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09.真夏の明暗(2)

"Everything is great!"

ライアン・カペーリは親指を大きく掲げ満面に笑みを湛えた。

緊張から解き放たれた莉江の顔が綻び目には薄っすらと涙が浮かぶ。

「よかったね、莉江さん」

マリアも嬉しそうに莉江の手を握った。



美玖は先週二度目の聴覚スクリーニング検査を受けた。

今日はその結果と六ヶ月検診のため健介の親友ライアンが小児科医長を務める

DCにある病院に来ていた。生後すぐに受けた新生児スクリーニング検査は一応

パス(通過)だったが、三十二週の未熟児ということもあり正確な判断を要する

ためリファー(要再検査)となっていた。

人や玩具などの物音に敏感に反応する美玖は大丈夫と思いつつも、やはり

莉江の不安は拭えず今回は専門医によるより精密な検査を受けさせた。


「聴覚障害は全く認められないそうだ。発育もすこぶる順調だし、身長体重も

二か月のハンデはほとんどなくなったよ。この分だと美玖は将来、君のような

長身のアスリート体型になるかも!?」

マリアに向かって大げさにウィンクした。


「ところでマリア、君のお兄さんって医療関係者なのかい?」

「いいえ… でも、どうしてですか?」

医師の意外な言葉に戸惑った。

「いや、あまり専門的な鋭い質問されるんで、小児科医として正直、ちょっと

ビビったもんだから…」

ライアンは頭を掻きながら苦笑した。

「たぶん、精密ABR検査についてインターネットで詳しく調べたのだと

思います」

パソコンの前で真剣に検索する兄の姿を想像した。

「そっか、近頃はネットのおかげで医者もたじろぐような知識豊富な人が

増えたからね。一応これ、お兄さん用のコピーだから」

そう言うと、検査結果の入った封筒をマリアに渡した。

二か月の航海を終えたレオはフロリダに戻る途中ボルティモアに立ち寄り、

一週間ほど滞在した。その間、マリアに代わって莉江に付き添い聴覚検査に

立ち会っていた。


(リエ、なにも、しんぱいいらない。ミクは、すくすくと、そだっている。

きみは、りっぱに、こそだてをしているよ。てんごくのケンも、きっと

よろこんでいるとおもう。ぼくとモニカは、いつでも、きみのちからに

なるからね)

ライアンはたどたどしい手話で莉江にそう伝えた。そして、母親の腕の中で

スヤスヤと眠る美玖の小さな手を握り、そっと囁いた。

"Hey cutiey, take a good care of your mommy for Daddy, okay!"

(美玖、パパに代わってママのことたのむよ)

それは、瀕死の健介が愛娘にかけた最後の言葉だった。


(ありがとうライアン、そう言ってもらえるととても心強いです。

これからもどうかよろしくお願いします)

亡き夫の親友の暖かい言葉に感謝し莉江は深々と頭を下げた。



無我夢中の半年だった。

聴覚障害者の新米ママにとって育児と言う未知の世界は、最愛の夫の死を悲しん

でいる余裕もないくらい毎日が戦争だった。赤ん坊の唯一の意思表示である

泣き声、娘の声が母の耳には届かない。そのもどかしさ、不安と緊張の連続は

健常者には計り知れないものがある。


美玖の声を感知するため離れた場所から赤ちゃんの泣き声の大きさを光で伝える

ムービングライトとバイブレイター付きのベビー用モニターを子供部屋に設置し

受信機を24時間、肌身離さず装着する。それでも、ミルクを吐いたり毛布や

ブランケットが被さって窒息するのではないかと心配になり、夜中に何度も

ベビーベッドの中を覗く。三時間ごとの授乳期が終わっても深夜十二時、三時、

六時には自然に目が醒め、美玖の様子をチェックすることが日常になった。

健介の生命保険で家のローンは無くなったものの、生活の糧を父の遺産に頼る

だけでなく将来を見据えて育児の合間に翻訳の仕事も続けている。


(よかったね美玖、本当によかった…)

我が子の寝顔を見つめる莉江の目から涙が溢れた。

心身ともに疲れ果て健介の遺影の前で涙したこともあった。だが、日々成長

する娘の姿、愛らしい笑顔を見ているとどんな苦労も報われ、母親になれた

喜びを再認識させてくれる。そして、この子にだけは音のない世界に生きる

苦悩を味あわせたくない、どうか耳が聞こえますようにと、神に祈らずには

いられなかった。


「莉江さんあんなに頑張ったんだものね。やっぱ、神さまはちゃんと見てて

くれたんだ…」

子育ての苦労をまじかで見てきたマリアも瞳を潤ませた。

(ありがとうマリアちゃん。あなたがそばに居てくれたからここまでやって

これた。今度の検査のことでは、お兄さんにもすっかりお世話になったし…)

「ううん、私なんか何も… でも、今回のお兄ちゃんの行動力にはマジ、

びっくりした。それに、たった二ヶ月の間にあれだけ手話をマスターする

なんて、我が兄貴ながらちょっと尊敬かも!?」

マリアはぺろっと舌を出した。

再検査への不安を抱く莉江の心中を察したレオは、小児聴覚障害の専門医を

探し出し、早急な精密検査の実現に奔走してくれた。

航海中に手話を独学したらしく莉江の言葉をほとんど理解できるまでに

なっていた。


(私もお兄さんの手話には驚かされたわ。先生たちの医学用語を通訳して

もらえて本当に助かった。それに、付き添ってもらってとても心強かった)

「ああ見えて、けっこう頼りになるでしょ? あっ、そうだ、すぐに

知らせないとね」

検査結果の入った封筒を持ち上げた。


(それ、私からお兄さんに報告させて。あの時のお礼も、まだちゃんと

伝えてないし…)

「あの時って?」

(私、あの時、よっぽどひどい顔していたのね…)

思い出したように莉江はくすっと笑った。

「ねえ、なにそれ、どういうこと?」

マリアは興味津津と言うように聞き返した。


(実はね、マリアちゃんが夜勤の夜、お兄さん、深夜の当直は慣れてる

からって、美玖のこと一晩中ずっと見ててくれたの。おかげで 〝爆睡”

しちゃった。その上、起きて来るとね、ダイニングのテーブルの上には

朝食まで出てきて…)

「へぇー お兄ちゃん、なかなかやるじゃん!」

(なんか、すごーく感激しちゃった)

莉江の口元からはにかむような笑みが零れた。


ベビー用モニターの受信機から解放され、寝室で朝まで熟睡したのは

退院以来はじめてのことだった。レオの気遣いが慢性的な睡眠不足で

疲れ気味の心身を優しく癒してくれた。










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