16.余命
レオは弟だと偽って担当の医師から病状を聞き出した。
乳癌が肺に転移した末期癌で余命三ヶ月と宣告されたが、本人は化学療法を
一切拒否し自宅に戻ることを望んでいる。
「ルルもおしゃべりねえ。医者の守秘義務とやらは、いったいどうなってるの
かしら…」
退院の身支度をしながらケイは唇を尖らせた。
「なんで教えてくれなかったんだよ、水くさいじゃないか」
「余命三ヶ月なんて知ったら、今度の航海キャンセルしかねないでしょ。
そんな同情は真っ平なの」
「もうとっくにキャンセルしたさ」
「え?」
「ボディーガードとジゴロの契約書にサインするつもりで戻って来たんだ。
ホテルもチェックアウトして泊まるところもない、無職のニートですから
女主人の仰せのままに何でもしますよ」
「レオ…」
「さあ、とっとと、こんな陰気臭いとこ出て豪邸に戻ろう!」
ケイの私物をバッグに詰め始めた。
「ほんとに、それでいいの? あなたがそばに居たら、免疫力がアップして
余命以上に生き延びちゃうかもよ」
「ああ、それなら上等! とことん付き合うよ」
自宅に戻ったケイの病状は安定し、プールサイドで日光浴をしたり読書を
しながら穏やかな日々を送っている。
詳しい理由も告げずに航海を取りやめ、女の家で同棲している兄に嫌悪感を
抱いたマリアはメールにも電話にも応じようとはしない。
* * * * * * *
「やっぱり、リューの言うとおりだったのね… 私、お兄ちゃんのことホント
見損なったわ」
マリアは頬杖をついたままさっきから溜息ばかりついている。
(お兄さん優しいから、身寄りのない病人を一人にはしておけなかったのよ)
「でも、命に別状あるわけじゃなさそうだし、家政婦さんも付いているのよ。
今度の航路はお気に入りで楽しみにしてたくせに、あっさりキャンセル
しちゃうし、あんなに飛行機嫌いだったのに… よっぽど彼女のこと愛してる
のね…」
また大きな溜息をついた。そんなマリアの様子に莉江はくすっと笑った。
「あ、莉江さんも私のことブラコンだと思ってるんでしょ?」
(そうじゃないの。なんかちょっと羨ましいなぁと思って。兄妹っていい
ものね)
「こないだね、私とお兄ちゃんのことを知っている人に遇ったの。
娘さんの出産で病棟に来た女性なんだけど、昔私たちがいたリマの養護施設で
働いていたそうなの」
(そんなことがあったの… で、お兄さんにはそのこと教えてあげたの?)
「…」
マリアは首を横に振った。彼女の中の蟠りはかなり大きいようで、レオが
マイアミに戻って以来まったく連絡を取り合っていない。
「私たちのことよく覚えていて… 赤ん坊の私の面倒を凄くよく見てたって。
この傷ね、火事の中お兄ちゃんに背負われて逃げる途中に火傷した跡らしいの」
マリアは右肩に触れた。言われなければ気がつかないような小さな傷跡だった。
「養父母が中学になる前に整形手術を受けさせてくれて、今はほとんど目立た
なくなったけど、当時はケロイド状で酷かったみたいなの」
(そうなんだ…)
「お兄ちゃん自分のせいだって凄く気にしてたらしく、俺が大きくなったら
リマで一番えらい医者に手術してもらう、だから俺は絶対金持ちになるって
言ってたそうなの…」
(そう、そんな幼い頃から妹思いの優しいお兄さんだったのね。
じゃあ、マリアちゃんに再会した時、傷跡がこんなに綺麗になったのを見て
嬉しかったでしょうね?)
「うん…」
マリアは浮かない様子で生返事をした。
* * * * * * *
「で、マリアちゃんはまだ口を利いてくれないの?」
「ああ、それだけならいいんだが…」
「?」
「どうやら、俺と同い年くらいの男と付き合ってるらしい…」
「妻帯者なの?」
「いや、そうではなさそうだけど…」
「じゃあ、不倫っていうわけでもないんだから、別にいいじゃないの」
「リューっていういいヤツがそばにいるのに、よりにもよって…」
レオは深い溜息をついた。
「それって、きっと当てつけよ。あなたに対する一種の反発だと思うわ。
お兄ちゃんをこんなオバさんに盗られた…」
「なんだよ、それ?」
「ほんとに気づかないの? 彼女があなたに対して恋愛感情を持っていること」
「はあ? 俺たち兄妹だぞ、そんな馬鹿なことありえない!」
「ありえないことじゃないわ。実の兄を愛してしまうことだってあるのよ。
私が、そうだったように……」
遠い昔に想いを馳せるようにケイは宙をみつめた。
ケイには十以上も年の離れた兄がいた。
実兄といっても腹違いの異母兄妹になる。実家は地方の旧家だった。
彼女は父親が愛人に産ませた子供で、母親が亡くなり六歳の時に本宅に引き
取られた。兄は当時すでに高校生で画家を目指していた。家を継ぐ身の長男で
ありながらその自覚はまるでなく好き勝手なことをする、いわゆる放蕩息子
だった。ケイはそんな奔放で自由に生きる兄が大好きだった。
家の中で異端児扱いされる兄もまた、突然本宅に連れて来られ居場所のない
幼い妹のことを可愛がった。大好きなお兄ちゃんは、ケイの中でいつしか
憧憬から恋愛の対象へと変貌した。
兄は高校を卒業すると親の反対を押し切って東京の美大へ進学した。そして
愛する女を見つけケイの手の届かない存在となった。
兄のことを忘れるため六本木や銀座でホステスをしながら、親子ほども年の
離れた男たちの愛人になった。一流の女になるため話術や語学を身につけ
自分を磨き、兄のいる日本を逃れるようにフランスへ渡った。
「こんな話、誰にも話さず墓場まで持って行くつもりだったんだけど…
もう少しだったのにね」
ケイは乾いた笑みを浮かべた。
「マリアちゃんに初めて会った時ね、彼女も私と同じだと直感したわ。
男ってほんと、鈍感な生物。私の兄も妹の切なく苦しい胸の内なんて、知る由も
なかったんだろうな」
「……」
マリアが自分にそんな想いを抱いているなんて考えも及ばなかった。
「あなた、もうここを出て行って」
「え?」
「私ね、ホスピスに入ることにしたの。おそらく、よくもって後一か月だと思う
から」
「ケイ…」
「自分の身体のことくらい自分で分かるわよ。医大に献体する登録も済ませて
あるの。この家は売って慈善団体に寄付することも弁護士に話してある。
これまで好き勝手やってきて世のため人のため、なーんてこととは真逆の人生
だったでしょ。ま、最期くらい、こう綺麗に〆たいじゃない!」
悪戯っぽく片目を瞑った。
「一方的な中途解約はないだろ、俺は最後まで付き合うつもりだと言ったろ」
それは、彼女の最期を看取るつもりでここへ来たレオの真意だった。
「惚れた男に醜体を晒すわけにはいかないわ。あなたの中ではいつまでも
綺麗な女のままでいたいもの」
「けど…」
「もう十分よレオ、今までほんとにありがとね。お願いだから、最期は
私らしく逝かせて」
運命を受け入れ覚悟を決めた穏やかな顔だった。
「レオ…」
「ん?」
「あなた、前に言ったわよね。心底愛した女は、この世の中にたった一人しか
いないって。私も、兄が私の愛した最初で最後の男だとずっと思ってた。
でも、そうじゃなかった… あーあ、あと十年若ければなぁ… 」
ケイは医者から固く禁じられている煙草を銜えた。
レオが黙って火をつけてやると旨そうに一服し、ゆっくりと煙を吐いた。
「…あなたはまだ若いわ。過去に何があったか知らないけど、私のように
〝too late” になる前に自分の気持ちに正直になってみれば?
マリアちゃんも、彼女となら祝福してくれるわよ、きっと」
「……」
「さあ、そんな顔しないでハグしてちょうだい。ジゴロ最後のお勤めだから、
とびっきり上等なヤツじゃないとダメよ!」
レオは渾身の想いを込めて愛惜しむようにケイを抱きしめた。
三週間後、海を見下ろす豪華なホスピスでケイは静かに息を引き取った。
彼女の望み通り遺体は献体され一年後には若い医大生によってフロリダの青い
海に散骨される。ケイは最期の最期まで彼女らしく生き、その華麗な人生の
幕を引いた。




