07.兄の私生活(3)
五月の祝日メモリアル・デー(戦没者の日)の週末、マリアは空路マイアミに
向かった。彼女にとって二度目のフロリダへの旅になる。
小学生の時オーランドのディズニー・ワールドを訪れた。
両親からの思いがけないプレゼントに小さな胸は驚きと喜びで膨らんだ。
家族と過ごした楽しい思い出は今もマリアの脳裏にしっかりと焼き付いている。
父母の愛情に包まれ何不自由なく幸せな少女期を過ごしていたあの頃、わずか
数年後に数奇な運命が待ち受けていることなど知る由もなかった。
もし両親の離婚がなくあのまま平穏な生活が続いていたなら、養女という衝撃の
事実も、生き別れの兄の存在も発覚することはなかった。
自らの恵まれた境遇に甘んじ他人の不幸、弱者の苦しみや痛みに鈍感な人間の
ままでいたかもしれない。そして何より、最愛の兄レオとの再会を果たすことは
なかった。
家族の崩壊、経済的苦境、将来の夢と希望を絶たれたマリアの前に突如現れ、
看護師になるため物心両面で支えてくれたレオは、彼女にとってまさに救世主
だった。兄への感謝の気持ちを片時も忘れたことはない。社会人となり、
今度は自分が兄のために何かをしたいという思いが一層強くなった。
マリアのレオに対する思いは普通の兄妹間にある感情とは異なる。
いつも嬉々として兄の話をするマリアは周囲からよく『まるで恋人みたいね』
と冷やかされる。実際、彼女には恋人はおろかボーイフレンドと呼べるような
交際相手すらいない。器量は十人並だが、背が高くアスリートのような引き
締まったモデル体型を持ち同性からも異性からも好かれる、いわゆる性格美人
である。これまで何度か交際を求められたことはあったが、何かにつけレオと
比べてしまい未だに彼女の眼鏡にかなうような相手は現れない。
救世主だった兄はいつしか、マリアの中で本人も気づかぬうちに理想の男性像
に変貌していたのかもしれない。
機内アナウンスが着陸態勢に入ったことを告げた。
窓の外に目を遣ると、雲海の合間から青い海に囲まれたフロリダ半島がその
輪郭をくっきりと覗かせている。
十歳の少女は 〝ミッキー” に会えると、逸る心を抑えつつ身を乗り
出すようにして同じ光景を見ていた。
二十三歳に成長したマリアはふと、あの時と同じ心の高鳴りを感じた。
* * * * * * * *
連休中とあって到着ロビーは旅行者や出迎えの人たちで賑わっていた。
所々で再会を喜び合う家族、友人、恋人たちが熱い抱擁を交わしている。
そんなほのぼのとした光景を横目で見ながらマリアは少し苛立った様子で
携帯を握りしめた。
(お兄ちゃんたら、朝っぱらからどこへ出かけたんだろう…)
到着直後から何度も携帯に電話を入れてはいるが繋がらず、ホテルの部屋の
電話にも応答がない。
今回のマイアミ行きを事前に知らせなかったのは、単にレオを驚かすためだけ
ではない。突然訪ねることによって妹に見せたくないもの見られたくないもの
を隠すことのない、ありのままの兄の姿、私生活を覗きたいという思いが
あった。だが、見知らぬ土地でこのまま連絡が取れなければ、と思うと急に
心細くなり 〝サプライズ” にしたことを少しばかり後悔しはじめた。
「マリアさん、ね?」
ラゲッジ・クレームでスーツケースを待っていると、背後から突然声をかけ
られた。振り向くと胸元の大きく開いた真っ赤なサンドレスに、つばの広い
帽子を被った女が立っていた。
「ええ、そうですけど…」
「お兄さん急なお仕事が入って、私があなたのエスコート役を仰せつかったの」
女は柔和な微笑を浮かべた。
「あの…」
「ケイって言います。大丈夫、怪しい者ではないわ。はい、これがその証拠よ」
訝しげな表情のマリアに女は白い封筒を渡した。
『マリアへ』と書かれた、その特徴のある筆跡は確かに兄レオのものだった。
(お兄ちゃん、ここへ来ること知らないはずなのに…)半信半疑のまま封を
切ると、簡単なメモ書きとホテルのキー・カードが入っていた。
『マリア、〝サプライズ!” にならなくて残念だったな。
今回は莉江さんが心配してメールをくれたから良かったけど、
危うくすれ違いになるところだったぞ。
ケイさんは古くからの知人で信頼できる人だから、安心して
マイアミを案内してもらうといいよ。治安も良いしビーチにも
近いから俺の部屋を使うといい。
来月半ばには戻るから、夏休みを取って今度はゆっくり遊びに来いよ。
ただし、次回からは必ず前もって兄貴に知らせること!
じゃ、Enjoy Miami!』
「と、言うわけでお兄さんに代わって私が責任をもって3日間ツアーガイドを
務めさせていただきます」
お道化た調子でケイはコクリと頭を下げた。
「もうそろそろ出て来るわね。荷物一個だけ?」
「ええ」
「じゃ、車まわしてくるからそこの出口を出たところで待ってて」
そう言い残し足早に駐車場の方へ向かった。
(古くからの知り合いって、いったいどういう関係なんだろ…)
レオの知人であることは間違いなさそうだが、マリアは釈然としないまま
スーツケースを取り、指定された場所へ歩き出した。
冷房の効き過ぎる空港内とは打って変わって、屋外に出ると初夏とはいえ
マイアミの空にはすでに真夏の太陽がギラギラしている。南国の空気を体内に
取り込むように大きく深呼吸をした。
三連休の初日とあってタクシーやリムジン乗り場は普段にも増して混雑して
いる。リゾート地特有の一見してレンタカーと分かる派手なコンバーティブル
タイプのスポーツカーや新車が目立つ。
そんな中でもひときわ人目を惹く一台の高級車がマリアの前に横付けされた。
「ヒュー、SL500じゃねーか!」背後で口笛と感嘆の声がした。
車の車種などチンプンカンプンで自動車なんて見た目よりも性能、日本車の
中古で十分だと思っているマリアにも目の前の車が、メルセデスベンツだと
いうことはすぐに判った。
「さあ、乗って!」
ポカーンと眺めているマリアを促すように運転席から手招きをした。
空港を出てフリーウェイに入ったケイの愛車はぐんぐんスピードを上げる。
ほとんど振動のないスムーズな走行、快適な乗り心地はやはり中古のカローラ
の比ではない。三十分程でレオの常宿するホテルに着いた。
「じゃあ、十一時にロビーでね」
「あ、あの… ケイさんは、兄とは、どういう…」
ずっと気になっていたことをマリアは恐る恐る切り出した。
「愛人関係」
「えっ!?」
「だったら、困る?」
「……」
「いやーだ、冗談よ。レオが、まさかこんなオバさん相手にするわけない
でしょ…」
若い娘のたじろぐ様子を楽しむように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「かれこれ七年になるかしら… 主人が仕事の関係で知り合ったレオのことを
とても気に入って、以来ずっと公私共に懇意にさせてもらっているの。
主人が亡くなった後もフロリダに戻るたびにうちの店を贔屓にしてくれて。
言わば、常連さんとママの関係、かな? 私ね、サウスビーチで小さなクラブを
経営しているの」
シャネルのバッグの中から『マダム・K』と書かれたビジネスカードを取り
出した。
「そうだったんですか… 兄はプライベートのことはあまり話してくれない
ので」
マリアはほっとしたような表情を浮かべた。〝愛人” という言葉の響きに
一瞬ドキリとした。レオよりかなり年上であることは間違いない。おそらく
亡くなった養母に近い世代だろうが、洗練された大人の魅力だけでなく時折
少女のような悪戯っぽい表情を見せるケイは、佳子よりずっと若く見える。
年上の恋人として兄と並ぶ姿を想像しても、さして違和感はない。
だが、古くからの知人と言う方がやはりしっくりとくる。
レオの背後に感じていたブランド物好きの女の正体が解明されたことに、
マリアは胸の痞えが取れたような安堵感を覚えた。
「やっぱりお兄さんのこと、心配?」
マリアの心の中を見透かすように言った。
「いえ、まぁ…」
「そりゃそうよね、二人きりの兄妹ですものね。でも、大丈夫、レオは
いたって品行方正。変な女の影なんか一切ないから。おそらくこれからも
〝絶対” ないと思うわ」
「……」
あまりにきっぱりと断言するケイをマリアは訝しげに見た。
「あっ、誤解しないで、そういう意味じゃなくて。そりゃ、実際、何度か
そういう 〝お誘い” もあったみたいだけど。私の知る限り、そっち
方面は絶対ありえないから!」
そう言うとケラケラと可笑しそうに笑った。マリアもつられて声を出して
笑った。
「今朝、早かったんでしょ? シャワを浴びて旅の疲れを取るといいわ。
お昼はマイアミで一番美味しいシーフードの店に案内するわね。じゃ、後ほど」
「はい、ありがとうございます!」
自分でも驚くほど元気よく応えた。
兄の同性愛疑惑よりも特定の恋人が存在しないことに安堵する自分に少し
ばかり戸惑いを感じながらも、マリアはフロリダに来て良かったと思った。




