金の糸
夜の寝静まった空気が好きだった。
誰も私の世界を邪魔はしない、そんな空間にいて、コンビニで買った、ビニール袋の中の缶二本がちゃぷんっと水を揺らいだ音がする。黒いアスファルトの道路はヒールの音を際立たせて、たまにある電灯で滑らかに、無機質に照らされる。さっと私の髪を撫でて過ぎ去る秋風。ほんの少し冷える。さぶいなぁ、と腕をさすって、服が擦れる音がする。そうしていつも呑んでる場所へと足早に歩く。
そこは、公園だ。閑静な住宅街の中にぽっかりと空いた小さなグラウンド。そこにあるブランコは金属の音をキコキコと小さく響かせる。昼だったら閑散として寂しい公園も夜なら秘密基地みたいだった。
この秘密基地を見つけた夜から、私はバイトが終わった後に必ずアルコールが入った飲み物を持って訪れるようになっていた。
一人でブランコに乗り、キコキコと。
缶をのコルクをぷしゅっと。
喉に流し込みゴクゴクと。
そんな夜が好きだった。
でも、今日は違っていた。訪れた公園には見知らぬ誰かがいた。ゆらゆらと影に見える誰か達。その中心にいる人を囲っていた。
目を惹いた。
囲まれた一人は金色の髪をして、宵闇に美しい色を際立たせている。周囲の影とは違い際立つ光は煌々と輝いていて。それは金色の糸。私の目にはほんのり灯った、淡い光で。
私は公園の草むらにそっと隠れて影たちの動向を窺った。
――おい、やんのか。
――うっとうしぃんだよ、てめぇ。
影たちは中心にいる金髪に乱暴な言葉を次々とぶつける。が、金髪は何も返さず、ふっと鼻で笑うだけだった。そうして次に近づいた影に向けて握った拳を振りかざす。
私は目をつむった。
痛々しい音が続き、誰かが誰かを殴る音が鼓膜を振動させる。その間にもいろんな言葉が通過する。痛い、とかではなくって、イライラしてうなっている声音。それは獣そのもの。私がその場に居合わせているのが違和感を覚えるほど世界がまるで違って聞こえてくる。
きっとそれは夜の静かな世界じゃない。血と暴力の世界。痛覚や理性がぶっとび、向けられる暴力は買うのが当たり前。私にとってのファンタジーが耳を通して伝い、終わりまでを聞き届ける。
打撲音が終わると、そっと瞼を開けた。痛々しい血を見るのが嫌でうっすらと。
するとそこには金髪だけが立っていて、他に囲っていた影達は痛そうに地面に転がっていた。金髪は口から滴る血を手の甲で拭うと、歯を見せ笑った。ははは、と懐かしくも爽快な笑い声が聞こえた。金髪は影の足を蹴り上げると、痛そうにまた影たちはうめいた。
「喧嘩売ったお前らが悪い」
その第一声で私の記憶は明瞭になる。
影たちは痛みに呻きながら、金髪に「覚えてやがれ」と捨て台詞を吐いて、仲間たちと共に痛覚に苦しみながら逃げ去った。ゆらゆらとゆれるそれらは金色の光に充てられて逃げかえったように見えた。
影たちが隣を通り過ぎて、草むらからようやく私は出ることができた。
金髪の彼に駆け寄る。煌々と輝き続ける彼の金色の糸は私の小指に伸びてくる。それぐらい私は彼の金色に惹かれていたのかもしれない。
「サトちゃん」
金髪の男の子、サトちゃんは金色の光をまき散らしながら振り返った。
「もしかして……ヒナ姉ちゃん?」
「そうだよ。久しぶり」
ちゃっぷん、と缶の中が揺れる揺れる。
「こんなところで出会うなんて偶然だね」
私は昔彼の手をとって、引いたように、金色の糸がぐるぐるに巻かれた彼の手をとった。
サトちゃんは、私の手を見て気恥ずかしそうに俯く。恥ずかしくなるとすぐに顔を俯かせるサトちゃんの癖は変わらなかった。ただ金色の髪とうつむいたときにちらりと見えた耳のピアスはあの頃と随分違っていた。
サトちゃんと私はお隣りどうしだった。いわゆるご近所さんの息子さんで、親同士が仲良しで、それでよく遊んでいた。
今にして思えばあれは遊んでいたより、私がサトちゃんを困らせていた、というのが正しかったのかもしれない。私の親は清楚で可憐な女の子が好きだったから、私が男の子みたいに喧嘩をすることや、冒険すること、虫を捕まえることといった無茶をする『私』はあんまり好まれなかった。だから親の前ではいつも清楚ぶっていた。
でも、サトちゃんといるときは別だった。サトちゃんはどんなわがままも、どんな無茶も、どれだけ引きずり回しても怒らなかった。いつだって困った顔をして、「ヒナ姉ちゃんあぶないよぉ」と涙声でついてくるだけだった。私はそんな彼のことを手を引いて、「大丈夫」と引きずり回していた。
サトちゃんがいるときだけはやりたいこと全部できて、私の本当の性格を全部さらけ出せた。
それは小学生の頃の話。私が小学校五年生で、サトちゃんが二年生。私が六年に上がった時には、サトちゃんとはもう遊ばなくなっていた。知らず知らずのうちに縁遠い存在になっていて、気づけばお隣さんはどこかへ引っ越していた。せめてバイバイくらい言いたかった、とその頃は悪態をついたものだ。
そして現在、公園の宵闇の中、私達は再会した。
「サトちゃん変わったね」
金髪をなでた。すると、サトちゃんは私の手を優しくのけた。
「悟」と、強く主張する。
「でも、私のこともヒナ姉ちゃんって」
「めんどくせぇなあ。日向、これでいい?」歯を剥いて、八重歯が見える。唇が切れて鮮血が伝っていた。体の節々に痛々しい青譚が見て取れる。
「日向だって、変わったじゃねぇか」
「そう?」
全身を見ると、確かにファッションセンスが昔の私とは段違いに変わっていた。今は清楚なワンピース。昔はTシャツに半ズボンが常だった。それが一番動きやすくて、一番無茶をするのに向いていた。
「確かに変わったかも。でもさ、喋り方とかは変わんないでしょ。ほら」と私は自分を指さすけど、サトちゃんはむすっとした。
「別に」
「別にって、かなり変わったよね。ほらほら、昔はサトちゃんもっと情けない喋り方だったしサトちゃんよりは変わってないでしょ」
なっ、と面をくらうサトちゃん。
「あ、昔のサトちゃんに戻った」
余計むすっとして、サトちゃんは眉を顰める。こんな怒り方はしなかったし、乱暴な口調も暴力もサトちゃんらしくない。でも、あの頃から随分時間が経っていて、サトちゃんの変貌にも、時間が経ったから、そうだよね、だけで納得できてしまった。
それから会話が捗った。
「サトちゃん何歳になったの?」
「18」
「私は21」
「聞いてねぇし」
「知りたそうな顔してたから」
と、言うと、なっ、とまた驚くからついついあの頃のテンポでからかってしまう。
今はなにしているか、とか具体的なことはそれぞれ言わなかったけど、あの頃纏っていた空気はそのままな気がした。関係性はあの頃のまま。それは私達の時間があの頃のまま止まっていたからかもしれない。
つまらなそうにしているわりにサトちゃんは何でも答えてくれた。そのたびに揺らぐ金色に目を奪われそうになる。昔の彼とは違う喋り口調や髪の色は私の憧れたものと似ている。
「日向はこんな時間に何してんだよ」
サトちゃんからの初めての質問に私は驚きつつも手に提げていた白いビニール袋を持ち上げた。また、たっぷん、と中の液体が揺れる。
「晩酌、かな」
「は? こんなとこで?」
「別にいーじゃん」
「良くねぇよ。ここ、あぶねぇし」
「大丈夫大丈夫」
「とりあえず家までおくるから今日は帰れ」
私は背を押されて、公園の外まで押し出される。まだビニール袋には缶が残っていて、体にアルコールもいれていないのに、いつもよりも体に温もりを感じた。
いつも感じていた夜の世界は変わっていなかったのに、どこか温かい。風の音がそよそよと。そして金色の髪が夜空から落っこちてきた星ように隣に立っている。
仕方ないなあ、と私は言いつつもサトちゃんに押し返されることはそんなに悪くないと思っていた。なによりサトちゃんを見た瞬間、運命だって感じてしまった、そのことがなによりも気分を良くしていた。
それから私は懲りずにバイト帰りに公園に寄り続けた。すると決まってサトちゃんは公園で待っていてくれた。私を見るとむすっと顔をしかめて、だから危ねぇっていってんだろ、とあきれられた。でも、晩酌したいし、サトちゃんの金色と出会うことが嬉しかったから夜の公園に通い続けた。
サトちゃんと出会ってから夜の闇が特別に光っていた。
ブランコに座ってキコキコと。
隣にいるサトちゃんもブランコに乱暴に座ってギコギコと。
サトちゃんの姿は不格好。派手な金髪に、今日はブルーのカラコンをしている。肌には痛々しいほどの喧嘩の跡。そのたびに男の子だって気づかされる。
昔はサトちゃんの前に立って喧嘩をした。男の子を打ち負かし、青譚や切り傷を作って帰り道で両親にばれたらどうしようとサトちゃんに泣きついたこともあった。
でもね、今は少しだけ違っていて、感じているものやサトちゃんに向けた感情があの時よりもより深く温かいものになっていて、サトちゃんよりも大人になって守りたいなと感じていた。
「お酒美味しい」
私はお酒を呑む。そうしてサトちゃんの分もなんとか子どもから大人になろうとしていた。これはきっとサトちゃんに会ったから、そういう気持ちが追加されたのだろう。
「なんでいつもくんだよ」
「お酒、呑みたいから」
灰色の缶をぐいっと傾けて、金色の液体を流し込む。そうすることで金色は私の体に溶けていく。
両親からしたら信じられない光景だろう。清楚な私はバイト後にこうして公園で晩酌をしているなんて。
えへへぇ、飲む? ともうひと缶のコルクを開けてサトちゃんに促す。サトちゃんは、のんだくれ、と揶揄しながらも受け取ってくれた。
「いけない。サトちゃん未成年だ」
「悟」とサトちゃんはいつも通りに指摘するとぐいっと一気にアルコールを体内に流し込んだ。
「今どきお酒なんて小さいころからみんな呑んでんだろ」
「さっすがフリョ―」
けらけらと笑っているとサトちゃんは意味深にうつむいた。照れているのか、落ち込んでいるのか分からない。
秋の風は私達の間を縫っていく。
「ヒナ姉ちゃんはこっちにこないでほしい」
ろれつが少し回っていないサトちゃんに「どうしたの?」と思わず返してしまう。
「俺さぁ、いろいろあってヒナ姉に会えなくなって結構寂しかったんだ。あの時は俺の家はごたごたしていたし、別れを言う暇もなかった」
ごくりと金色が混じった唾をのんで、静かに揺らめく金髪を見た。
ブルーの瞳は偽物染みていたけど、格好悪くはなかった。むしろ金髪にブルーは似合っていて、サトちゃんの顔の魅力を存分に引き立てていた。そこにアクセントとしての喧嘩跡は息をのむほどの美しさが内包されていた。
「俺、いろいろあって学ねぇし」
私の瞳は金色で溢れていた。
「金髪に染めたのは、なんだかむしゃくしゃしてさ。で、知らねえ間に喧嘩おっぱじめてて、知らねぇ間に敵が出来て。気づいたらこんなになってたし。
でも、このあいだヒナ姉ちゃんに会って、これは運命だって。これまで喧嘩してたのはヒナ姉ちゃんを守るためじゃないかって気づいたんだ。まさに赤い糸?っていうのかな。赤い糸の意味知らねぇけど。やっぱ、ヒナ姉ちゃんに会えてよかった」
「……サトちゃん」
私は手に持っていた缶を滑らせ地面に金を浸らせた。そうしてどんどんこの夜の闇に私達の糸が絡まっていく。
酔った勢いで私は「I belong to you. 」と言ってしまうがサトちゃんは首を傾げた。「そっか分からないよね」と知っていた事実を受け流す。意味は教えない。
「私も一緒。こうして呑んでるのはね、社会とか親とかの圧力に反抗するため。夜に呑んでたのは危ない目にあいたかったのかもしれない。清楚な私を壊したい。誰かに歯向かいたい。
私だって、サトちゃんみたいに金髪に染めたい。カラコンしたぁい。ピアス開けたぁい。
そうしたらさ、危なっかしいサトちゃんを守れるんじゃないかって。私もあった時初めて誰かに歯向かいたいってなってた感情にサトちゃんを守るって意味を付け足すことができた」
ブランコから立ち上がり、私は月に見上げる。するとキコキコと隣からもブランコが揺れる音がする。見ればブランコの下にはころころと缶が転がっていて、金色の水浸しになっていた。私の目の前に大きな金色の影が立っていた。
星のように輝く耳のピアス。
金色の鮮やかな髪。
夜の音は静かで、サトちゃんの呼吸音や心音が聞こえてくる。血の鉄臭い匂いとサトちゃんの夜の香りが匂う。
サトちゃんのピアスに手を伸ばす。冷たい金属の温度が伝う。そこから糸がくるくると。私の体に巻き付いて離れない。
「俺は自分が子どもだって思ったことも、自分のことをヒナ姉ちゃんを年下だと思ったことも、友達なんて関係だとも思ったことも、ない」
大きな体躯が私をそっと抱きしめる。ちょっと照れくさくって震えていた。どくどくと心音が私の心音と混じりあう。すると私に巻き付いていた金の糸が今度は二人をぐるぐるに巻き付かせた。
「ずっと、もっと、特別な」
それは昔思っていたのと違った、変わらないサトちゃんの想いだった。
私は心の奥底でふふっとほほ笑んで抱きしめ返そうとした。
と、その時すぐにサトちゃんは離れる。首を重そうにもたげて、照れくさそうに金色の髪をいそいそと撫でる。ちらちらと私を見るその瞳には羞恥と恋慕。私には重くって、かわいい金の糸。
「いや、その、変な気持ちとかそういうのじゃなくってその……」
サトちゃんが言い訳するので、私の返答はお預けにした。
サトちゃんのえっちー、と代わりにからかって、なっ、としかめっ面するサトちゃんをおがむ。
私は手のひらに巻き付いた金の糸をほどくこともきつくすることもせずに、握りしめるだけにする。
この先はずっと先の人生においておこう。今はまだその時じゃないんだ。
「……やっぱり、まだまだ子どもだね。私達」
私はけらけらとアルコール交じりの息を吐きつつ笑ってあげた。
それから二人で缶を近くのコンビニまで捨てに行き、サトちゃんがいつもどおり家まで送ってくれた。私の両親には見つからないように二人でこそこそっと。秘密基地の公園から家まで。その時小指を差し出して、私はなぁにも知らないサトちゃんに英語を教えてあげた。
「これ英語でいう秘密の合言葉なんだ。
『I belong to you.』」
うんうん、とサトちゃんは興味深そうに聞いていた。私の言うことならなんでも聞いてくれそうな勢いだった。
「だから、私が『I belong to you.』って言ったらお返しに、こういって『You belong to me.』これが合言葉」
サトちゃんは「ゆーびろんぐつーみー?」と可愛らしく発音するものだからけらけらとまた笑ってしまった。それから何度か合言葉を練習して、サトちゃんの発音が様になってきたところで私の家が見えてきた。
夜の住宅街にはところどころだけどまだ部屋の明かりがついているところがあって、その光で見つからないように息を潜める。
ここらへんでいいよ、とサトちゃんに言っても、彼はいつも通りにはひいてはくれなかった。
名残惜しそうに私を見つめている。それは何年も前に起こりえた、何とも言えない別れからの愛らしい瞳。
でも、もうお互いあんな別れ方はしない。
「サトちゃん。I belong to you.」
私はあなたのもので。
「あっ、You belong to me.」
あなたは私のものだから。
また明日も、この先も、ずっと、私はサトちゃんと一緒にいよう。
そう、私は誓ったんだ。