草を食む
ただの一歩を踏み出すだけだと人は言うかもしれないけれど。私にとってはアポロよりも大変な一歩だ。
踏み出す勇気がもてないまま、もう4年もこうして同じ場所に突っ立っている。
掲示板を眺めていたキリンに、ヒロミチが声をかける。
「休講なかった?」
「そう甘くない。1限目から5限目まできっちり」
「うげぇ。ここの教授真面目すぎ。忙しいならガンガン休講にしちゃえばいいのに」
ヒロミチは不満げに文句をたれる。諦めきれずにキリンの前に出て掲示板を覗き込む。
その後ろからキリンが冷静に指摘した。
「そのぶん補講することになるけど」
「それはそれでいやだな」
「なら現実を受け入れること。精神衛生上その方がずっといい」
「やっぱない。ちぇっ。 キリンさ、そういう考え方って、しんどくない? 人生楽しい?」
「それはどういう意味?」
「嬉しい事あったら喜んで、悲しい事があったら悲しんで。それでいいと思うんだけどなぁ。俺みたいになれとは言わんけど」
「ヒロみたいな性格になれなんて、それは堕落を意味するね」
「俺みたいになれとは言わないっつったじゃん。あと、キリン、さりげにひでぇ」
ヒロミチはがはは、と下品に笑ってキリンの方をバンバンと乱暴に叩く。
「痛っ! ヒロ、暴力するな!」
顔をしかめるキリン。ヒロミチは全く聞かないで
「ま、そういうところがキリンらしぃわけだけど」
と手を止めない。キリンは「うっとおしい」とヒロミチの手から逃れる。
「早くしないと席がなくなる」
「次の授業なんだっけ」
「覚えてないの、もう3ヶ月も同じ授業じゃない」
「まだ3ヶ月だよ。どこ?」
キリンはため息。
「D315。席埋まるから早く行こう」
「あと10分あるだろ。キリン、すまないけど、席とっててくれよ」
「何か用でもあるの」
「ミカが来るんだよ。待ち合わせ」
ヒロミチは携帯を見せる。連絡を取った、と言う意味だ。
キリンは露骨ともいえるくらいに顔をしかめる。
「彼女ね。お暑いこと。あんまり見せつけないで欲しいな」
「手厳しいなぁ、キリン。いいじゃんか、ラブラブなんだから。人の幸福は自分の幸福だろ」
「人の不幸は蜜の味」
「キリンはそんな奴じゃないだろ」
笑いながら「じゃあ」と手を振り、ヒロミチとキリンは別れた。
キリンはその場から動かなかった。耳元のイヤリングをいじる。歩き去るヒロミチの後姿を眺めながら、ごくごく小さな声で、呟いた。
「わかってないなぁ」
着想は、ハチミツとクローバーに出てくるキリンから。