03.運命の出逢い(1)
(美玖、生まれて来てくれてありがとう…)
腕の中でスヤスヤと眠る我が子を愛おしむようにぎゅっと抱きしめた。
あの悪夢のような事故、娘の誕生と夫の死という人生最大の喜びと悲しみが
一度に訪れた日から、あっという間に三ヶ月が過ぎた。
日本から帰国後ボストン生活を経て、健介はボルティモアにある大学病院の
血液内科に医長として迎えられた。
郊外に新築の4LDKのタウンハウスを購入し仕事もプライベートも、まさに
順風満帆、あとは弟一子の誕生を待つばかりだった。
事故はワシントンから自宅に戻る帰路で起った。健介の運転する車が走行中に
コントロールを失いガードレールを超え横転した。瀕死の重傷を負いながらも
最期の力を振り絞るように助手席で意識を失った身重の妻を救い出し、自ら
911に通報した。搬送先のERのベッドの上で、未熟児ながらも元気な産声を
上げる我が子と束の間の対面を果たし息絶えた。
莉江が夫の死を知ったのは事故から数日後だった。
病院に駆けつけた小児科医で親友のライアンが娘の誕生に立ち会い健介の最期を
看取ったことなど、その時の様子を手話のできるマリアが涙ながらにおしえて
くれた。ぽっかりと穴が開いたように今も事故の記憶は欠落したままで、何も
覚えていない。あの日、有名な聾唖者劇団の公演を観にワシントンへ出かけた。
子供が生まれたら当分二人のだけのデートはお預けになるからと、無理をして
チケットを手に入れてくれた。観劇の後レストランで食事をし帰途についた。
助手席でうとうとした瞬間大きな衝撃とともに目の前が真っ暗になり、気が
ついた時は病院の回復室のベッドの上だった・・・
突然襲った最愛の夫との死別、悲しみに打ちひしがれる莉江を新米ナースの
マリアは親身になって看護し優しく励まし続けた。
眩しいくらい明るいマリアと小さな体で必死に生きようとする健介の忘れ形見
美玖の存在が、凍り付くような絶望の淵から再び這い上がる力を与えてくれた。
(ケン、心配しないで、美玖はあなたの分まで私が責任を持って育てます。
だから、私たちのこと天国から見守っていてね)
優しい笑顔を浮かべる健介の遺影に向かって莉江は微笑みかえした。
* * * * * * *
「もう、お兄ちゃんたらいつもこうなんだから…」
ノートパソコンを閉じながらマリアは口を尖らせた。
兄のレオから週末ここへ訪ねて来るというメールが入っていた。
言葉とは裏腹にその表情には嬉しさが滲み出ている。
マリアが下宿をはじめてから半月が過ぎた。
莉江は当初、彼女からのベビーシッターの申し出に戸惑っていた。
マリアのように手話と日米両語ができ、しかも新生児の扱いに慣れた逸材など
そう簡単に見つかるものではない。有難い話ではあるが、過酷なナースの仕事
に加えベビーシッター兼ヘルパーでは彼女への負担があまりにも大き過ぎる。
戸惑う莉江の気持ちを察するように『無理だと思ったら即キブアップしちゃう
から』と、マリアはさっさと引っ越してきた。
健常者でもシングルマザーが誰の助けも借りずに子育てをするのは並大抵の
ことではない。ましてや障害者ともなるとほとんど不可能に近い。
莉江は素直にマリアの好意を受け入れることにした。
「…いつまでも子供扱いで、ほんとまいっちゃう」
(きっと、可愛い妹のことが心配でたまらないのよ。お兄さん休暇中なら
ゆっくりできるね)
「それが、土曜の朝こっちに着いてトンボ帰りでマイアミに戻るんですって」
(そんなぁ、せめて一泊くらいしてもらえばいいのに。お部屋もあることだし…)
このタウンハウスには主寝室、子供部屋、マリアが使っているゲストルームの
他に健介が書斎として使っていた予備の部屋がある。購入する時、将来家族が
増えることを想定して一番大きいモデルにした。
(朝一番の便なの?)
マリアは首を横に振った。
「それが、飛行機じゃなくて車なの。兄ってちょっと変わったとこがあって、
飛行機と写真が大嫌いなの。それで、どこへ行くにもたいてい車か列車か船。
写真もなかなか撮らせてくれないのよ」
(そうなんだ…)
飛行機嫌いはともかく、二人だけの仲の良い兄妹なのにマリアの部屋に兄の
写真が一つも飾られていないのことを、莉江は少し不思議に思っていた。
(お兄さんってマリアちゃんに似てるの?)
「ぜーんぜん。まあ、しいて言えば背が高いとこくらいかな…
妹の口から言うのもなんだけど、かなりのイ・ケ・メ・ン!」
照れたようにぺろっと舌を出した。
ティーンエイジャーになるまで養父母の愛情に包まれて育ったマリアは、
のんびりとおおらかな性格で、とにかく太陽のように明るい。
両親の離婚や養母との死別、兄妹の不幸な生い立ちなど何でも包み隠さず
話してくれる。特にレオの話をする時は瞳が生き生きと輝き、彼女にとって
自慢の兄であることが一目でわかる。
「私ね、兄にはどうしても幸せになってもらいたいの。ペルーにいた頃の
ことはあまり話してくれないけど、いろいろあったみたい… 日本生まれの
父と母はスペイン語があまりできなくて、兄も日本人学校に通っていたから
スペイン語より日本語の方が得意で、施設ではかなりの虐めとかにあった
らしいの。きっと大変な苦労をしたんだと思う」
マリアはいつになく神妙な顔つきになった。
両親と死別し孤児になったレオの生い立ちは、同じように少年期を横須賀の
養護施設で過ごした健介の境遇と重なる。南米の小さな町で貧困と孤独と
闘いながら生き延びるには人には言えないような過去があっても不思議は
ない。
(ねえ、マリアちゃん、お兄さんいらしたら、好物とか美味しいものとか
いっぱい作って、あなたの引っ越し祝いも兼ねて盛大な歓迎会しない?)
「うん、それいい、大賛成! ビールやワインじゃんじゃん飲ませて、
酔いつぶれてフロリダに帰れなくさせちゃおーと」
莉江の提案にマリアの顔にいつもの明るい笑顔が戻った。