02.兄と妹(2)
ブラインド越しに差し込む柔らかな光の中で遅い朝を迎えた。
バルコニーの長椅子に身を沈め、ゆっくりとマルボロをふかす。
澄み切った南国の青空、椰子の葉をサワサワと揺らす涼風、ラジオから
流れる軽快なラテンのリズム、厨房から漂う挽き立ての珈琲豆の香り・・・
長い海上生活を終え地上に戻ったことを実感する至福の瞬間である。
「おはよう」
「おっ、サンキュー」
コーヒー・マグを差し出すと女はレオの傍らに腰を下ろした。
「ねえ、もうそろそろ陸にあがれば? 彼女も一人前の社会人になったこと
だし、RNならお給料もいいんでしょ。〝お兄ちゃん” の役目は終わりにして、
ここでのんびり暮らさない?」
「そうだな… ジゴロ生活ってのも、悪くないか…」
「いいわよ、あなたがその気なら。ただし、若い女と浮気なんかしたら…」
片目を瞑り指で形作ったピストルをレオの額に押しつけた。
「そんな心配ならご無用! 女も果実も青臭いのより、賞味期限一歩手前の
真っ赤に熟した方が俺の好みなんでね」
ニタリと笑うとレオは女の手首を掴み躰を引き寄せた。
ケイと出逢ったのは六年前、ちょうど妹の行方を捜し始めた頃だった。
彼女は当時サウスビーチのナイトクラブでピアノを弾いていた。
店のオーナーの愛人だということはずっと後になってから知った。
レオは未だに彼女の素性も本名も確かな年齢さえも知らない。
外国では日本人は往々にして若く見られる。十歳以上サバを読んでいる女も
ざらにいる。ケイもとっくに四十路は越えているだろうが、ヒスパニックや
白人女に混じると三十代と言っても十分通用する。
奔放で男に媚びない中性的な一面と、小悪魔的なコケティシュな魅力を併せ
持つ不思議な女である。今でも気が向けば店にふらりと現れピアノを弾く。
英語・スペイン語・フランス語を流暢に操り、身につけるもの食するもの、
すべてにおいて高級志向の優雅なセレブ生活を送っている。
収入源は彼女曰く、三年前に愛人を 〝リタイア” した時にせしめた店の
経営権とこの一軒家だそうだ。マイアミ大学のキャンパスに近いこの辺りは
富裕層やリタイア層が暮らす高級住宅地として知られている。
若い 男妾 の一人や二人囲えるだけの経済力を待ち合わせていても
不思議はない。
「ジゴロはともかく、ここに住む気ない? あなたを拘束するような真似は
しないわ。お互い干渉しないって、条件で?」
ケイは真顔で言った。
「何の見返りもなしに? 好条件過ぎてなーんか、あとが怖いな」
「じゃあ、用心棒、ボディガードとしてならどう? 近頃この辺も変なのが
うろつくようになったの。なんか女一人じゃ心細くって。
まっ、下宿人にでもなると思えばいいじゃない」
「下宿人か… それじゃまるでマリアだな」
「なに、それ?」
苦笑を洩らすレオの顔を訝しげに覗き込んだ。
「実は… 」
マリアが産科病棟に移ってはじめて担当した患者の家で下宿をしている話を
した。自動車事故で夫を亡くし同乗していた本人も重傷を負ったが、緊急帝王
切開で取り出された八か月の胎児は奇跡的に助かった。
母子共に退院することになったが身寄りがないため同居できるベビーシッター
を探していたところ、マリアがその役を買って出た。
「…気の毒に思う気持ちが先走って、先のことがまるで見えていないような
気がする。あいつは子供の頃からナース志望だけあって、困っている人を見ると
放って置けない、自分を犠牲にしてまで他人を助けるようなところがあるんだ。
それでなくてもナースの仕事は時間が不規則でけっこう激務だといのに…」
レオは妹の下宿生活にどうしても納得がいかなかった。
「相変わらず妹思いのお兄ちゃんだこと。でも彼女もう二十三でしょ、好きな
ようにさせてあげなさいよ。いい加減あなたも妹離れしないと嫌われるわよ。
今どき自分のことしか考えない若い人が増えてるって言うのに、立派じゃない」
「それは分かってるけど、相手が健常者ならともかく…」
「えっ、障害がある人なの?」
「うむ、聴覚障害者らしい。マリア、大学の時に手話のサークルでボランティア
活動してたから、そのへんも相手にとって好都合なんだろ」
「そう、耳が聞こえないの…」
ケイは独り言のように呟いた。
「親切心に付け込まれるようなことにならなきゃいいが…」
レオはふーと溜息混じりの息を吐いた。
「そんなに心配なら、一度その女性に会ってみれば? どんな人か自分の目で
確かめれば、あなたも安心でしょ」
「……」
結局、ケイに促され妹の下宿先を訪ねてみることにした。