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08.真夏の明暗(1)

独立記念日が終わり全米各地に本格的な夏の季節が到来した。

真夏のマイアミは人の数も車の数も減り観光のオフ・シーズンを迎える。

一年中観光客で賑わうハワイなどのビーチリゾートとは異なり、基本的に

ここは厳しい冬の寒さを逃れて来る人々の避寒地である。

夏場は雨期に加えハリケーンのシーズンでもあるため、六月に入ると北からの

来訪者は帰郷するか、快適な避暑地を求め一斉に移動しはじめる。

雨季と言っても日本の梅雨のように一日中じとじと雨が降り続くことはないが、

湿気が多くかなり蒸し暑い。



「奥さま、野菜スープでもお作りしましょうか?」

「大丈夫。今日はもう帰っていいわよ、ルル」

「でも、何か少しでも召し上がらないと…」

通いの家政婦は体調を崩し食欲のない女主人あるじを気遣うように言った。

「ただの夏風邪だから心配いらないって。それよりぐずぐずしてると、

またバス停に着く前に『シャワー』にやられるわよ」

ケイは雲行きのあやしくなってきた空を指差した。


雨季の期間は午後になると毎日のように夕立のような雨が降る。雨が上がった

後は気温が二、三度下がり日中の猛暑が多少和らぐ。

『シャワー』と呼ばれるこのにわか雨は、夏場に庭や玄関先に水を撒いて涼を

とる日本古来の風習、『打ち水』と同じ効果をもたらすのである。


「もし何かあったら知らせてくださいましね。すぐに 〝あの子” をよこし

ますから。どんな雑用でも言いつけてやってくださいな」

「彼、まだ仕事みつからないの?」

「はい、働く気があるんだかないんだか… 居候のくせに毎日ぶらぶらして

まったく困ったもんですよ」

ルルは唇を尖らせた。突然家に転がり込んできた夫の甥っ子の存在が目障り

らしく頭を揺すりながら帰り支度をはじめた。

ルーダス・ロペスとは十年来の付き合いになる。

マイアミのヒスパニック人口の大半を占めるキューバ系移民で喜怒哀楽の感情

表現が豊かなこの陽気なラティーノをとても気に入り、ここに移り住んで以来

ずっと家事一切を任せている。



* * * * * * *



タイル張りのパティオの床を激しく打ちつける雨が止むと雲の切れ目から太陽が

顔を覗かせた。びしょ濡れの椰子の葉から零れ落ちる水滴がまるで宝石のように

キラキラと光る。ジリジリ照りつける真夏の太陽に晒されていた庭の木々や草花は

水分補給のおかげで生気を取り戻し、柔らかな午後の陽ざしの中で生き生きと

蘇っている。


ケイはガラス戸を大きく開けた。

生暖かい外気がエアコン漬けの身体に心地良い。籐椅子に腰を下ろすと煙草に

火をつけ味わうようにゆっくりと煙を吸い込んだ。喉の奥がいがらっぽく何度も

咳払いをするが不快感はなかなか取れない。払拭するように冷めたコーヒーを

一気に流し込んだ。微熱のせいか嗜好品であるはずの煙草も珈琲もまるで味気が

ない。もう一服すると今度は激しく咳き込んだ。


(そろそろ肺にもきたかな…)

胸の中に手を入れ確かめるように左の乳房を弄った。

乳房の異変に気付いたのは今年の初めごろだった。左胸の辺りに違和感を覚え、

手のひらを押し当てると小さなしこりに触れた。その痛くも痒くもないしこりの

正体が何であるかケイにはすぐに判った。祖母も母親も同じ病気を患っている。

同じ遺伝子を共有する自分もいつかは、という予感がどこかにあった。

躊躇うことなくすぐに専門医を訪ねたのは、良性の可能性に望みをかけるという

より、一刻も早く確証を得て覚悟を決めるためだった。結果はやはり悪性腫瘍、

すでにステージ3の進行癌だった。多臓器への転移は見られないものの温存手術

よりも乳房切除と化学療法による早急な治療開始を医師は勧めた。が、ケイが

その医者のもとを再び訪れることはなかった。診断が下った時点で彼女の中には

手術や抗癌剤による延命治療の選択肢はなかった。


自分の意思で生まれた国も家族も捨て異国を流浪し、すでに四半世紀の時が

流れた。若く見られても人生五十年と言われた昔ならとっくに寿命を迎える歳に

なっている。順風満帆な人生だったとは言えないが、自分のやりたい放題、好き

勝手に生きて来た。思い残すことはもう何もない。乳房を失い抗癌剤の副作用に

苦しみながら醜く衰え生きながらえてゆく自分の姿など、人一倍自尊心の高い

女にはとうてい受け入れられない。


ケイは特定の宗教をもたない、無宗教である。挫折を繰り返した若い頃には、

神や仏にすがる思いで聖書や仏教の書物を読み漁った時期もあった。

だが、どの宗教の宗派も教義も彼女の心を捉えることはなかった。

ただ唯一運命論には共感を覚え、その定義は今日に至るまでずっと彼女の精神的

支柱となっている。人間の一生は生まれたその瞬間からすでに決定済みである。

その決定事項である『運命』は自分の意思や努力によって決して変更できるもの

ではない。運命が自ら切り開くことも、信仰によって変えられるものではない

以上、物事に対する心の持ち方を変えるしかない。それが出来れば自ずとどんな

過酷な運命も受け入れられる。そう考えられるようになった時、将来に対する

漠然とした不安が消え胸の痞えが取れたように心がスーと軽くなった。



咳が収まると今度は激しい吐き気に襲われバスルームに駆け込んだ。

体調不良が単に風邪のせいなのか転移によるものなのか定かではないが、胸の

腫瘍は確実に肥大している。鏡の前でバスローブの胸元を開けた。

肉眼で見る限り乳房は左右対称、さして変化はない。若い頃から自慢のバストは

年の割には今だにその美形を保っているが、化粧っ気のない顔はさすがに実年齢

を隠し切れない。張りと艶を失った肌は目元や口元に小じわが目立つ。

亜麻色に染めた髪の生え際に白髪が混じる。正視に絶えないと言うように視線を

逸らし、ケイは溜め息交じりの息を洩らした。


突然ベッドルームの電話が鳴った。

着信IDを確認すると大きくひとつ咳払いをして受話器を取った。


「もしもし?」

「具合、悪いんだって? さっき店に寄って聞いた」

「ただの風邪、もう大丈夫よ」

「そっか…」

「それより、いつ戻ったの?」

一昨日おとといの朝」

二か月ぶりに聞くレオの声だった。


「風邪いいんだったら、今夜どっかで晩飯する?」

「…ええ、でも… まだ、外に出ないほうがいいかも」

ケイは一瞬、口籠った。逢いたい気持ちはあるが、これから身支度を整え

化粧をする気にはとてもなれない。

「じゃ、見舞いがてら、これからそっちへ行こうか?」

「ダメ、ダメよっ!」

思わず声を荒げた。

「……」

「あ、ほら、治りかけの風邪は人に移すってよく言うでしょ。

移すと悪いから、来週、こっちから電話するわ、じゃ。」

慌てて受話器を置いた。


電話の向こうから自分の姿を透視されているような気がした。

愛する男にこんな老婆のような醜体を晒すわけにはいかない。

全身にどっと疲れを感じたケイは雪崩れ込むようにベッドの中に潜り込んだ。



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