10.落日の恋(1)
約束の時間より早めに海辺にあるレストランに着いた。
この店のテラス席から夕日を眺めるのが昔から好きだった。
一時間繰り上がる夏時間の間は日の入りは午後八時を廻る。長い一日を終えた
真夏の太陽が海面を真っ赤に染めながらゆっくりと大海原に消えてゆく姿は、
なんとも雄大で荘厳、神秘的でさえある。一年後、ここでこの美しい光景を
愛でることはおそらく、いや、絶対にないだろう・・・
水平線に沈む夕日をみつめるケイの横顔に淋しげな微笑が浮かんだ。
「よう、今夜はえらく早いんだな」
「たまには待たされてあげるのも悪くないかな、と思って」
ツンと顎を突き出すようにレオを見上げた。
「風邪で寝込んだなんて言うからしょぼくれてるんじゃないかと思ったら、
血色もいいし、相変わらず…」
「相変わらず、何? 可愛げがないとでも言いたいの?」
「とんでもない、相変わらず、とってもお綺麗です!」
「それはそれは、どーも」
久しぶりに交わすレオとの軽快な会話を楽しむようにケイはぺこりとお辞儀
をした。まだ微熱があり体調が万全というわけではないが、数日前から
エステに通い今日は念入りに化粧を施した。
「あ、そうだ。マリアのこと、ありがとな。いろんなとこ案内してもらった
そうで、凄く喜んでたよ」
「どういたしまして。いい娘ね、マリアちゃん。明るくて素直で…」
「そりゃあ、俺の妹だもん。あっ、聞いたぞ、ついにボディーガード、
ゲットしたらしいね」
「……」
「しかも、マリアと同い年なんだって? やるじゃん!」
冷やかすように大げさにウィンクした。
「ああ… いやーだ、リューのことね。ルルのダンナの甥っ子よ。
車のエアコンの調子が悪いから見てもらったの。
彼、バージニアでメカニックしていたらしいけど、オーナーと喧嘩して
首になったとかで、マイアミに職探しに来てるのよ。
そう言えば、マリアちゃんと同じハイスクールの一年後輩らしいわね」
ケイは思い出したように笑った。
リューは日本人の父とフィリピン人の母を持つハーフで日本語ができる。
偶然マリアと同じ高校に通っていたことが分かり、彼女が滞在中に三人で
食事をした。
「ほんとにそれだけか? 怪しいなあ~ 見舞いに行くって言ったら
すっごい剣幕で断られたしな…」
からかうようにケイの顔を覗きこんだ。
「いくら私が年下好みでも、それはないわ。それより、そっちの方こそ
どうなのよ?」
「……」
「綺麗な人ね、莉江さんて」
レオは一瞬、驚いたような顔をした。
「マリアちゃんに見せてもらったの、しゃ・し・ん! 予定よりずいぶん
遅れてるって思ったら、メリーランドに寄港ですものねぇー」
ケイも負けじと切り返した。
「あれは、たまたまボルティモアの港に上がったから、可愛い妹の顔を見に
行ったまでさ」
「どーだか?」
ケイは唇を突き出した。
「それよか、さっきから全然手つけてないけど、きょうの、なかなかいけるよ」
話題を逸らすように前菜のシュリンプカクテルを旨そうに頬ばった。
「なーんか、まだ、あまり食欲がなくて…」
気だるそうにレモンの輪切りを指で摘み口の中に入れた。
「なんだか熱っぽいしムカムカするし… あ、これって、もしかしたら
〝できちゃった” かな?」
「はあ!?」
レオは周囲の客が振り返るほどの奇声を発した。
「そんなに驚くことないじゃないの。今はね、五十、六十だって子供が産める
時代なのよ。インドでは確か、七十代の女性が妊娠出産したってニュースに
なってたし。あ、あの時かも? ほら、覚えてる? いつだったか、いきなり
ベッドに押し倒されて… ふむ、ちょうど計算も合うわ」
真顔で指折り数えるケイを見て、レオは海老を喉に詰まらせ激しく噎せた。
「馬鹿ね、冗談よ。そんなことあるはずないでしょ。はい、お水」
「あんまり驚かせるなよ、もうちょっとで窒息死するとこだった」
ナプキンで口元を押さえ、わざと大げさに苦しそうな声を出した。
「けど、微熱が続くようだったら医者に診てもらったほうがいいぞ。
定期健診とか、ちゃんとやってる? 今の予防医学はかなりレベル高いから、
一昔前までは不治の病と言われたものでも、初期ならほとんど完治するらしい
からな。今じゃ癌なんて、」
「大丈夫、私は不死身だから!」
レオの言葉を激しく遮った。
『癌』という言葉の響きに過剰反応する自分に少し戸惑った。
「ねえ、これからあなたのところへ行かない? 久しぶりに何もかも忘れて、
朝まで飲みたくなっちゃった…」
グラスに残ったワインを一気に飲み干すと、すっかり夜の帳が下りた真っ暗な
海に向かってケイは虚ろな眼差しを向けた。




