
撫でるのをやめようとした矢先、我慢できなくなった龍臣が足だけ暴れさせると右膝がミニテーブルにぶつかった。
衝撃で蓋を開けたままのペットボトルが倒れる。
「オギャー!」
流れだしたミネラルウォーターが龍臣の頭目掛けて滝のように降り注いだ。
龍臣は慌てて飛び起きる。
「びっくりした……!」
「そ、そうだね」
葵はペットボトルを立て直すが、既にほとんど流れたしてしまい、床に広がっていた。
龍臣が雑巾を持って床を拭いている間、葵は濡れた座布団をベランダに干していく。
不幸中の幸いだった事は溢したのがただの水だった事だろう。床の汚れになるものでなくて良かったと二人は安堵した。
「あー……疲れた」
掃除し終えた龍臣はうつ伏せになってベッドに寝転がった。
まだ葵は家にいるが酔ったままの彼は自宅だからとお構いなしだ。
「あ、久場くん。ちょっと頼みが……ってもう寝ちゃってる……」
一瞬で寝落ちしてしまった龍臣に葵は「どうしよう……」と小さく呟くのだった。
翌朝。龍臣は眠りから覚めたものの、寝ぼけたまま上半身を起こした。
「あれ、いつ寝たっけ……つーか今何時……」
いつも枕元に置いているスマホを左手で手探りで探していると、何かを掴んだ。
「ん?」
丸くて、柔らかくて、大きい。手のひらに収まらないソレのあまりに心地よい柔らかさにずっと触っていられそうになるが、これは間違いなくスマホではない。
「んっ……あっ……」
小さな音が聞こえ、寝ぼけ眼を擦って左手を見る。
そこには何故か大学の先輩、須藤葵が隣で眠っていた。
「うわっ!?」
掴んでいたのは彼女の双丘だとわかった瞬間、弾くように左手を離した。勢いのあまり手の甲を壁にぶつける程に。
「〜っ!」
「ん……あ、おはよ。久場くん」
「お、おはようございます先輩……っていうかなんで俺んちにいるんですか……あとその服俺のですよね……」
「……覚えてないの?」
葵は龍臣の持っていた水色の長袖Tシャツを着ており、パンツは何も履いていないため生足がさらけ出されている。
思わずその姿に見惚れそうになるが、それよりも先に昨日の出来事を思い出すために頭を捻った。
「確か……先輩に飲みに誘われて……チンピラ殴ったのは覚えてますけどそっからの記憶が……」
「その時飲んだお酒、すっごくアルコールが強いやつでね。2杯でも久場くんが酔うには十分だったみたい」
「ってことは俺は酔った勢いで須藤先輩を家に……? まさか……!」
状況を読めた龍臣は青ざめると、葵を越えてベッドから飛び降りて両手と頭を床に叩きつけた。
「すいませんでしたああああああ!」
「久場くん!?」
「俺はっ! 俺というやつは! とんでもない事を!」
頭を何度も床に打ち付けて謝る龍臣。
酒に酔って記憶のない自分。自分の部屋にいる自分の服を着た葵。そして一緒に寝ていた二人。
状況だけ見れば考えつくのは一つ。
酔った自分が彼女を襲ったのだ。
「酒なんぞに溺れて! 守るべき人に手を出すなんて!」
「久場くん落ち着いて!」
「こうなってしまった以上、俺は責任を取って────」
「えっ……せ、責任!?」
龍臣が真剣な眼差しで葵を見る。
覚悟を決めた目だ。その力強い瞳に、葵は心臓が高鳴ってしまう。
(せ、責任を取るってプ、プロポー……っ、そ、そんなこと急に言われても困るし……でも……)
予想外の展開についていけず、思考が明後日に行きかけた瞬間、龍臣から言葉が続けられた。
「腹を斬ります!」
「それはいらない」
葵は文字通りバッサリと斬り捨てたのだった。
「久場くん話を聞いて。私は酔った君をここまで送っただけ。君は私に何もしてないよ」
「じゃあなんで俺の服着てるんですか……?」
「これは……その、水を溢しちゃったの」
ペットボトルの水が溢れた際、龍臣の頭だけでなく葵の衣服も濡れてしまっていた。
酔っていた龍臣はそれに気づかず、葵が言い出す前に眠ってしまった為、やむを得ず龍臣の服に着替えて泊まらせてもらう事にしたのだった。
男の人の服を着ることや男の部屋に泊まる、ましてや一緒のベッドで寝るなんて我ながら大胆な事をしたものだ。
思い返すだけで身体が火照ってしまうほどに。
「ご迷惑おかけしました……」
「いいの。私も楽しかったから」
「え?」
改めて土下座した龍臣だったが、引っかかる葵の返しに顔を上げる。
「久場くんは私に何もしてないけど、私が久場くんに何もしてないとは言ってないよ?」
「へっ?それってどういう‥…」
「ふふっ。内緒」
「ちょっ、それはないでしょ!?」
「さ、朝ごはん食べよっか」
「先輩!?」
「お酒飲んでなければ覚えていられたのにねー」
自分のTシャツを着ていたずらっぽく微笑む女神に「もう酒は飲まない」と誓う龍臣だった。