ジルベールの付け火⑨
イーサン視点でお送りします。
死んだ魚が腐るように、志が死んだ人間も腐っていく。
その事を知ったのは憲兵になってからのことで、俺の胸に深く刻み込まれている。
家業もない地方都市の平民の子であった俺は特にしがらみもなく憲兵学校に入学し、憲兵の職についた。
憲兵というのは聖職だ。
悪を敷き、善を成す。
弱きを守り、強きを挫く。
法を遵守し、秩序を守る正義の味方————と聞かされていた。
だが、現実は違った。
憲兵という仕事は表向きは秩序を守るために力の行使を許された立場であるが、それはあくまで下々に向けたものであって貴族や大商人、高位の聖職者などには力を振るえなかった。
飢えに苦しんで窃盗した子どもを意識がなくなるまで殴れば褒め称えられるが、私腹を肥やすために平民の財産を奪う貴族に対しては物言いすら許されない。
理想としていた正義の味方はそこにはいなかった。
そして俺もまた正義というものを持ち合わせていなかったから、安易に風潮に従う生き方を選んだ。
幸い生まれつき格闘の才能があったため、荒事の際は重用され、トントン拍子に出世し、二十歳を過ぎる頃には有力貴族の領地で中隊を率いるほどの地位を得ることができた。
なまじ上手く人生が進んでいたせいで、俺の腐食も早く進んでいたと思う。
長い物に巻かれ、正義が何かなど考えることもなく、憲兵という仕事を食うための手段としか考えなくなっていった。
そんな俺に転機が訪れたのは、当時、王子だったジルベール殿下から盗賊討伐の命令が下った時のことだ。
王族直々の命令なんて珍しいと思ったが、何も疑うことなく指定された盗賊のアジトに向かい、目の当たりにした光景に衝撃を受けた。
ジルベール殿下が大貴族であるサイサリス侯爵を叩きのめし、その郎党も全員拘束していたからだ。
たしかに大貴族であろうとさらに上の立場にある王族の力でなら罪を問い、罰を与えられる。
王子の行動力に感服しつつ、悪徳貴族が捕まったことに溜飲を下がらせていた俺を、王子は戒めた。
これは本来、そなたがやらなければならない仕事だった、と。
どうしようもない恥ずかしさと悔しさが押し寄せてきて、間の抜けた反応しか返せなかった。
モヤモヤと残る感情は消化しきれず、何日も何日も胸の中を蠢き続けた。
しばらくして王都から新聞が届けられた。
紙面を見て驚いたのはジルベール王子のサイサリス侯爵への処罰がまるで放蕩王子の悪行のように書かれていたからだ。
私は事実を知っている。
サイサリスは処罰を受けねばならなかったし、それができたのはジルベール殿下の勇気ある独断のおかげだった。
殿下によって解放された人々は故郷に戻り、平和な暮らしを取り戻した。
なのに新聞に書かれていることはまるで違っていて、世の不条理は王族にまで襲いくるということを思い知った。
この時の俺の複雑な気持ちは、今でも原動力となっている。
事実を捻じ曲げるマスコミに対する不快感。
偉そうに説教をしてきた王子が罵られていることに対する暗い喜び。
それでも拭いきれない、正義の味方への憧れ。
ジルベール殿下の俺への言葉を取り下げさせたかった。
「それでこそ憲兵である!」と認めていただきたかった。
二十歳を過ぎて、ようやく俺という人間に志が生まれた。
武芸を鍛え、心を引き締め、しがらみに囚われることなく憲兵としての責務を全うするように、つまり相手が誰だろうと法に基づき逮捕するようにした。
手段は選ばなかった。
舞踏会の最中に貴族を殴り倒したこともあるし、情事の最中に取り押さえ、着物も着せずに街中を引き回したこともある。
当然、そんな俺を煙たがる者がほとんどなわけで『狂犬』だなんて聞こえの悪い異名までもらってしまい、前途は暗いものだと覚悟していた。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありというもので、似たような志を持ちながらも行動に移せない者たちからは慕われ、可愛がられ、逆に出世のスピードは早まり、憲兵隊の花形とも言える王都守護の任を預かった。
そうやってがむしゃらに走り続けてきた結果が、正義を示してくれた恩人でもある主君の逮捕だなんて皮肉にも程がある。
「さすがは憲兵殿!!
あの凶暴な王をあっさりと片付けるとは!!」
童顔な新聞社の男が背中を叩いて褒め称えてくる。
なにが、あっさりなものか。
初撃を受け止めた時、こちらの剣が砕かれるとすら思った。
あの重い剣を片手で振り回す怪力。
もし利き腕を負傷していなければ、陛下は私を跳ね飛ばしジャスティンを殺せていただろう。
さらに驚くべきは頑強さと精神の強靭さ。
こちらの打撃も急所を狙って、一撃で楽にして差し上げようとしたのに微かに打点をずらして耐え抜かれた。
もし健在な状態で正々堂々とやり合えば、勝てたかどうか分からない。
意識を失われている陛下の膝の裏と首の裏に腕をかけて抱き上げた。
女人を抱くような姿勢がしっくりくるのは、陛下のお身体が小柄で華奢だからだろう。
端正な顔立ちといい、少女と見紛うお姿だ。
しかし、内に秘めた憎悪や怒りは俺なんかでは想像もつかない。
陛下は即位されてからもずっとマスコミに、それに煽られた世間に誹謗中傷を浴びせられ続けてきた。
その功績も認める者はほとんどおらず、ありもしない悪行をでっち上げられた。
俺も王都に来て間もない時期に、国王は支持するな、と周囲から言われたものだ。
事実、国王寄りの者達はマスコミの報道被害に遭うことが多かった。
初めてお会いした時は五年近く前だというのにあの頃からほとんど身体が大きくなっていない。
それが陛下のご苦労を偲ばせる。
「憲兵殿! もう、そんな奴、炎の中に投げ込んじゃいましょう!
自分でつけた火に焼かれるなら本望でしょうよ!
さあさあ!」
鬱陶しく話しかけてくる童顔の男を睨みつけて黙らせた。
不愉快極まりない。
こんな卑劣な男でも被害者である以上、責めることができないのだから。
「死なせてはなりませんよ。
ジルベール様は守るべき民を傷つけ、その財産に付け火した。
王族とて、無罪というわけにはいかない。
裁判によって正しき裁きを受けていただかなければ」
ジャスティンが部下をたしなめるように……いや、楽しみはまだ残っていると言わんばかりにそう言った。
その不快な笑みを打ち消したくて、言葉を発した。
「陛下がこのような蛮行に及んだのは、貴様らの報道のせいではないか」
俺が責めると同僚の顔色は青ざめた。
「余計なことを言うな! この狂犬!!」とでも言いたげに。
無理もない。
憲兵もまたマスコミには悩まされている。
どうしようもない悪党を聖人のように描き、それを取り押さえた我々を権力の狗などと愚弄する。
ただそれは法律違反ではない。
むしろ圧力を掛ければこちらが重罪となってしまうほど、不気味にこの国のマスコミは手厚く護られている。
庇護の元、奴らは増長し不甲斐なき我々を嗤っている。
「私たちの自業自得というわけですか?」
「どのような理由があれど、人死にが出るような事件を起こしたならば、その者は罪人だ。
しかし、自分たちの行いが、聖人君子を邪智暴虐な犯罪者に変貌させたことを忘れるな」
怒りを込めた目で睨みつけたがジャスティンは笑みを絶やさなかった。
それどころか俺の耳元でこう囁いた。
「その邪智暴虐な犯罪者を捕まえたのが自分であることも、ね」
奴の息がかかった耳を切り落としたくなった。
窓から建物を脱出した俺たちは気絶したままの陛下を憲兵隊の本部に連れていった。
憲兵隊の本部には有力者や政治犯等その者がいることが知られればその場所が襲撃を受ける可能性がある罪人を秘密裏に監禁する地下牢がある。
最低限の治療を与えた後に陛下はそこに放り込まれる。
その後のことは知らない。
俺は俺の責務を果たしただけだ。
この先の人生で俺は何があっても躊躇うことなく正義を執行できる。
しなくてはならない。
国王を……いや、理想としていた正義の味方をこの手で裁いてしまったのだから。




