4.凡凡に婚約者はいない(前編)
##
王子の婚約者といえば、公爵令嬢や他国の姫などが定石だろうが。この俺にはいない。できそうにはできそうだったのだが、例のごとく直前で白紙だ。別にあのときの婚約は互いの風除けが目的であったし、婚姻を前提としたそれほど重要でない婚約であったためあまり問題はなかった。ただ、俺の面子がぴしゃりと潰れただけだ。
他の兄弟にはもちろんいる。兄のアルスタは昔から懇意であった公爵令嬢と結婚しており、さらには側室までできそうだ。ディーンは隣国の姫と婚約しており、卒業後、結婚するらしい。一番幼いラスバでさえ、そのような関係を持っている。本人は乗り気ではないらしいが、なんと魔国の姫に大層気に入られているようだ。
対して、俺にそのような浮いた話はない。まあ色々と転がり込んでは来るのだが、全て断っている。俺は、大体の苦労は王族だから、と片付けているが、結婚に関しては譲る気は無い。政略結婚くそくらえだ。恋愛ごっこをするつもりはない。
この世は何かを犠牲にして何かを得ていると言うし、きっと俺は恋愛という行為を犠牲にしてこの『平凡な王族』というものを得たのだろう。それに、今のままでも十分に幸せだ。別にそんなものは必要ない。いらない。あってはならない。
#
「あら、タント君。散歩?」
ある日、タントが自室から書斎までの廊下を歩いていると何者かに話しかけられた。
「ジュリべーナ義姉様」
ジュリべーナ・クルニスもとい元シギナ公爵家令嬢ジュリべーナ・シギナ。そして、兄アルスタの妻である。その彼女がタントに声をかけたのだ。
「ええ、まあ、そのようなものです」
彼女とは顔を中々合わせない、ということはなく、中々の頻度で会っている。それでも、あまり、親睦が深まらず、未だに他人行儀のような態度を取ってしまう。それでも、お互いは仲良くしようと努力しているのだが、どうしてもぎこちない雰囲気になってしまう。
「私もちょうど体を動かそうと思っていたの。よろしかったら、ご一緒しても?」
本当はこれから書斎で本でも漁ろうと思っていた。
しかし、散歩と返事をした建前、いまさらそんなことは言い出せない。
「僕は構いませんよ」
断れ!と目に力を入れて睨みつけてくる彼女のメイドを尻目に、タントは軽く息を吐きながら答えた。
「では、タント君について行くことにします」
「そうですか」
中庭に出るまで、二人の会話はそれっきりだった。中庭に出た後、ジュリべーナが口を開く。
「少し疲れました。あそこで少し休憩しませんか?」
ジュリべーナが指を差した先にはちょうど二人用のテーブルと椅子があった。
「いいですよ」
タントは黙って椅子に座り、ジュリべーナはふう、と汗をハンカチで拭いながら座った。
「タント君は歩くのが速いですね」
実際、彼女らが並んで歩くことはなかった。常にタントが一身ほど前を歩いていた。ジュリべーナが並ぼうとすると、加速し、必ず一身ほどの間隔を保っていた。しかし、ジュリべーナが止まると、彼も気を遣うように足を止めた。
「女性と共に歩くことなどそうそうないことですから、気分を悪くされたのなら申し訳ないです」
「いえ、こちらこそ、気を遣わせたみたいで......」
「………」
そこから数分の沈黙。次に聞こえた声はメイドの「失礼いたします。お茶が出来ましたので淹れさせていただきます」だった。ジュリべーナはお茶を一口飲み、大きなため息を吐いた後、メイドを下がらせた。そして、タントの方へ向き、真剣な表情で話しかけてきた。
「タント君に伺いたいのですが、御付の者はどうしたのですか?」
ジュリべーナはタントに彼の従者の姿が見えないことについて聞いた。
「そうですね。彼女には今、自室の掃除をさせています」
「そうですか。では、もうひとつ。タント君は、今幸せ?」
突拍子もない質問。いきなり、話が飛んだことにタントは眉をひそめた。
「失礼ながら、質問の意図が分かりません。新手のサロンの勧誘ですか?申し訳ないのですが─「今はそんなふざけた話をしているのではありません」
冷たく低い声がタントの耳を貫く。鋼鉄の宰相と呼ばれるシギナ公爵譲りの威圧感だった。
「質問を変えましょう。私の夫のアルのことや、ディン、ラスのことを貴方は一体、どう思っているのですか?」