無茶苦茶ダイエット
小林直美28歳、独身。
彼女は今とても浮かれていた。2年ほど前から交際しているケンジから大事な話があるとのメールを受け取っていたのだ。
同期や友人たちは次々と結婚し、両親にも結婚を急かされていた。そのタイミングで「大事な話」ともなれば、期待するなという方が無理であろう。
だから彼女は部屋を掃除し、髪を整え、彼をもてなすためのクッキーとマフィンを焼きながらその帰りをまだかまだかと待っていた。
そしてとうとうチャイムが鳴り、直美の部屋に入ってきたケンジが口にしたのは、直美の期待に添うような言葉ではなかった。
「別れよう」
直美は焼きたてクッキーをつまんだまま固まった。人間、突然予想もしないことを言われると物も言えなくなるものである。
いつまでたってもなんのリアクションもない直美に痺れをきらしたのか、ケンジがその理由を語り始めた。
「出会った頃から少しポッチャリしてるなとは思ってたけど、ここ最近の直美は酷すぎるよ。直美は優しくて、料理も家事もうまくて、凄く好きだから付き合っていたけど……もう限界だ」
そう、直美はやや……というかかなり恰幅の良い女性であった。
もともと料理が好きであった彼女はケンジと付き合うようになってさらに料理の腕を磨き、その美味しすぎる食事のせいでどんどん体重を増やしてしまったのである。
「まっ、待って!」
ようやく硬直が解けた直美はクッキーを手に持ったままケンジにすがり付く。
「ごめんなさい、私あなたの気持ちに気がつかなくて……必ずダイエットをして痩せるから、お願い別れるなんて言わないで」
ケンジはその言葉を待っていましたとでもいうように直美の手を取ってにっこり笑った。
「分かった。じゃあとりあえず1ヶ月で5キロ痩せてくれ」
「ご、ごきろ?」
「ああ、その体重なら5キロなんてあっという間だよ。その言葉が本当なら、やってくれるよね?」
直美は顔を引きつらせながら頷くしかなかった。
それから27日後……
「なっ、なんでよ!」
直美は体重計の前で絶望していた。まったく体重が減っていないのだ。
「ちゃんとバナナダイエットもしたしウォーキングだってしてたしグラタンダイエットだってしたのに!」
バナナダイエットとは一昔前に流行った朝バナナを食べるというダイエットである。直美は毎朝バナナを一房平らげ、味に飽きるとヨーグルトをかけたりチョコレートをかけるなどの工夫をしながら必死にダイエットに取り組んでいた。
そして毎日コンビニまでウォーキングを行い、わざわざコンビニで重いジュースを買い込んで更なる負荷を自らに与えてダイエットに励んでいた。
グラタンダイエットに関してはよく分からないが、とにかく真剣に取り組んでいた。
なのに体重計の針は27日前とほとんど変わらない。
神様はなんと非情なのだろう。
しかし嘆いていても仕方がない。残された時間はわずか3日。
どんな手を使ってでも5キロ痩せてやる。直美はそう強く誓った。
まず一日目。直美が行ったのは献血だ。
血を抜くことで物理的に体重を減らす。なんて斬新なダイエット法だろう。しかも確実に体重を減らすことができる。
しかし体への負担も考え、直美は待合室にあるお菓子をいくつか頬張ってジュースでそれを流し込んだ。
そこまでしたにも関わらず、体重は減らなかった。
二日目。直美が行ったのは近所のスーパー銭湯。
暑いのが苦手な直美だが、愛するケンジのため意を決してサウナへ足を踏み入れる。そしてものの五分で限界を迎えた。慣れないことをするからである。
しかし直美は諦めない。
脱衣場にある細長い冷蔵庫に入っているフルーツ牛乳で体力を回復し、意気揚々と灼熱の戦場へと赴く。
直美はサウナと脱衣場を何往復もし、たっぷりと汗を流した。直美が帰る頃には冷蔵庫が空っぽになっていたという。
しかしここまでやっても、やはり体重は減らなかった。
直美は沸き上がる絶望を噛み締めながら眠りにつく。
三日目。
直美は朝から何も飲まず、何も喰わずにただただ外を走った。
彼女は運動がなによりも嫌いだが、もうこれ以外にやれることはない。29日間でほとんど痩せることができなかった直美がたった1日で5キロもの体重を落とすことがはたしてできるのか。直美も内心絶望していたが、なにもせずに家でゴロゴロしていることはできなかった。
ドタドタ地面と自らの体についた肉を揺らしながら髪を振り乱し一心不乱に走る直美に道行く人は好奇の視線を向けたが、直美にとってそんなのはどうでも良いことである。
膝がその体重を支えきれず何度も転ぶが、その度に直美は立ち上がる。大量の汗をかき、酷い飢えと乾きを感じようとも、決して水や食べ物を口にしようとはしない。
直美は目に入る汗で視界がぼやけ、朦朧とする意識の中で、ただケンジのことだけを考えていた。
本当の限界を迎え地面に倒れこんで意識を失うその瞬間までケンジのことを想っていた。
「……ここは?」
目を覚ました直美の目に飛び込んできたのは無機質な白い天井と、ケンジの泣き顔であった。
「直美ッ!!」
ケンジはその泣き顔を直美の柔らかい腹に押し付けるようにして抱きつく。
直美はここがどこだか、どうしてここに自分がいるのかも分からないまま泣いてるケンジの頭を撫でる。そしてこの時ようやく自分の腕に刺さっている針に気が付いた。針にはチューブが付いていて、チューブには液体が流れている。点滴だ。
「だっ、ダメよ! 私は5キロ痩せなくちゃいけないのに、こんなもの――」
「良いんだ! もう良いんだよ……」
針を抜こうとする直美の腕を押さえ、ケンジはゆっくり首を振った。
「ごめん、俺のせいでこんな事に。直美は脱水症状で倒れて救急車で運ばれてきたんだ。俺が無茶なお願いしたせいで……本当にごめん。もう良いんだ、直美はそのままでいい」
「ケンジ……」
退院後、直美の部屋へ行ったケンジは大量のチョコレートの包み紙やジュースの缶を発見して破局の危機に陥ったが、二人は結局結婚し、幸せな家庭を築いたという。