第1話 『運命のバングルを拾った』、みたいな
「うわぁぁぁぁっ!? 遅刻っ、遅刻だぁぁぁぁぁぁっ!?」
大慌てでパジャマから制服へと着替える俺。
カッターシャツのボタンをかけている途中、ちらりと机の上の目覚まし時計に目をやる。
時計の針は、俺がいつも家を出発する時間を少し超えた辺りを指していた。
「やばっ、早くしないと……って、あぁもうっ!!」
慌てて着替えていたため、俺のカッターシャツは、ボタンがちょうど1個ずつかけ違えている状態になってしまっていた。
これがファッションならちょっとはカッコがつくのだろうが、ただの白いカッターシャツではカッコがつくどころか、逆にだらしないようにしか見えない。
「ったく、時間がないってのに……っ!!」
俺は急いでボタンをかけなおすと、教科書やノートが入ったカバンを肩にかけ、勢いよく扉を開き、廊下へと飛び出した。
その弾みで、扉にかけてあった”KENJI”と書かれたネームプレートが、少しだけ右に傾いてしまう。
だがそれを直すどころか開いた扉を閉める余裕すらなかった俺は、階段を1段飛ばしで駆け降り、リビングへ向かってダッシュした。
「母さんっ!! 何でもっと早く起こしに来てくれなかったんだよっ!? これじゃ完全に遅刻しちまうよ~っ!!」
リビングに飛び込んだ俺は、キッチンにいる母さんに向かって大きな声で叫んだ。
すると、朝食の後片付けをしていたのであろう、エプロン姿の母さんがキッチンから顔を出してきた。
「な~に言ってるのよっ、私はちゃんと起こしに行ったわよ~? でもケン君、『あと5分、あと5分~……。』とか何とか寝言みたいに言ったりして、起きる気配すらなかったじゃないの~っ。そもそも、あんなに目覚ましが鳴ってるのに、ピクリとも反応しないケン君が悪いんじゃない~。自業自得よ、じ・ご・う・じ・と・く~っ♪」
母さんはそう言い残すと、鼻歌を歌いながら再びキッチンへと戻っていった。
「あぁ……もうっ、そんな事はわかってるよっ!!」
自分でちゃんと起きなかったのが悪いということは十分すぎるほど頭の中で理解しているものの、それを他の人からずばり言われると、理不尽ながらもムカついてしまうものである。
それが、こんな風に遅刻しかかってるようなピンチの時だと余計にイラっとしてしまう。
だが今はそんなことでイライラしている場合などではない。
俺はテーブルの上の皿に置かれていた食パンを大急ぎで食べると、リビングを飛び出し、玄関へと走っていった。
すると、
「あっ、ケン君~っ。ちょっとちょっと~っ!!」
と言いながら、母さんが俺のところへ小走りでやってきた。
「何だよ、急いでるって時に……ってか、その”ケン君”って呼び方、恥ずかしいからやめてくれっていつも言ってるだろっ!?」
「いいじゃな~い、ケン君はケン君なんだから~。ほらっ、それよりも~……。」
そう言うと母さんは、俺の手に何か棒のようなものを渡してきた。
それは、小さな折り畳みの傘であった。
「天気予報で、今日は午後から雨が降ってくるかもしれないって言ってたから、一応カバンに入れておいたほうがいいわよ? ほらっ、ケン君ってこういう日に限って傘を忘れて学校に行っちゃって、いつもびしょ濡れで家に帰ってきちゃうでしょ?」
「そりゃ小学校の時の話だろっ!? ……ったくもう、いつまで子ども扱いする気なんだか……。」
俺はぶつくさと頭を掻いて文句を言いながらも、渡された折り畳みの傘をカバンの中に無造作に突っ込んだ。
「い~えっ、ケン君はいつまでもず~っと私の子どもですっ!!」
母さんは手を腰に当てると、ふふんっと鼻を鳴らしながら胸を張った。
「いや、それってそういう意味じゃないんだけど……って、そんなことしてる場合じゃないってのっ!? 急がないと本当に遅刻しちまうよ~っ!!」
俺は慌ててカバンの口を閉じると、急いで外へ飛び出し、玄関の戸も閉めないままに走り出した。
遠くのほうで母さんが『気をつけていくのよ~、ケ~ンく~んっ!!』と手を振っているようだったが、『だからケン君って呼ぶなっ!!』というツッコミはおろか、後ろを振り向く余裕すらなかった俺は、急いで学校へと向かったのであった。
「結構やばいな……っ、これだと、ギリギリ滑り込めるかどうかってところか……?」
俺は息を切らせ、右腕に巻いた時計を見ながらそうつぶやいた。
幸い、俺が通う神夢第二高等学校は、俺の家からたいして距離が離れているわけではなく、普段なら結構な時間まで家に居ても十分チャイムに間に合うくらいの場所に建っていた。
だが正直なところ、そんな距離ですら、全力疾走しても間に合うかどうか不安なところであった。
しかし、そんなことを考えている余裕など、今の俺には一切なかった。
俺はとにかく地面を思い切り蹴り上げ、コンクリートの道をひたすら駆け抜ける。
その途中、ふと、小さい頃よく遊んでいた公園が視界に入ってきて、俺は少しだけ、学校へ行くその足を緩めた。
遅刻しかかっているような時間とはいえまだ朝早いからか、公園で遊ぶ子どもの姿はまだ見えない。
『懐かしいな、そういや俺も、昔この公園でよく遊んでたっけ……。』
俺はその場で立ち止まり、少しの間幼き日の思い出に浸っていた。
だが、静かな街に大きく鳴り響くチャイムの音色が、俺を無理矢理に”遅刻”という現実へと引き戻した。
「やばっ!? こんな事してる場合じゃなかった!!」
このチャイムが鳴り終わってしまえば、俺は遅刻確定となってしまう。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
学校へと急ぐため、再び走り出そうとした、ちょうどそのときであった。
すぐそばの植え込みの中に、キラリと光る”何か”があるのことに目が留まり、俺は再びその歩みを止めた。
「ん……、あれは……何だ……?」
遅刻しかかっている今の状態で、正直そんな時間などまったくなかったのだが、”それ”がいったい何なのか少し気になってしまった俺は、ちょっとだけその植え込みの中を探してみることにした。
茂みの奥のほうを探してみると、太陽の光に照らされたわっかのようなものを見つけた。
「何だこれ……? 腕輪……、いや、バングル、か……?」
俺が茂みで見つけたのは、金属で出来た銀色のバングルであった。
ちょうど、俺の手首にぴったりはまるくらいの大きさで、特に凝ったような装飾があるわけでもなく、目立つところといえば、少し大きめな紅い宝石のような石と、その周りに小さく刻まれたアラビア数字らしき文字くらいなもので、その他は特段変わったところのないただのバングルのようである。
その裏側を見てみると、こちらにも小さく”D.B.”という文字が刻まれていた。
「”D.B.”……、いったい何のことだ……? ……って、そんなこと考えてる場合じゃねぇっ!! 早く行かないと本当に遅刻しちまうっ!!」
俺はとりあえず、”D.B.”の意味を考えるのを後回しにし、拾ったバングルを制服のズボンのポケットに突っ込み、学校へと向かって猛ダッシュするのであった――
ケンジが立ち去った後の公園。
その入り口の前に、謎の少女と執事服の男が現れた。
少女の背丈はかなり低く、地面につくかつかないかというくらい長い金髪をウェーブさせており、綺麗な羽の形をした髪留めをつけ、薄黄緑色のワンピースを身に纏い、まるでファンタジーの中の妖精が飛び出してきたかのような印象を受ける。
そのか弱そうな細い右腕には、先ほどケンジが拾ったのと同じ形の、淡い水色のバングルを身につけており、埋め込まれていた碧い宝石が太陽の光でキラリと輝いていた。
男のほうは、全身真っ黒な執事服を身に纏い、右眼のところにモノクルを装着し、これまた漫画の中から出てきたかのような、まさに『THE・執事』というべき見た目である。
服の右腕の袖から、こちらも同じく真っ白なバングルが顔を覗かせていた。
少女はケンジが走り去った方向を見つめると、少し笑みを浮かべ、そして隣に立つ執事服の男に話かけるように喋り始めた。
「くくく……っ、あやつが、”運命”に選ばれし者、か……。のう、セバス?」
その声は、確かに歳相応の可愛らしい声質ではあったが、その口調のせいか、まるで年老いた女性のような、いささかアンバランスな印象を受けてしまう。
「……彼が”運命”に選ばれたのかどうか、私にはよくわかりかねます、お嬢様。後、私は”セバス”ではなく、斑鳩です。」
執事服の男――斑鳩は、同じ方向を見つめながら、眉ひとつ動かすことなく、静かにそう返答した。
斑鳩は続けて少女――”お嬢様”に尋ねる。
「お嬢様、なぜわざわざあの場所に”バングル”を置き、それを誰かに拾わせるような真似などなさったのですか?」
「なぜ……、だと?」
そう言うと”お嬢様”は、にぃと口元を歪ませ、まるで翌日の遠足を楽しみにする子どものような声で続けて答えた。
「そうじゃの、色々と理由はあるが……、ただ、”面白そう”な事が起こると思ったから、わしは”バングル”を置いたのじゃよ、セバス。」
「”面白そう”な事、ですか?」
「そうじゃ。わしがあの場に”バングル”を置いたのはただの偶然。そして、あやつがそれを拾ったのもただの偶然じゃ。じゃがの、セバス。」
「?」
今まで一切視線を逸らせなかった斑鳩が、初めて”お嬢様”のほうへとその目線を向けた。
”お嬢様”はケンジの去った方向をじっと見つめながら、さらに続けて言葉をつなぐ。
「今日あの瞬間、あやつとあの”バングル”がこの場で出会った事は、偶然ではなく必然――あやつ自身の”運命”だと思っとるんじゃよ。そしてその”運命”は、わしらに、とてつもなく”面白い”モノをもたらしてくれる……、わしはきっとそうなると思っておる。」
「……?」
斑鳩は、”お嬢様”の言っている意味がよくわからないという風に首をかしげた。
「まぁ、いずれおぬしにもわかる時が来るハズじゃろうて……。さて、やるべき事も終えたことじゃし、そろそろ帰るとするかの、セバス?」
「……かしこまりました。後、私は斑鳩です、お嬢様。」
2人はそう言うと、ケンジが去った方向に背を向け、その場から立ち去ろうとした。
その刹那、”お嬢様”はその場で立ち止まると後方へと振り返り、ほんの少し笑みを浮かべ、そして囁くような小さな声で、そっと言葉を口にした。
「……わしの期待を裏切らんでくれよ、少年?」
そう言うと”お嬢様”は再び前へと向き直り、斑鳩とともに公園を後にしたのであった――
「ようよう~、ケンジくぅ~ん。君が遅刻なんてめずらしいじゃないかぁ~。いったい今日はどうしたんだぁ~い?」
昼休み、俺の隣の席で、中学からの友人……というか悪友でもある笹木コージが、弁当を持ち、にやけ面をしながら気持ちの悪い声で俺に話しかけてきた。
おそらくは、滅多なことでは遅刻をしない俺が遅刻してきたことが、連続遅刻魔のコージにとって喜ばしかったのだろう、まったくもって不愉快な話である。
「身体の調子でも悪いのかい? ……ふむ、一見顔色は良さそうに見えるけど、熱とかは大丈夫かい?」
同じく中学からの友達で、俺の真後ろの席の山峡リョウが、弁当を手に持ったまま、心配そうな表情で俺の顔を見てきた。
リョウは性別的には男なのだが、『男として生まれてきたことがもったいない(コージ談)』と言われるほどの美少女顔であり、それに加え、小学生の時に声変わりをするのを忘れてきたかのような、女性っぽい高い声も合わさり、セーラー服を着ていれば誰もが女子生徒と見間違うほどである。
かくいう俺も知り合った当初は、リョウと少し目線が合うだけで心臓をドキドキとさせられていたものである。
だが、長い付き合いの中でそれもすっかり慣れてしまったのか、今ではこうして昼飯を一緒に食べたりしていても平常心を保てるようにまでなっていた。
……とまぁ、そんなことは置いておいて。
「あぁ、心配してくれてありがとうな、リョウ。でも、そういうのじゃねぇから安心してくれ。……っていうか、俺だって来る途中で変なバングルさえ拾ってなければ、遅刻にはならずに済んだんだよな~……。はぁ~……。」
俺は溜め息をつきながら、カバンの中からいくつかの菓子パンとイチゴ牛乳を取り出し、自分の机の上に並べ始める。
「え……っ、変な……バングル……っ!?」
リョウが、まるで隠し事がばれそうになっている子どものような、動揺した声をあげた。
明らかに様子がおかしかったので、俺は菓子パンの袋を開けるのを途中でやめ、リョウに訊きかえした。
「ど、どうかしたか、リョウ?」
「えっ、あっ、ううん、何でもないよケンジっ!! それよりも、そのバングルってどんなのだい?」
リョウは両手と首をぶんぶんと振りながら慌てて否定し、話をそらすように俺に尋ねてきた。
「おっ、おう。」
俺はなんとなくリョウの態度に疑問を覚えながらも、ポケットの中から今朝拾ったバングルを取り出し、リョウに渡した。
「ほらっ、こいつがそうだよ。」
「ふぅむ、これが……。」
そう言いながら俺からバングルを受け取ったリョウは、それをぐるぐると回してみたり、細かいところまで確認するかのようにまじまじと眺めていた。
「まんばまんば? ほれはいっはいなんは? もれにぼみせべくれぼ~っ!!」
すると、俺とリョウが話している間に、のんきにも弁当をずっと食べ続けていたコージが、弁当のご飯やおかずを口のなかでもぐもぐとさせながら話に割って入ってきた。
ちなみに、コージの言っていたことを翻訳すると、『何だ何だ? それはいったい何だ? 俺にも見せてくれよ~っ!!』である。
「だーっ、きったねーな!? 米粒がこっちまで飛んで来てんじゃねーかっ!! 話しかけに来る前に先に先に口の中の食べ物を何とかしろっ!!」
「わわった。(わかった。)」
コージはそう言うと、ご飯やらおかずやらを口の中に無理矢理詰め込んで、その後ペットボトルのお茶を一気飲みし、最後にげふーと大きなゲップをして弁当を綺麗にたいらげた。
「ふー、食った食ったー。で、それいったい何だ?」
「何も聞いてなかったのかよ……ったく。」
俺は『やれやれ』と言わんばかりの表情で頭をかいた。
「ほらっ、これだよ、コージ。」
リョウはそう言うと、手にしていたバングルをコージに渡した。
「へぇー、変わったバングルだなー? ほれっ。」
細かく観察するように見ていたリョウとは対照的に、コージはあまり興味なさげな感じでバングルを見た後、そう言いながらいきなり俺にバングルを放り投げてきた。
「うわっと!!」
俺は慌てて両手で受け皿を作り、バングルをキャッチする。
「いきなり投げたらびっくりするだろーがっ!?」
「おっ、すまんすまん~。」
コージは笑いながらそう言い、さらに続けた。
「しっかしよー、ケンジ。それっていったい何なんだ? 何か変な石みたいなのがくっついてるし、その周りの数字とかもよくわかんねーしさー?」
「『不思議な』という意味では僕もコージと同意見だね。何か機械のようなものも組み込まれてるみたいだけど、いったいどうやって使うものなんだろう……?」
リョウがコージに続いてそう言った。
まぁ確かに、それは俺も感じている部分ではあった。
朝は急いでいたからあまり気に留めていなかったが、いったいこのバングルは何なのか、どうやって使用するものなのか、そもそもこのバングルがあの公園に落ちていたのはなぜか、そして……。
「”D.B.”、なぁ……。」
つい、考えていたことが口に出てしまっていたらしい。
それは何気なく呟いたほんの小さな呟きだった。
しかし、そんな言葉に、反応した者が1人……。
「”D.B.”……っ!?」
「えっ?」
俺の座っている席の、ちょうど後ろの辺りから、聞き覚えのある女子の声が響いてきた。
振り向いてみるとそこには、このクラスで、否、俺たちの学年で一番の優等生であり、”神夢の姫御子”や”学舎の女神”などの異名(コージ談)で名高いうちの高校の生徒会副会長、神宮寺レイナの姿があった。
神宮寺は、おそらくは職員室に持っていくのであろうプリント類を抱えたまま、驚いた表情でこちらのほうを見ていた。
「じ……、神宮寺?」
何が起こったのかよくわからなかった俺は、思わず神宮寺に話しかけていた。
「……。」
しかし、神宮寺からの反応はない。
「お、おい、神宮寺?」
俺はもう1度、神宮寺の顔の前で手を振りながら話しかけた。
「ふぇ……?」
すると、ようやく俺の存在に気がついたのか、みるみるうちに神宮寺の頬が赤く染まり、あたふたとうろたえ始めた。
「えっ!? あっ、いえ……、あの、その……っ。」
神宮寺はしどろもどろになりながら言葉を詰まらせると、
「な……、なんでもありませんっ!!」
と猛烈な勢いで頭を下げてそう言うと、教室から大慌てで飛び出していってしまったのであった。
「あっ、ちょっ、おいっ、神宮寺っ!?」
俺も慌てて神宮寺を呼びとめようと廊下へと向かったが、もうすでに神宮寺の姿はそこにはなかった。
「……。」
口を開けたまま、廊下に半分身を乗り出した状態のまま立ち尽くす俺。
振り返ってみると、コージとリョウ、いや、それだけでなく、教室中のみんなが同じような驚いた顔でこちらを見つめていた。
まぁ、神宮寺は普段清楚でおしとやかといった、どことなく良家のお嬢様のような雰囲気を醸し出しているやつなので、あんな風に動揺して取り乱している姿など今まで誰も見たことがなかったのだから、それは仕方ないことだと思う。
しかし、なぜ神宮寺はあんなに取り乱したりしたのだろうか。
その理由をあれこれ考えていると、誰かに肩をぽんと叩かれた。
振り向いてみると、そこにはコージの姿が。
「なぁ、ケンジ……。」
呆けたままの顔で、コージは訊いてきた。
コージはさらに続ける。
「お前、何か神宮寺にしたのか……?」
「いや、何もしてない……はず……。」
俺も、コージと同じ表情をしながら、そう返事するのであった――
校舎に響き渡る、下校時刻を知らせる鐘の音。
今日はいろいろとあった1日だったが、何事もなく午後の授業も終えることが出来た。
慌てて教室から飛び出していった神宮寺も、昼休みが終わる頃に教室に戻ってきて、何事もなかったかのように一緒に授業を受けていた。
まぁ、違うところといえば、なぜか神宮寺がずっと俺のほうに視線を向け続け、俺が振り向くと慌てて教科書で顔を隠したりしていたというくらいであろうか。
……本当に、俺がいったい何をしたというんだろうか。
それを直接神宮寺に訊いてみようとも思ったのだが、どうやら神宮寺は俺の気づかないうちにさっさと帰ってしまったらしく、すでに教室に彼女の姿はなかった。
「……しゃーねーな、帰るか。」
神宮寺には明日訊いてみようと思い、帰ろうとして俺は席を立ち上がった。
ふと、窓の外を見てみると、お昼までの晴天がまるで嘘であったかのように、どんよりとした雲が空を覆いつくし、校庭にはいくつもの大きな水溜りが出来上がっていた。
「雨かー、傘持ってきておいてよかった~……。」
俺はカバンの中から折りたたみの傘を取り出し、教室を出て、下駄箱へと向かった。
「おーい、ケンジーっ!!」
すると後ろから、同じく教室を出たコージが俺の元へとやってきた。
「ケンジ、一緒に帰ろーぜっ。」
「それはいいけど……ってか、リョウは?」
「あぁ、リョウなら日直の仕事で職員室に行くって言ってたぜ?」
「あー、そういや今日はリョウが日直の日だったけなー……、ん、職員室といえば、コージ今日は赤拳に呼び出されてなかったっけか?」
赤拳とは、俺たちのクラスの担任であり、剣道部の顧問を受け持っている体育教師のことである。
筋骨隆々とした体つきで、夏でも冬でも年がら年中ノースリープを着ているという筋肉バ……もとい、非常に元気な先生で、右眼の部分には、なぜか大きな傷が一本入っているという、イマイチ素性がよくわからないお方である。
ちなみに、『赤拳』というあだ名の由来だが、本名を『柏崎拳』といい、いつも学校にやってくる時に真っ赤な色のバイク用のグローブをつけているので、俺たちのクラスの間でいつしか赤拳と呼ばれるようになったのである。
……後、これはほんの噂なのだが、赤拳が愛用している真っ赤なグローブは、元々真っ白なものであったらしく、その昔、街にはびこる不良たちにたった1人で殴りこみ、そのすべてを血祭りにあげ、その時に純白だったグローブがおどろおどろしい血の色に染まってしまったとかなんとか……。
噂というか、もはや都市伝説のようであるが、誰もその噂を確認しようとするものはおらず、また本人もその件に関して特に何もコメントしてはいないので、おそらくはあの見かけと真っ赤なグローブから生まれた、ただの噂なのだろうと思う。
いや、噂であると信じたい。
とまぁ、そんなことは置いておいて。
「赤拳に呼び出されてるのに、帰るとか言ってていいのか?」
「え、何か言ったか?」
「いや、だから呼ばれてたろ? 放課後職員室まで来いって。」
「何か言ったか?」
「いやだから、赤拳に「な・ん・か・言・っ・た・か?」」
コージは、俺の言葉にかぶせるように訊き返してきた。
あ、こいつ、全力で現実から目を逸らそうとしてやがるな?
気のせいか、コージの顔も引きつり、目もあまり焦点が合ってないように見える。
ほんのわずかだが、身体も小刻みに震えているようである。
そんなに赤拳に呼ばれるのが恐ろしいか、コージよ。
……まぁ、あの見かけと噂のことを考えると、これも仕方のないことかもしれないが。
「気持ちはわからなくもないけどな……でもよ、赤拳からの呼び出しをすっぽかしたりしたら、それこそ余計に後が怖くなるんじゃねーのか?」
「うぐっ、……それもそうだよな、やっぱ……。」
俺の言葉にやっと観念したのか、コージはがっくりとうなだれた。
俺は何も言わず、そっとコージの肩に手を置いた。
ちなみに、連続遅刻魔であるコージは、定期テストの赤点取得最多ホルダーでもある。
おそらく今回の赤拳の呼び出しも成績がらみのことなのだろう。
「行ってくる……。また明日な……。」
コージは肩を落としたまま、重い足取りで職員室へと向かっていった。
それはさながら生きる屍といったところであろうか。
「あ、あぁ、また明日……。」
コージのそんな姿を見た俺は、もはや何も言葉をかけることすら出来なかった……が、元はと言えば遅刻をしまくったり赤点を取りまくるコージにも問題があるのだ。
冷静になって考えてみると、俺がコージに同情してやる義理など何もなかった。
まぁ、一応友達なので、このくらいのことはしといてやるか。
「合掌。」
俺は手のひらを合わせ、職員室という名の死地へと赴いた1人の友人の無事を、ただ目を瞑り祈るのであった――
職員室へと向かうコージを見送った後、俺は1人家路への道を歩いていた。
雨が降りしきる中、折りたたみの傘を差しながら道を歩いていると、ふと、あの”バングル”を拾った公園が目に入ってきた。
早く家に帰ろう、そうも思ったが、バングルのことも少し気になっていたので、ちょっとだけ公園に立ち寄ってみることにした。
やはり雨が降っているからか、遊具で遊ぶものはおろか、公園には人の影すらなかった。
俺は屋根のついた休憩スペースを見つけ、そこにあった長椅子に腰掛けた。
雨で少し長椅子が濡れてはいたが、その辺りは気にしないでおこう。
俺はカバンの中からあのバングルを取り出し、改めて眺めてみた。
「……はぁ、結局、バングルが何なのかわからないままだったなぁ……。」
俺はそんなことを言いながら、何気なくつけていた腕時計を外し、バングルを右腕の手首にはめてみる。
やっぱり、最初バングルを拾ったときに思ったとおり、それは俺の手首にしっくりとくるサイズであった。
が、しかし、はめてはみたものの、やはり特に何の変哲もない、ただのバングル……。
カシャン。
「……えっ?」
謎の金属音が、微かにバングルから鳴った。
そう、ちょうど何かをロックするかのような……。
「えっ、ちょっ、まさか……!?」
嫌な予感がした俺は、バングルを外そうとして引っ張ってみた。
しかし、バングルはまるで俺の腕と同化したかのように、がっちりとはまり、まったく外れようとしてくれない。
「なんだこれ……っ、なんで外れねぇんだ……っ!?」
俺はガチャガチャとバングルをいじくってみたが、一度はまったバングルが俺の手首から外れることは二度となかった。
「ついてねぇ……。」
俺はその場でがっくりとうなだれた。
まるで俺の心情を表しているかのように、雨もその勢いを増す。
「……ま、まぁ、これはこれでカッコいいし……、うちの学校、そこまで服装とかに厳しいわけじゃないから……。たぶんバングルつけてて怒られることはない……はず……。」
俺の通う学校は、周りの学校に比べると服装に関する校則は極端にゆるい。
さすがに耳や鼻などにピアスをつけるなどは許されてはいないが、確かバングル程度ならばOKだったはずだ。
少なくとも、赤拳に職員室へ呼び出されるような事態にはならないはずだ。
とりあえず、『バングルが外れない』という現実か目を逸らし、無理矢理にではあるが、そういう風に納得することにした。
「雨かなりひどくなってきたな……。バングルの外し方は後でググってみるとして、そろそろ帰るか。」
俺が家に帰ろうとして長椅子から立ち上がった、ちょうどその時。
雨の降りしきる公園のど真ん中に立つ”そいつ”の存在に、俺は気づいた。
”そいつ”は、(まぁ、雨の中わざわざ遊ぼうなど誰も思わないだろうが、)ブランコや滑り台などの遊具で遊ぶわけでもなく、ただその場に立っていた。
雨がすごくてしっかりと視認できるわけではなかったが、どうもレインコートを身に纏っているらしい。
しかし、フードを深々と被っていたので、背丈が俺より少し低いくらいである以外は、その表情はおろか、男か女かも判別することはできなかった。
だが、1つだけはっきりとわかることがある。
それは、”レインコート”のやろうが、明らかに俺のほうへ視線を向けている、ということだ。
「……誰だ、俺に何か用か?」
俺は”レインコート”に向かって話しかける。
「……。」
しかし、俺の呼びかけに反応を示さない。
この豪雨だし、もしかしたら聞こえていないのだろうか。
そう思った俺は、もう一度呼びかけてみることにした。
「おーい、聞こえてるかーっ? 何か用でもあるのかーっ?」
先ほどよりも大きな声で、俺は”レインコート”に呼びかける。
「……。」
だが、”レインコート”は何も答えない。
「……ったく、いったい何だってん……っ!?」
不審に思い、”レインコート”のやろうに近づくため、長椅子を立ち上がったその時だった。
「”ドリーミング・フィールド”……、展開……っ!!」
雨で周りの音が聞こえない中、なぜかその透き通るような女の声だけが、はっきりと俺の耳に届いてきた。
「……っ!?」
何か嫌な感じを覚えた俺は、思わずその場で立ち止まる。
それとほぼ同時であった。
一瞬、周囲の景色がぐにゃりと歪み、そして次の瞬間、目の前の光景は一変した。
「な……っ、こっ、これはいったい……っ!?」
俺は何が起こったのかさっぱり理解できなかったので、とりあえずぐるりと辺りを見回していた。
俺は先ほどまで、確かに公園の中にいたはすだ。
だが、ブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具はもちろんのこと、俺がさっきまで腰をかけていた長椅子や、その上に置いていたはずのカバンや傘までもが、その姿を消し、代わりに何もないどこまでも果てしなく続いているのかと思うほどの広大な床が広がっている。
バケツをひっくり返したかのような雨をもたらしていた曇天の空も、いつの間にか赤色や紫色がマーブルのように混ざり合った不気味な空にすり替わっていた。
「ここは……、どこだ……? さっきまで公園にいたよな、俺……?」
俺の脳内キャパシティを遥かに超える理解不能な事態が、俺の身に次々と降りかかっていた。
「ここは”ドリーミング・フィールド”。無限に広がる、”夢”の世界……。」
「っ!?」
ただでさえ訳の分からない事が起こりすぎて混乱しているところに、突然の背後から女の声が聞こえてきて、俺は思わずバッと勢いよく振り返った。
驚く俺の視線の先には、さっきの”レインコート”のやろう……もとい、”レインコートの女”の姿が。
先ほどまで大雨の中に立っていたはずなのに、そのレインコートは濡れるどころか、水滴ひとつすらついてなどいなかった。
それは俺の制服も同じで、屋根の下には確かにいたものの、多少なりと付いていたはずの雨粒がすっかりと乾き、いや、まるで『最初からなかった』かのように綺麗な状態となっていた。
「ど……っ、”ドリーミング・フィールド”、だと……っ!?」
「そう……。」
”レインコートの女”は、静かにそう言った。
「お、お前……っ、俺をこんなところに連れてきたりして、いったい何が目的なんだっ!? そもそも、お前はいったい……っ!?」
いったい誰なんだ、そう言いかけたところで俺は、”女”の腕に装着された”あるもの”の存在に気がついた。
それは、今まさに俺が右腕につけているのと同じ、銀色に輝く”バングル”であった。
「そっ、そのバングル……っ!?」
「……これ?」
”レインコートの女”は、(フードを被っていてよく分からないが、恐らく)不思議そうな表情で自分の腕に巻かれた”バングル”を見つめると、そのままその腕をまっすぐこちらに突き出してきた。
「そのバングルは、やっぱり……っ!! なぁ、バングル《これ》はいったい何なんだっ!? お前は何か知ってるのかっ!?」
いつの間にか俺は、矢継ぎ早に”レインコートの女”に言葉を浴びせかけていた。
「……。」
しかし、”レインコートの女”は俺の問いかけには一切答えず、まっすぐ腕を突き出したままでその場に立ち続けている。
その立ち姿は、若干の不気味さすら感じてしまうほどである。
「お……、おい……っ!?」
「……”バングル”のこと、知りたい……?」
『何か答えろよ』、俺がそう言おうとしたその時、”レインコートの女”は少し不思議そうな感じにそう呟くと、俺のほうに突き出したままだった腕を、ゆっくり天高く伸ばした。
「……知りたいなら、教えてあげる……。ドリーミング・チェンジ……っ!!」
”レインコートの女”がそう言った直後、まるで呼びかけに応じるかのように、天高く伸ばされた腕が、否、腕に装着された”バングル”が、まばゆい光を放ち始めた。
「なっ、まぶし……っ!?」
あまりのまぶしさに、俺は思わず腕で目を覆ってしまう。
光は次第にその輝きを増していき、そして”女”の身体を侵食していくかのように広がり続けていく。
やがて、”女”の全身を光がすっぽりと包み込むと、まるでパンパンになるまで空気を入れすぎた風船が、その限界を迎えたかのように弾けとび、そして消え去った。
「なっ、何が起こ……っ!?」
俺は目を覆い隠していた腕をどかし、”女”がいたあたりの方角に目線を向け、そして視界に飛び込んできた”光景”に、目を丸くした。
なぜなら、そこにいたのは、先ほどまでの”レインコートの女”ではなかったからだ。
そう、そこにいたのは……。
「ただし……、私に勝てたら、ね……。」
そこにいたのは、自分の身の丈ほどはあろうかというくらいの剣の、その切先をまっすぐにコチラに向けている”女剣士”だったのだ――