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06.兄の私生活(2)

ケイの店はサウスビーチの中心街にある。

三連休をひかえたウィークデーとあって客は疎らで、久しぶりにオーナー自らが

ピアノに向っていた。三年前に愛人から譲り受けた時に『マダム・K」と改名し

それまでの船員相手の賑やかな雰囲気から一変、客層は地元の常連たちが中心と

なった。



「やっぱここだったか、よかったぁー」

ほろ酔い気分でピアノに聴き入るレオの背後で男の声がした。

小柄な男は少し足を引き摺るようにして近づいてきた。

「よう、サントス、暫くだったな。店は繁盛してるのか?」

「レオ、頼みがあるんだ。俺の命をもう一度助けると思って、この通りだ!」

男は席につくや否や、いきなりテーブルに額を擦りつけた。


サントス・ヘルナンドは元同僚のフィリピン人船員である。

レオが貨物船の二等航海士として初めての航海に出た時、彼は乗務員の食事を

管理する司厨部でコック見習いとして働いていた。今では大型コンテナ船が主

だが、当時レオは昔ながらの雑貨船と呼ばれる2万トン以下の貨物船に乗って

いた。雑貨船とは文字通り動物・穀物・電気製品から大型プラントまで何でも

積み込む船で、クレーンを搭載しているためアフリカや東南アジア、中南米の

荷役設備のない小規模な港にも寄港できる小回りの利く貨物船である。

近年、機械化が進みメンテナンスフリーの計器やコンピューターの導入によって

25万トンを超えるような超大型貨物船でも乗組員の数は通常23~25名程度

である。さらに船会社間の低コスト競争のためインドや東南アジア、東欧など

低賃金の労働力の需要が高まり、外国人船員の数が急増している。

文化・宗教・習慣の異なる多国籍の人間が船内という限られたスペースの中で

共同生活をするわけだから、当然のように船員間のトラブルは絶えない。

そのため航海中は乗組員の親交を深める娯楽の一環として、船長主催の飲み会

やゲーム大会などが催される。


そんな中で事件は起こった。

泥酔した船員がサントスの料理に難癖をつけたことがきっかけで始まった些細な

言い争いが、人種間の喧嘩となり刃傷沙汰にまで発展した。ナイフで大腿部を

刺されたサントスは出血多量で危険な状態だった。船医は大型船を除いては

乗船を義務付けられていない。そのため航海中に病人やけが人が出た場合は、

二等航海士が『衛生管理者』としてその役割を担う。

幸運にも次の寄港地まで数時間だったこととレオの適切な応急処置のおかげで、

サントスは危うく左足の切断を免れた。以来命の恩人としてレオのことを慕って

いた。数年前におかに上がり妻と二人で食堂を経営している。


「顔をあげろよ、いったい何があったんだ?」

「例の船が明後日あさっての夜出港する。いつものルートだ。

急病でどうしても一人足りないんだ」

切羽詰まった様子のサントスは声を潜めて早口に言った。

それまでほろ酔い気分だったレオの顔に一瞬、翳りが走った。

「おまえだって知ってるだろ、俺は、もう…」

「分かってる、あんたがもうヤバい仕事には手を染めたくないってことは、

俺だって同じさ。けど、どうしてもまとまった金が要るんだ。

これが最後だ、息子の命がかかってるんだ。頼む、レオ!」

サントスは涙声になって必死に懇願した。

二歳になる息子が重い心臓病で移植手術にかかる莫大な費用を工面するため、

すでに店も手放し金策に奔走していた。

「分かった、そういう事情なら仕方ないな… 俺も金が必要な時、おまえには

ずいぶん世話になったしな。ただし、これがほんとに最後だぞ」

「ありがとな、レオ、ありがと…」

嬉しそうに何度も頭を下げサントスは慌ただしく店を出て行った。


グラスの酒を一気に呷るとフーと大きく息を吐いた。

マリアの夢を叶えてやるには二等航海士の給料だけでは賄え切れなかった。

ペルー国籍のレオは日本人や欧米人のように船舶会社の正社員ではなく、

期間雇用、一隻乗船のみの契約社員である。いわゆる派遣社員のようなもので

ボーナスや特別手当はなく同じ職種でも正社員の給料とは比較にならない。

私大の学費と生活費を捻出するには休暇中にアルバイト的な仕事をせざるを

得ない状況だった。船員仲間に広いネットワークを持つサントスは好条件の

仕事を斡旋してくれた。その中には短期間で金になる密航者や麻薬の運搬など

法に触れるようなものも含まれていた。

今回の仕事は、船長以下十人足らずの小型船で南米沖の公海上で漁船から

コカインを受け取りアフリカやスペインに運ぶ、いわゆる麻薬の運搬だった。



「ねえ、さっきのサントスじゃないの?」

演奏を終えテーブルにやって来たケイは心配そうにレオの顔を覗きこんだ。

「ああ… また一か月ほど留守にする」

「レオ……」

詳細については知らないが、妹への送金のために危ない仕事に手を出していた

ことを薄々感づいている。


「そろそろ海の上が恋しくなってきたから、ちょうどいいさ。

けど、ひとつ問題ができてしまったんだ…」

「問題って?」

「今度の連休マリアが俺に会いにここへ来るらしい。それで折り入って君に

頼みがあるんだけど…」

「らしい、って?」

「俺を驚かせようと、空港についてから連絡するそうだ。だから、俺は何も

知らないことになっている」

「いったい、どういうことなの?」

話の内容が掴めないケイは苛立った様子で聞き返した。


「実は、彼女… 莉江さんが、マリアには内緒で知らせてくれた」

少し躊躇うように莉江の名を口にした。

数日前メールが届いた。フロリダ行きを勧めたものの、サプライズ旅行を

計画しているマリアを心配して日程を知らせ、レオの予定や都合をそれと

なく確かめるような内容だった。


「まあ、〝思慮深いお方” だこと」

「うむ、そうなんだ。まさかこんなことになるとは思っていなかったから、

彼女の気遣いには、ほんと感謝してる」

ケイの皮肉をもろともせず真顔で応えた。

「それで、あなたに代わって私に妹さんのお相手をしてほしいってことなの?」

「うむ、マイアミは初めてだから、適当な観光スポットと晩飯にでも連れ出して

くれれば助かる」

「いいわよ。で、私はなんて自己紹介すればいいの? お兄さんの恋人ですって

言ってもいいのかしら?」

意地悪そうにレオの顔を伺った。


「君にまかせるよ」

ちょっと間を置いてから素っ気なく応えた。

ずるい言い方ね。ぜーんぶバラしちゃおうかしら… 自慢のお兄ちゃんに

年上の女がいるなんて知ったら、さぞかしショックでしょうね」

「そんなに虐めるなよ。まっ、そこらへんのとこは適当にヨ・ロ・シ・ク!」

レオはニヤリと笑った。



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