3月某日:桜草
春。
嫌いだ。
好きだという人に口を差し挟む気はないが、それでもやっぱり、多分嫌いなのだ。
例えば受験、そこにある一枚の板や紙を前に破顔する人と泣き崩れる人を見る。仕方ないことだけどあまり好きじゃない。まあこう思うのはたいてい受からなかった側なんだろうけど。
それと最近、花粉症がひどい。もうマスクとティッシュだけで過ごすのは無理なので、薬局で薬を買う。年を取ったらもっとひどくなるんだろうか。宇宙服のような姿で生活している自分を想像してみる。…歩きにくいだろうなあ。
レジ袋を片手に、ぼうっとして家に帰る道を歩いていた。雨上がりでアスファルトがまだらに濡れ、空の雲が忙しない午後。人通りは皆無、苛々するような眠気がしている。
地元の小学校が近くに見えてきた。あの小学校を抜ければもうすぐ家に着く。帰ったら何を食べようかなどと考えていた時、あの甘い香りがかすかに風を伝ってきた。目をやると校門の前まで続く鉢植えの列、桜草がいっぱい咲いている。
少しの間、花の美しさに素直に見とれていた。そういえば春は卒業の季節、…別れの季節。花道をつくって旅立つ上級生を祝おうというのだろうか。俺は歩調をゆるめてそこをゆっくりと歩く。一歩ごとにふんわりと香りが満ちる。
桜草。
目立つ花でもなく、華奢で、折れてしまいそうだ。春の花の中では脇役なのかもしれない。
でも俺はこれが好きだ、本当の桜よりも。理由?それは…
「儚い花でしょ?」
そう聞こえたように感じて思わず周りを見回して誰も居ないことを確かめる。今はここにいるはずがない。ああ、小さな事なのに意外と頭から消え去らない。
それは、なんということもないある日の昼下がり―――丁度今頃のような季節だった。
小さい頃の春は、まだ楽しかった。
ツクシにタンポポ、ヒメオドリコソウにオオイヌノフグリ。目線が低いせいか、桜よりもそんな草花のほうが目に留まった。雑草だからいくら摘んでも怒られないことも魅力だった。1人でいるときは、よく好きなだけつんで花束にした。いつもうっとりとそれを眺めていたけれど、やがて花は手の中で生気を失い萎れてゆく。どんな花でもどれだけそっと花を包んでも同じことで、その度僕は性懲りもせずにがっかりし、萎れた花はその辺に捨ててしまった。
男子であろうと何であろうと草花は好きだった。ただ、花を見たり摘んだりしている所は誰にも見られたくなかった。子供ながらに恥ずかしいと思っていたのだろうし、大人は気にもとめずそんな花達を踏みつけ進んでいくのだ。「只の雑草なんか」、誰かにそう言われたこともある。
そんな言葉になんて答えたんだっけ。下を向いて照れ笑いしながらただ黙っていたかもしれない。
その日も僕は1人。大人がなぜかみんな忙しそうにしていて、外で遊んでおいでと家から追い払われた。友達は近所の野球クラブ。入りたいとは思うけど、言い出す勇気がない。退屈だなと思いながら公園のベンチに座ってゲームをしていたが、30分ほどするとそれにも飽きてきた。
疲れ目をこすり顔をあげると、日のあたる一角にオオイヌノフグリがたくさん咲いていた。僕は少し考えてからゲーム機を置いて近づく。例によって周りを警戒しながら早速しゃがんで花を眺める。それから無意識に一輪二輪と摘んでいった。左手に薄青色の小さな花の束ができてゆく。
十本摘んだ時、突然誰かの視線を感じた。
横に、顔も知らない僕と同じくらいの歳の女の子がその花束をじっと見つめていた。
驚きで声も出せなかった。
「その花束、きれい!」
え、とつられて左手の青い花束を見る。少女は僕ににっこりと笑った。無邪気、そうそんな感じに。こんな風に笑いかけられたことは無い。戸惑いを隠せないながらも僕は言った。
「好きなら、あげるよ。ほら」
花束を女の子に渡すなんて今じゃ考えられないけど、その時は自然と差し出せていた。花弁が揺れて、一枚散った。その子は、ありがとうと花を受け取ると何も言わずにただそれをじっと見つめた。
春独特の、間延びしたような時間が流れる。僕はただ首を傾げて沈黙を守った。様子をそっと窺うが横顔では何を考えているのかわかりづらい。
「もっと花が咲いてる所に行こう」
唐突に彼女はそう言ってふわりと立つ。純白のワンピースに紺色のソックスとカチューシャ。懐かしいような香が微かにした。
「いいけど…」
僕も立ちあがったが、疑問がひとつ膨らんでいた。
どうしてこの子は見知らぬ僕と一緒にどこかに行きたがるんだろう?
馴染みの空き地、小さな川岸の土手、あまり行った事のない陰気な公園。
大した距離もなく、どうでもいいような所を歩き回った。当然ながらどこにも雑草しか生えていない。もう少しマシな場所も足を伸ばせばあっただろうに、当時の僕にはそんな考えも無い。それでも彼女は不満も言わず、むしろ楽しそうについてきた。
花のある場所で、彼女は摘みはせずかがんでじっとそれを見つめた。何をしているんだろう、まるで花に暗示でもかけているみたいだなと僕が思ってしまうほどに。
彼女がそれを言い出したのは歩き疲れ始めたころだった。
「ありがとう」
「え、うん」
「…でも私も知ってるの、一カ所だけ。とてもきれいな場所なんだよ」
そのまま歩きだす。右手の花束が歩調にあわせて揺れている。僕はついて行くことしかできない。
その少女の足取りには全く迷いが無かった。そのまま竹林の中に入っていった時、僕は少し不安になった。昼でも薄暗い竹林の中は視界が悪く足下も滑りやすかったが、白いワンピースは旗のようにひらめいている。笹の葉が靴底で鳴るのを聞きながら、どんどん行くその旗を追う。
やっと視界が開けたとき、眩しさに目を細めた。何も言えずに立ち尽くす。
此処はどこ?
広い。グラウンドぐらいの平原に花がいっぱい咲いている。
菜の花のような黄色い花。
名前も知らない紫色の小花。
春もまだ早いのに緑鮮やかな木々。
僕が知っているタンポポなんかも点在して咲いている。
何より僕の目を引いたのは足元から地面いっぱいに咲いている桃色の花だった。
花は風に華奢な茎を揺らしてしゃらりとさざめいた。白や赤の混じっているものもある。僕はできる限り花を踏まないように注意して進んでいった。桃色基調のグラデーションが波のように僕を包んで、何とも言えない高揚感を感じた。
いつのまにか彼女がそばにいるのに気がついた。
「君、いつからそこにいたの?」
「さっきから、ずっと」
「ここすごいね、こんな所全然知らなかった」
「でしょう?」
その子ははにかんで笑った。
「誰でも根気よく探せば見つかるんだよ、ほとんどの人は探そうともしないけど」
「ふーん…この花はなんて言うの?」
「桜草」
甘い香りが飽和している。
名前はその時まで知らなかったがよく見る花だった。シンプルでいて淡い赤紫色の小さい花が細い黄緑色の茎にたくさん咲く。でもいつも見ているのは植木鉢に植えられている物ばかりであまり興味のない花でもあった。
それなのに何故か此処の桜草は誰が植えた風でもないのに地面から咲き誇っている。背丈も僕の膝くらいまである。それを聞くと少女は、ここではそう咲ける、それだけのことだよ、とだけしか話さなかった。僕も無理に聞かなかった。
僕は桜草を摘まずに、何も考えず時間を忘れて歩き回っていた。少女は僕に話しかけることもせず、少し離れた所で桜草を揺らしている。相変わらず感情も焦点も読めない目だ。その目に何か感情を灯してみたい、僕はそう思ったのかもしれない。
「あのさ、桜草って綺麗だったんだね」
思わずこぼれ出た言葉に僕は驚いたが、彼女はふり向いて嬉しそうに笑った。
「そうなの、きれいなの。それにさ、―――儚い花でしょ?」
「儚い?」
大人がよく使う言葉だけど僕にはピンと来なかった。
「ちょっと触れるだけで簡単に壊れそうに思える、少しでも雑に扱えば消えていまいそうな物のことだよ」
「ああ…」
僕がこの花を摘まず、踏まないよう慎重に歩いていたのはそのせいだったのだろうか。足元に咲く桜草を改めて見つめるとなんだか日差しに溶けてしまいそうな気がした。
「私はこの近所に住んでいないけど、時々この町に来ている。でもここは誰も知らない」
とても気に入っている場所、素敵な場所だと少女は言った。僕は頷いた。
「でも…いつもここには私しかいない。桜草は儚い花、誰かが入ってきてこの場所を変えてしまうのが怖かった。だから誰にも教えないことで安心してここにいられた。でも」
私にとってここは寂しい場所にもなってしまった、静かな口調で彼女は言った。
「でも、僕には教えてくれたんだよね」
「…うん」
微かな風の音ばかりが響く。僕はあたりの桜草を黙って見回した。
「ずっとここにいられたらいいのになあ…」
それは本心から自然に発した言葉だった。
「…えっ?」
その子ははっとした表情で顔をあげた。
「ほんとに?…嫌じゃないの?寂しくないの」
「ここが嫌い?なんで?…僕は桜草も荒らしたりしないしこのことは誰にも言わない。寂しいなんて、別にそんなことも」
「できるよ」
「え?」
「ずっとここに」
いられるよ。
「え…」
その少女は瞳を伏せた。ゆっくりと座り込むとわずかなためらいの後、1本の桜草を折った。
すっと差し出されたその桜草を受け取る。
「その花はあなたがここにいる限り萎れない」
小さい声なのに妙に凄みを含んだ声でその子はなんだか不思議なことを言った。でも僕にはよくわからない。なにか異質な物を感じ取り、思わず一歩後に退こうとしたとき、初めてその子と目を合わせた。
水の底のように透明で、そして淋しそうな目。
ここにいてほしい、声のない願いが僕を貫いたような気がした。急な目眩を感じる、視界が白く霞んでいくようだ。
僕は本当にわずかな間、今までの事を全部ふっと忘れそうになった。のろのろと惰性で口を動かす。
「僕は…ここに…」
言葉を継ごうとしたとき。
かすかに誰かの声、僕を呼ぶ声が聞こえた。あれは…僕の…
僕はいきなり我に返った。
「ぼ、僕は」
「あっちだよ」出会ったときのようにはっきりとした声で少女は告げた。
「そうだよね…。…忘れてね。ここのことも私のことも」
「え、でも…」
「ほら走って。帰るんでしょ?」
「走るって」
「早く!!」
意外なほど強い力で思い切り背中を押されて僕は言われるがまま走り出した。桜草を踏んでしまったが走った。僕を呼ぶ声が少し近くなった。僕がもと来た竹林に入るときに振り返るとその少女は笑って僕があげた花束を持っている方の腕を掲げ、振ってみせた。
「__さよなら」
僕は半ば訳の分からないまま、そのまま振り返ることなく公園まで全力疾走したのだった。
僕を呼んだのはクラブから帰って来た友人だった。
「なんだよ…息きらして走ってきて。公園で待ち合わせる約束だったのに来たらゲーム機だけしかないしずっと呼んでたんだよ。全く手間ばっかかせさせて…」
「ああ、…あはは、ありがとう」
「笑うなよおい」
間の抜けたようにいつまでもへらへらと笑う僕に友人は呆れていた。
家に帰ると出掛けていたはずの母が僕を居間に呼んだ。渋々入ると僕の知らない女性が座っていてお茶を淹れてもらっていた。
「こんにちは」
「こんにちは。ずっと前だから覚えていないかな、お母さんの友人なの」
「友達?」
「そう、こちらお母さんと古くから仲が良かった紫織さん。あ、手洗ったらお菓子お皿に出してきて」
「はいはい」
母も紫織さんもきちんとしているけれど変わった服を着ていた。母と紫織さんの間に言われるがまま座ると何故か二人からもあの懐かしいような香りがする。
「今日は紫織さんの子供さんの一周忌だったのよ、お墓がこの近くだったからお線香あげるついでにここに寄ってくれてねえ、もう久しぶりに。あの時はまだこれが赤ちゃんの時で…」
僕が聞いたわけでもないのに母の早口なおしゃべりがいつものように始まるが紫織さんは対称的に物静かな人のようだ。黙って優しそうに微笑んでいる。
その顔や声が、誰かに似ているような気がした。
「大きくなったね」
「…そうですか?」
「あの子が生きていればあなたと同い年だったの…いいお友達にもなれたかもしれないね」
「…」
僕は紫織さんをそっと窺うが、その声色には悲しみよりも懐かしさがこもっているように見えた。居間の景色の向こうのどこか遠くを見ている。
「はい、そう思います」
「あら、それは?」
袖口から何かが飛び出しているのを見つけて紫織さんが訝しんだので僕は慌てたが、やがて母に見えないようそっとそれを抜きだした。
それは実は友人に見つかる前に隠していたあの桜草だった。既に萎れかけている。
「あっ、それは…」
「僕ちょっとやることあるから二階に行くね。それはどうぞ」
紫織さんの制止も母の咎める声も聞かずに、僕は居間を後にした。一つの結論が今頭の中でまとまりつつあったし、おそらくあの子とはもう二度と会えないような気もするけど、僕はそれ以上知りたくなかった。紫織さんの、一周忌を迎えたというその子の死因も顔も名前も、もちろん桜草についても。
だってその事実は、あの子が、あの場所が何だったかを僕に知らしめてしまうかもしれないのだから。
『ここが嫌じゃないの?寂しくないの』
『その花はあなたがここにいる限り萎れない』
『忘れてね。ここのことも私のことも』
例えそれが本当の答えでも、知りたくない。
その後、俺は何度もあの竹林の中に行こうと試みた。だけど、今日こそはと思って行くのにいざ入っていくとなると勇気が出せずにすごすごと戻って来るばかりで、そうこうしているうちに竹林は市の開発計画によって切りたおされてしまい、跡地にできたのがこの小学校だった。
行かなくて正解だったと、今では思っている。でももし、あの時入っていたら俺はどんな景色を見ていたんだろうか。
あんな場所をだれも見つけていないはずはない。彼女しかいないはずがない。
あの場所は…
俺はゆるゆると頭を振ってため息をついた。今でも草花や桜草は好きだけれどもう俺は花を摘まない。というより、あの日から摘めなくなってしまった。萎れないのも怖いが、萎れるのを見るのも気分が良くない。やはり、春は嫌いだ。
いつの間にか立ち止まっていた俺はまたぶらぶらと歩き出した。向こうから小学生がやってくるがなんだか手元しか見ていない。仕方なく横にずれてやっていたが、その手元にあったものを見て思わずあっと声を上げてしまった。
「それ、桜草…」
声を上げてから、あ、しまったと思っていたら、その小学生が顔をあげた。
「この花、桜草なんですか」
「え、見ればわかるだろ」
「だってこの花咲かないんです、それにこんなに背丈が高かったかなあ…」
確かにつぼみはあるがまだ固いままだ。その小学生は道の桜草と小さな鉢に植えられている自分の桜草を見比べている。
「実はこれ、僕のじゃないんです。気がついたら学校の隅にあったんです、色んなひとに聞いてみたけどこんなの植えてないって言われて。結局今は僕が育ててるんですけど、いっこうに咲かないなあ」
「……」
「よかったらもらっていって…なんてさすがに虫がよすぎるか」
「……いや」
_もしかしたら、彼女はまだ自分の周忌の度にこの町に来ているのかもしれない。
少なくともこの桜草は彼女のだろう。
根拠なんかまるでないけれど、確信に近く、俺の頭にそんな考えが浮かび上がった。
迷った末に俺はとうとう鉢を受け取った。
花は好きだけど、実際に育てられるかどうか自信がない。なにせあれ以来花に触ったこともないのだから。けれども俺が受け取らなければいけないような気がした。
お礼を言う小学生を見送りながら、あの子の姿やあの時のことを思い出そうとする。声やしぐさはもちろん、すでに輪郭さえおぼろげな記憶のなか、一つだけはっきりと蘇ってくる。
覚えているのは、最後に見たその少女の姿。
掲げていた手の中の青い花は、鮮やさと生気を保ったままだった。
初めましてです、浅黄です。…このペンネームは変えるかもしれません。はい。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。わからないことだらけで緊張しています。
正直自分でもよくわからない話だなあ…拙い所とかは流してやってください、すみません。
花好き系男子の話のわりに桜にそんなに興味ないだとか春が嫌いとか言っていますがあまり気にしないでくださいね!
短い話のつもりがいつのまにか十五枚分にもなっていた…(次はもっと短くしよう…)
※補足・気が向いたら作る派なので人より投稿ペースは遅いです…多分。もし次に会えたらぜひ思い出してやってください…